08


 その夜。シェリーは、ぼそぼそとした話し声で目を覚ました。
 まだまだ、人間にとっては肌寒い夜が続く。天気は生憎の曇り空で、月は見えない。
 突然ディックが跳ね起きた。

「どうした、ディック」

 その尋常ではない様子に声を掛けるが、彼は何も答えない。ただ、同じ言葉を繰り返している。

「おい」

 と、肩に手を掛けた途端。ディックは悲鳴を上げて、こちらから距離を取る。
 まるで子供のように、頭を抱えて震え出した。繰り返し呟いていた言葉が、
 何であるか理解したシェリーはその両肩を強く掴んだ。

「ディック」

 朦朧とした目をした彼は、ひたすら、謝っている。誰に対してか。居もしない、母親の幻覚に対してだ。
 シェリーは、いつまでも同じ言葉を繰り返すディックの肩を掴むと、激しく揺さぶった。

「ディック、あたしだ!」

 大きな声で名前を呼べば、我に返ったディックが、呆然とした顔で、シェリーを見つめた。

「……シェリー……」

 しばらく呆けたように、こちらを見つめていたが、急激に震え出した。

「母さんが、……母さんがいたんだ。俺を憎んで、恨んで、……母さん、ずっと怒っているんだ。
俺が、殺したから……シェリーといたら、もうずっと出てこなかったのに、今日は……
シェリーがいても、出てきたんだ……母さん、怒ってる。ずっと、怖い顔してる……」

 今にも泣き出しそうな顔をして、ディックが肩に頭を押し付けてくる。
 出会って間もない頃のように、震慴していた。少なくとも、こうして一緒にいるときは、
 落ち着いていた症状が、また出始めていた。あのアベリーとかいう魔物の所為だ。

「俺が、殺したからだ……俺が、俺が殺したから……」

 シェリーは抱え込むようにして、ディックを正面から抱き締めた。
 強く、強く抱き締める。大丈夫だと、安心しろと言うように。

「おまえは、何も悪くない。おまえは、何も悪くない」

 稚児をあやす母の様に、シェリーはディックの背中を優しく叩いた。とん、とん、と、ゆっくり叩きながら、
 静かな声でそう繰り返す。すると、ディックはシェリーから顔を離した。
 怯え、恐れるような弱々しい翡翠色の目で、じっとシェリーの顔を見つめてくる。

「でも、母さんが死んだのは……」
「おまえの母親を殺したのは、村の人間だ。ディック」

 彼の言葉を遮るように、シェリーが覆い被せてそう言った。
 そして、両手でディックの顔を挟むと、シェリーは深海のように青い瞳で、
 ディックの翡翠色の左目を見つめた。

「おまえは、何も悪くない。おまえの母親を殺したのは、村の人間だ。おまえを傷つけたのは、
村の人間だ。おまえは、何一つ間違っていない。おまえのしたことは、間違っちゃいない」

 まるで、暗示にかけるように、シェリーはゆっくりと言った。

「おまえは、悪くない」
「……本当に?」

 縋るようなその眼差しを受けて、シェリーは頷いた。そして、尋ねた。

「母親は、まだそこにいるか?」

 その問いかけに、ディックは恐る恐る、時計台の部屋の中に視線を向ける。
 そして、首を横に振った。ふっと息を吐く。

「もう、どこにもいない」
「それなら、もう寝ろ」
「……分かった」

 シェリーの言葉に、素直に従って、ディックはまた横になる。
 それを見て、シェリーも横になった。ぴったりと、ディックの背中に身体をくっつける。
 すると、ディックがこちらに身体を向けてきた。

「……なに?」
「こうすれば、安心するだろう」

 艶やかに微笑んでそう言えば、ディック寝転んだまま、「うん」と顎を引いて肯定する。
 ディックの腕の中に収まったシェリーは、そっと彼の胸に顔を埋めた。規則的で静かな鼓動が聞こえた。
 その心臓の音を聞きながら、シェリーはそっと目を閉じる。

 密着してくるシェリーを、ディックは静かに抱き締めた。右手でシェリーの頭を抱え、
 その艶めいた黒髪の柔らかさを感じる。左腕をその腰に回して、彼女の冷たい体温に安心した。

 母を殺したのは、村の人間。死に追いやったのは、村の人間。
 傷付けたのは、村の人間。おまえは悪くないと、シェリーは言った。

 本当に、その言葉は正しいのか。だってシェリーがそう言うんだから。
 シェリーの言葉は正しいのか。俺はシェリーを、いつだって信じてる。

 彼女の言葉は、どんな言葉であっても正しく思えた。

――シェリーに、ずっと傍にいて欲しい。

 そんな暗い感情に、どっぷりと身が浸かるたび、ディックはシェリーに依存してしまっている自分に、
 嫌悪感を抱いてしまう。こんなに執着して、依存しきっている自分に、疲れたシェリーがいなくなってしまう気がした。
 失ってしまうことが恐ろしく、美しく優しい彼女が、消えてしまわないように。
 ディックは、シェリーを抱き締める力を強くする。

 母の姿に苛まれる夜は、どうしたって怯えてしまう。そんな時、傍にシェリーがいれば、
 ディックは酷く安心することが出来た。そうして、凄まじい安堵にほだされて、更にまた執着心が強くなる。

――酷い奴だ。俺はこうして、シェリーから自由を奪っている。

 そして、そんな自分に対する呆れや失望も、比例して多くなる。

――でも……

 彼女の死人のように、美しい寝顔を見ながら、ディックも静かに瞼を閉じていく。

――俺はもう、シェリーがいなければ、一人では……生きていけないから。

 その世界は、とても息苦しい。四肢も自由に動かせない。様々な枷を付けて、泥の中を進んでいく。
 そんな感覚だ。それでも、シェリーの側にいるというだけで、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。
 彼女がいる所に一緒に行きたい。ディックはずっと、そう思っていた。
 例えそれが、真っ暗な闇の中だとしても。



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