02


 村を囲む石壁の一箇所に、木で出来た両開きの扉がある。内側から閂をしており、その両脇には門番らしき男が二人、立っていた。
 この村の自警団であり、ディックが入村する際にも色々と声を掛けてきた二人だ。

「用は済んだのか」
「はい」

 受け答えをしながら、ディックは一冊の小さな手帳を取り出す。
 群青色のその手帳は、住民手帳といい、普段暮らしている場所や名前、年齢、生年月日などが記されている。
 最も、魔物が闊歩するこの時代では、住居不定者や年齢不詳者、生年月日が不明な人間も数多くいる為、
 その記載内容というものは酷く大雑把なものであった。ディックもまた、年齢や生年など、適当に記入していた。
 生年は、二十代半ば辺りを想定して記入しているし、正しいものなど名前くらいだ。

 開かれた扉から、一歩村の外に出ると、その漂う空気はがらりと変わった。
 嫌な風が吹いていた。周囲に立ち込めている、この肌を突き刺す様な空気が殺気であることを、ディックは分かっている。
 村や町といった要所では、人間は魔物から身を守る為、または魔物との境界線だと示す為、硬い石や木材で村や町を囲む。
 大抵の魔物は町や村の外に多いのも事実だ。しかし、お構いなしに魔物は人間を襲う為に、作り上げた壁を破壊して入り込んでくる。
 そんな魔物から人間の居住区を守るのが、先程の自警団や、魔物ハンターと呼ばれる者達だった。
 自警団は、もともと魔物ハンターであった者が多く、怪我や病といった理由から、一線を退いた者達がなる職業であった。

 村を出て数十分歩き、ディックが戻ってきたのは、ギルクォードという鉱山町だ。
 近くにはルクレール鉱山という炭鉱があり、そこでは屈強な男達が、毎日つるはしを振るっている。
 ディックがこの町を訪れたのは、六年程前になる。
 現在、ディックが間借りしている家の家主の男を、魔物から助けたことが切っ掛けとなり、ここで暮らすことになった。
 とはいえ、口には出さないものの、ディックは決して彼を助けたつもりはない。偶然切り捨てた魔物が、男の命を脅かしていた存在に過ぎない。

 元々、この辺りには魔物が多く住み着いており、度々ギルクォードは魔物に襲われていたらしい。
 魔物ハンターの支部も近辺にはなく、自警団がいるものの、彼らだけでは手に負えないような魔物も出てくる。
 そんな時に、腕の立つディックが通りかかり、魔物を倒し、町民に請われる形で、彼は町に留まることとなった。
 そして、このギルクォードでディックが暮らすようになってから、ギルクォードが魔物に襲われることがなくなった。
 しかし、その代わり、それまでギルクォードを脅かしていた魔物が、近隣の村や町を襲い始める様になってしまった。
 その村や町からの頼みで、時折ディックは魔物退治へと赴いているというわけだ。


 そのギルクォードに戻る前に、まずディックが向かったのは一つの時計台だった。
 ギルクォードには、二つの時計台がある。一つは数十年前に、新しく建てられたもので、規則正しい時刻を日々刻んでいる。
 もう一つは古びた時計台であり、新しい時計台と比べると小ぶりな物だ。百年以上も昔に建てられた建造物であり、
 町を囲む石壁よりも外にある。紐を引いて時報の鐘を鳴らす仕組みだったが、もはや使われることなど皆無で、
 町外れにあるということもあり、人々が近付くことも稀であった。その廃墟と化した古い時計台には、
 ディックが会いに来た女性が暮らしている。

 破損して倒れた扉を踏み越えて、ディックは時計台の中に入った。
 湿った臭いが立ち込めていて、だいぶ埃っぽい。天井の隅や、人の行き来がしない空間には、
 巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされ、虫の残骸が幾つか絡まっている。床に積もった白い埃の上には、
 一定の場所だけ埃の無い場所があった。ディックがいつも、歩いている場所だ。

 今にも崩れそうな石の階段を上ると、そこには別世界が広がっている。
 元々この時計台の整備士が、住み込んでいただろう二階部分は、百年以上経っているのに、損傷どころか埃一つない。
 樫の木で出来たシンプルなベッドのみが置いてあり、吹き抜けの窓からは心地よい風が入り込んでくる。
 その窓の傍には板が置かれており、風雨の酷い時には、これで窓を塞いでいたらしい。

 そのベッドに横たわる姿を見つけて、ディックはやっと顔を綻ばせた。そっと近付き、ベッドの傍に膝を着く。
 その寝顔は素晴らしく、この世のものとも思えぬ程に、美しいものだった。
 艶やかに濡れた赤い唇や、影が落ちる程の長い睫毛、漆のように艶やかな黒髪など、彼女を象るものは、全てが美しい。
 いや、美しい、という表現が安く思える程、その女性は楚々とした鮮やかさに、彩られている。
 黒いマーメイドドレスも、彼女の美しさや妖艶さを、より際立たせる代物に過ぎない。
 しかし、どれほど美しい女性であっても、彼女が魔物であることをディックは知っていた。

 触れることすら、憚られるような彼女の肩に、ディックはそっと右手を置いた。
 色白で、華奢なその肩は死人の様に冷たい。

「シェリー。起きて、シェリー」

 何度か揺さぶると、長い睫毛の下から青い瞳が覗いた。



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