04


 その喫茶店から、数軒東に進んだ先にある酒場を目指す。アーリットという名の酒場の、
 前後に開閉出来るウェスタン扉を開いて、ディックは酒場へと足を踏み入れた。中では、一人の女性が忙しなく動いている。
 短躯肥満の彼女は、肉が付いてより短く見える腕を伸ばして、ゴシゴシとテーブルや椅子を丹念に拭いていた。

 彼女はこの家の家主であり、ディックに命を救われたと思っている男、イェーガーの妻だ。
 酒場の女将、という言葉が充分に似合う、貫禄と風貌をしており、その見かけ通りに、大らかで気さくな女性だった。

 こちらに気付いていない様子の彼女に向かって、ディックは、

「グラニットさん」

 名前を呼びかけた。その声に、条件反射のような勢いでグラニットは顔を上げた。
 白髪交じりの髪が揺れる。そして、店の出入り口に立っているディックを見ると、丸い顔の一面に、にっこりとした笑顔を浮かべた。
 笑うと、目や鼻や口が一斉に真ん中に寄っていき、くしゃりとした、キャベツのような顔になる。

「あらまあ、おかえりなさい。ディック」

 作業していた手を止めて、人の良い笑みを浮かべながら、
 こちらに近付いてくるグラニットに対して、ディックは曖昧な会釈で返した。

「魔物退治、ご苦労様。一週間も出ずっぱりで、ちょっと疲れたんじゃないかい?」
「大丈夫です」

 そう言いながら、ディックは三枚の紙幣をグラニットへと手渡した。

「これ、今月の分です」

 グラニット夫妻に、ディックは毎月きちんと家賃と食費を渡している。

「いいって、言っているのに」

 そう言いながらも、毎度のことなのでグラニットはきっちりと受け取り、前掛けエプロンのポケットに仕舞い込む。
 そして、丸くて短い人差し指を天井に向けた。もちもちとしていて、柔らかそうな指先だ。

「さて、と。ディック。あんたちょいと寝てきなね」

 どっしりとした、樽のような腰に手を当てて、グラニットは小さく笑う。

「疲れた顔してるよ。そんな時は、無理せず休むのが一番なんだから」

 シェリーと同じことを言うグラニットに、ディックは素直に頷いてみせた。
 シェリーに言われたのだ。彼女が休めというのなら、休むつもりだ。

「はい、そうさせてもらいます」

 そう言って、ディックは一旦店の外へ出た。アーリットと住居は繋がっていない。
 裏手に回った場所の、外階段を上がった先にある、二階部分が住居だった。階段を上がってすぐの扉を開ければ、
 そこが玄関となる。そして、そこから通路をまっすぐ進んだ所に、ディックが間借りしている部屋があった。
 内開きの扉を開けると、酷く殺風景な室内が広がっている。壁際にぽつんと簡易なベッドが一台。
 その隣に、小さなタンスが一つ。それだけだ。タンスの中は空っぽで、この六年間。
 ディックは何も入れていない。腰に差していた剣を、ベッドとタンスの間に立てかける。
 ベッドの足側の柵に、纏っていたマントを掛けて、そのままベッドに横になった。
 無機質な天井を眺めながら、そっと目を閉じる。
 夜が待ち遠しい。

                 ◆

――ねぇ。

 微睡の中、懐かしくて暖かい声が聞こえてきた。落ち着いた女性の声だ。
 小さな子供に呼びかけるような、そんな優しい声だった。

――シェリー?

 そう思ったが、彼女は普段時計台にいて、町にやってこない。それに、シェリーの声とは少し違う気がした。

――……ねぇ。

 再び聞こえてきたその声音が、誰のものかやっと分かった。

――母さん?

 そう思いながらも、ディックはすぐに夢だと思った。母がいる筈がない。彼女は、とうの昔に亡くなったのだから。
 うとうとと、現実と幻想の堺を漂いながらも、次第にディックの頭は鮮明になってきた。
 そして、ようやく身を起こす。入った時には気付かなかったが、窓は開いていたらしい。
 恐らく、留守の間に空気を入れ替えようと、グラニットが開けたのだろう。その開いた窓から、
 冷たい風が入り込んでくる。冷たい風は、どんどんとディックの頭をクリアにしていく。
 ディックは残っていた眠気から、小さく欠伸をした。階下から賑やかな声が聞こえていた。
 酒場アーリットが開店しているということは、少なくとも十八時は過ぎている。随分、長く眠ってしまったようだ。
 一度だけ顔を出して、シェリーのもとへ行こう。そう思って、立ち上がろうとしたディックの耳に、
 ふぅっと生暖かい吐息が掛かった。

――……ねぇ、ディック。

 ベッドから降りようとした体制のまま、ディックは動けなくなる。萎縮した心臓が、
 早鐘のように鼓動を鳴らしていた。いる筈の無い母親の声に、体中の血が凍りつくような心地に陥る。

 生白く細い腕が両脇から見えていた。血の気のない白い爪までが、暗がりの中でもはっきりと見える。
 また、吐息が掛かった。体中が顫動していた。嫌な汗が背筋を伝う。

――何故?

 優しいその声に、ディックは身を固くした。徐々に伸びてくる両腕と並行して、不安や恐怖が増長して、
 それに伴って脈拍が速くなっていった。ふぅ、と首筋に吐息が掛かる。

「あなたは何故、約束を破ったの?」

 先程までの優しい声音と一転し、無機質なその問いかけが、やけにはっきりと聞こえた。

 その次の瞬間。階下から、どっと陽気な笑い声が聞こえてきた。はっと意識を持ち直せば、
 見えていた腕が消えていることに気付く。迫ってくるような気配も消え失せていた。
 ディックは勢いよく振り向いたが、なんてことはない。暗い壁があるだけだ。誰もいない。
 誰かがいた形跡も何もない。

――夢……?

 それにしては、妙に生々しいものだった。真冬に冷水を浴びたような、ぞっとした寒気が残っている。

――違う……。

 心臓が激しく脈打っていて、苦しくて痛い。

「……」

 ディックは部屋の中に目を向ける。誰もいないし、何もいない。

「まただ……」

 脳裏に浮かぶのは、シェリーの姿だ。
 恐る恐る持ち上げた両手で、ディックは顔を覆った。

――シェリーに、会いたい。



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