07


「始まった! ヒューゴ、頑張れぇ!」

 両手を口に当てて叫ぶ先に、棍棒を懸命に振り回すヒューゴがいる。大人の男達も棍棒を振り回しており、さながら大乱闘だ。
 体の大きな大人に交じり、走り回る姿はなんだか滑稽だ。叩かれるたびに、牡牛が大きく声を上げる。
 砂煙を上げ、大きく鳴きながら暴れ回る牡牛に、何人か弾き飛ばされた姿が見えた。
 これでは、怪我人が続出しても無理はない。

「……」

 ふと心配になり、ディックはアレクシアを見る。
 彼女は痛ましいものを見るように、目を伏せていた。

「母さん……大丈夫?」

 その声に気付き、夫人がアレクシアを見た。

「顔色が良くないね。具合悪いなら、向こうで休みなさいな」
「ええ、ごめんなさい。少し、離れています」

 夫人に連れられて、この場を離れようとするアレクシアに、ディックは駆け寄った。介抱しようと近付くと、

「あなたはお友達と一緒にいなさい」

 そう、やんわりと押し留められた。

 アレクシアを案じつつ、仕方なく囲いのもとへ戻れば、イザベラは囲いを形成する丸太の、一段目に足を掛けていた。
 一番上の丸太に腕を乗せて、大きな声を上げていたが、すぐにこちらに気付いた。枠から飛び降りて、こちらに向かってくる。

「アレクシアさん、大丈夫?」
「うん」

 イザベラが心配そうな顔で尋ねてくるのを、ディックは小さく頷いて返した。
 囲いの中を走る男達を応援する、女の大きな声がやかましい。囲いの中に視線を向けたディックは、ヒューゴにも目を向けた。
 派手に転倒したのか、額と膝から血が出ている。男達に追い立てられ、逃げ場のない牡牛が、囲いの中を哀れな程に駆け回っている。
 しこたま殴られたのか、血反吐を吐きながら駆ける姿が、痛ましく思えた。

 その姿を哀れに思う者は誰もいない。大きな声で歓声を上げ、更には囃し立てる始末だ。
 アレクシアが、気分を悪くするのも無理はない。彼女は、そんな暴力的な場面を見ることに、苦痛を感じてしまう。

 と――
 歓声が悲鳴へと変わった。ディックが囲いに顔を向ければ、牡牛が囲いを突き破って、観客の群れへと突っ込んでいる。
 逃げ惑う者を次々と跳ね飛ばしながら、こちらに向かってきていた。人形のように跳ね飛ばされる人々を見て、反射的にディックは後ずさりをする。

「逃げなきゃ!」

 イザベラがそう言いながら、背を向けて走り出した。しかし、死に物狂いで走る獣の速さは魔物にも引けを取らない。
 あっという間に差し迫る牡牛に、イザベラが悲鳴を上げた。

「エラ!」

 ヒューゴが叫んでいたが、子供の足で間に合うわけがない。ディックは、咄嗟にイザベラの手を引っ張ると、自分の方へ引き寄せた。
 そして、猛接近する牡牛を強く睨み付ける。鋭い視線で一睨みすれば、牡牛は目に見える程に震え上がり、すぐに足を止めた。
 何か恐ろしいものを見るような、そんな眼差しをこちらに向けながら、牡牛は後退していく。
 そこへ駆けつけた大人の男が、数人がかりで牛を縄で縛り上げた。

「二人とも、怪我はないか?」

 大声で尋ねてくる大人に頷いた所で、ディックは名前を呼ばれて振り向いた。アレクシアがこちらに向かっていた。
 その後ろからは、バーズリー夫妻と共に、イザベラの父親が駆け寄ってくる。アレクシアはディックの傍に来ると、

「大丈夫? 怪我はない?」

 不安そうな翡翠色の目で、こちらをじっと見つめてきた。

「うん。なんともないよ、大丈夫。本当に、何もないよ」

 力強く言えば、ようやくアレクシアは、「良かった」と安心したように微笑んだ。そこで、

「おい、エラ! 大丈夫か?」

 と、遅れてヒューゴが駆け付けてくる。牛追いの時に負った怪我が痛むのか、血の滲む足を庇っていた。
 ディックはさり気なく脇に逸れて、ヒューゴに道を譲ってやる。

「エラ、ケガはしてないか!?」
「あ、だ、大丈夫、何ともないよ。ディックが助けてくれたから」

 何度も頷くイザベラに、安堵した顔をしたヒューゴは、続いてこちらを睨むと、大股で近付いてきた。
 また何か言うつもりかと、イザベラが様子を伺っている。喧嘩腰のヒューゴを牽制しようと、
 バーズリーが名前を呼ぶが、ヒューゴは一切の返事をしない。

「おい」

 眉を吊り上げ、ヒューゴは緑色の目でこちらを強く睨んできた。「喧嘩はダメだよ」というイザベラの言葉も無視して、ヒューゴが口を開く。

「……その、なんだ。エラを助けてくれて、あんがとな」

 ぶっきらぼうな言い方ではあったが、予想をしていなかった言葉に、ディックは少し反応が遅れてしまった。
 どう答えるべきか迷って、結局「うん」と素っ気ない返答をしてしまう。ヒューゴはそこで、口角を上げてニヤッと笑った。

「エラを助けてくれたからな。特別に大目に見てやる。おまえは今から、オレ達の仲間だ」

 勝手に決められてしまった。

 嵐のように、猪突猛進に何事も決めていくヒューゴに、呆気に取られながらも、
 この日を境にディックは、このノーハーストの村で、交流を深めていった。



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