05
深い、深い暗闇の底へと落ちていく。その耳に響くのは、断末魔の叫び声だ。
大小様々な悲鳴と、子供の泣き声が聞こえてくる。只々、五月蝿いと思った。
けれども、ディックはそれが誰の叫び声なのか、すぐに思い出した。
――ああ、これは……
助けを求める声。許しを乞う声。泣きじゃくる声。
それらは全て、
――これは、あの村人の声だ。
そう気付くと、徐々に暗い視界に光が差し込んでくる。
まるで、霧が晴れるかのように、くっきりと周りの景色が目に飛び込んできた。
地べたに座る子供達の前で、その女性は小石を幾つか並べていた。算数を教えているのだ。
その女性を見て、ディックはすぐに気付く。母の姿だった。赤茶色の髪を一つに纏め上げ、
同じ翡翠色の瞳をした彼女は、明るく微笑みながら、ゆっくりと、分かり易い言葉で教えていた。
物心着く頃よりも前に、父と呼ぶべき存在はいなかった。母は少し世間知らずで、
どこかうっかりした部分も多かったが、それでも優しい人だったように、ディックは思う。
その時代には珍しく、文字の読み書きや算数の出来る女性で、立ち寄った村々で、
彼女は子供達に文字や計算を教えていた。
今と同じように、学び舎と呼ばれる場所は少なく、通える子供にも制限があった。
大抵、学び舎というものは大きな街にあり、そこに通えるのは、軍人や貴族といった、
ある一定の地位を得た者の子供だけだったのだ。屋根もなく壁もない青空の下で、
母は子供達に勉学を教えていた。
いつも笑顔で優しい母に、子供達は非常に懐いており、彼らの親達もまた、
面倒見の良い彼女を慕っていた。魔物の襲撃もあったが、村の男達が懸命に戦い、村を守っており、
どこにでもある、非常に有り触れた日常だったのだ。
「クシー先生」
村の子供は、母をそう呼んでいた。
彼女のアレクシアという名前から、そう考え付いたのは、あの少女だ。
空から、しんしんと雪が降り始め、アレクシアは雪雲の広がる空を見上げた。
そして、地べたに腰を下ろしていた、小さな子供達を見て微笑む。
「雪が降ってきたから、今日はこの辺りで終わりましょう」
すると、子供達からは一斉に「ええー」と非難するような声が漏れた。
「雪なんてへっちゃらだよぉ」
「先生、もっとおしえてよう」
立ち上がったアレクシアのスカートを掴みながら、子供達が口々に言う。
すると、彼女は一人一人の頭を撫でながら、宥めるように言った。
「私も、もっと皆とお勉強したいけど。でも、風邪を引いたら大変だから」
ね。と、微笑んで言い聞かせれば、大抵子供達は大人しく言うことを聞く。
そして、名残惜しそうに、ゆっくりと頷き出した彼らを見て、アレクシアは微笑んだ。
「それじゃあ、また明日。此処で、お勉強しましょう」
また明日。
ディックは思わず駆け出した。母に近付くたびに、胸が押し潰されそうに苦しくなる。
いつも、恨めしい顔でこちらを見つめてくる母も、優しく微笑んでいる母も、どちらも母に変わりない。
生きている。母が生きている。変わらない笑顔で、あの優しい顔で、あの優しい声でそこにいる。
ディックは駆け出して、アレクシアの肩を掴もうとした。
決して許されないし、許されてはならないが、それでも謝らなければならない。
けれども、その手は彼女の肩を摺り抜けてしまう。
そして、思い出した。
――これは、アベリーの術だ。
そう気付いても、どうすることも出来ない。景色がぐにゃりと歪み、ディックは部屋の中にいた。
小屋のような、質素な造りの家だ。アレクシアがこちらに背を向けて、野菜を切っている。
蝋燭の明かりだけが、ぼんやりと部屋を照らしていた。カンテラもランタンも、電球も無かったその時代は、
今と違い、光源は蝋燭や暖炉しかなかったのだ。
その子供は行儀良く椅子に腰を下ろして、夕食を作っている母の後ろ姿を、頬杖を付きながら、眺めていた。
何か会話をしていたようだが、ふと何かに気付いたように、その子供は立ち上がった。
――駄目だ。
アレクシアと何か言葉を交わしながら、子供が扉の閂に手を掛ける。
ゆっくりと閂を引き、扉を開けようとしていた。
――駄目なんだ。
この日のことを、ディックはよく覚えている。この先のことを、ディックは忘れられない。
扉が開き、恐ろしい形相の男達が部屋の中に入ってくる。其々、手には農具を持ち、
まるで雑草でも引き抜くかのように、乱暴な力でアレクシアを、引きずり出して行ったのだ。
真っ赤に染まった視界の中で、頭上を飛び交う怒鳴り声と、アレクシアの泣く声が響く。
なんとかしなくてはと思った。この状況を打開する方法を、懸命に考えた。けれども、何も浮かんで来なかった。
只々、焦りだけがじわじわと侵食してきて、何も出来ないまま、彼女を――
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