02


 リアトリスはオボロとティナを残して、時計台へ向かった。
 近付く程に、こちらを拒絶するように殺伐とした魔力が、強くなる。
 その魔力を浴びながら、リアトリスは息も絶え絶えに、時計台へ辿り着いた。
 二階へと駆け上がり、中に飛び込む。

「おい」

 そう呼び掛ける。名前を呼ぶのも憚られたのだ。窓に腰を下ろし、こちらに背を向けたシェリーがいる。
 艶やかな黒い髪を風に遊ばせる姿は、とてもあでやかだ。

「おまえ自らが来るなんて、珍しいこともあるものだな」

 振り向くことなく、シェリーがそう言った。リアトリスは左足の拳銃に手を掛ける。
 もし、彼女が攻撃してきたとき。すぐに反撃する為だった。リアトリスは、決してシェリーを信用しなかった。
 魔物に心を許すこともない。彼らは平気で嘘を吐き、欺き、掌で転がすのだから。

「おまえ、ディックが何処に行ったか知ってるか」
「当たり前だ。それがどうした」

 シェリーは一切こちらを見ない。リアトリスは浅い呼吸を繰り返す。
 どうも、彼女の側にいると呼吸がし辛い。毒気を含む魔力に当てられるからだ。
 長居は出来ないので、リアトリスはさっさと本題を口に出す。

「ディックが依頼を受けた町、オレアン……ひと月前に崩壊しているんだ」
「……」

 リアトリスは小さく咳をした。

「でも、四日前にそのオレアンから依頼書が届いた。お陰で、ディックはそこに向かってる。
もう着いた頃かもしれない。これは、何かある。でも、おいらの足じゃあ着くのが遅れる」

 こちらを一切見ないので、シェリーの顔が分からない。リアトリスは大きく息を吐いた。
 段々と、シェリーから放たれる魔力が重たくなってくる。まるで、大量の重りを背中に背負っているような感覚だ。
 リアトリスはまた、小さく咳をする。

「おまえ、魔物なら……すぐに好きな場所へ行けるだろう」

 そう言うリアトリスの脳裏には、いつかギルクォードにやってきた、アベリーという魔物の少女が思い浮かんだ。
 黒い水溜まりを、自在に出入りしていたのだ。魔物にとって、距離なんてものは、何の問題にもならない。
 行きたい場所へ好きに行ける。持っている脚力や飛行速度、魔力の使い方次第で、
 どれだけ遠くに離れていても、あっという間に辿り着けるのだ。

 長い沈黙が揺れる。しばらく黙っていたシェリーが、小さな笑い声を上げたのだ。
 ようやくこちらを向いた。リアトリスを見据えるシェリーは、唇を大きく歪めて笑っている。

「あたしはおまえに言ったな。異変があればすぐ知らせろと」

 そういえば、そんなことを言っていたな。
 リアトリスは苦しい呼吸を繰り返しながら、なんとなく思い出した。

「律儀に守るじゃないか。わざわざご苦労だな」

 馬鹿にしたような笑みを浮かべるシェリーに、リアトリスはやっとの思いで不敵に笑った。

「勘違いすんな。おいらは、ディックが心配だから、そう言ったんだ。
でも、人間のおいらじゃ時間が掛かり過ぎる」
「……このあたしが、あいつを一人で泳がすわけがないだろう」

 シェリーはまた笑った。その深海のような、青い瞳が不気味に煌く。

「甘く見るな」

                ◆

 ディックはリアトリスの予想通り、オレアンに着いていた。
 人がいないどころか、崩落したその町を見て、「遅かったか」とも思ったが、
 どうにも違う様子だった。ここ、二、三日で崩壊したわけではなさそうだ。

 木々は枯れ、朽ち果て、人々の遺体は野晒しとなっている。
 既に変色し、皮膚が裂けて溶け始めている。辺り一帯には、凄まじい腐臭が立ち込めていた。
 ディックは顔を顰め、鼻を押さえている。それでも、鼻腔に纏わりつくその臭いは、
 噎せ返るような血の臭いと、放置され続けた排泄物。そして、腐ってしまった食料の臭いが混じり合い、
 なんとも言えない程、強烈なものだった。その遺体に群がるのが、蛆虫だけならともかく、
 成虫になってしまったものもいる。

 少なくとも、崩壊してからひと月近くは経っているのだろう。

「……」

 ディックの耳が、小さな音を拾った。魔剣を、いつでも抜けるように手を掛けて、
 音のする方向へと足を進める。なるべく音を立てないように、慎重に近付いていく。
 音のする方へ向かうごとに、人骨が多くなっていくことに気付いた。ディックは、崩れそうな建物の陰から、
 そっと様子を伺う。一人の青年が、そこに四つん這いになっていた。こちらに背を向けて、
 一心不乱に何か行っている。そこで、ようやくディックは音の正体が、咀嚼音であることに気付いた。
 青年は黒い獣の尾を生やしている。間違いなく、人間ではない。



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