02
――あなたの所為で、私は……
その張り詰めた空気を壊すように、がさつな音を立てて、部屋の扉が開いた。
そして、
「ただいまー」
呑気な声と一緒に、リアトリスが入ってきた。グラニットに貰ったらしいタオルで、雨に濡れた髪を拭いている。
壁に背を付けたまま、ディックは視線だけをリアトリスに向けた。
「どした?」
不思議そうな顔で、尋ねてくるリアトリスに、ディックは浅い呼吸を繰り返しながら、視線を戻す。
目の前には誰もいない。誰かがいた形跡もない。雨の音が、戻ってきた。
「……思ったより、早かったな」
やっとそう返すと、リアトリスは小さく笑った。
「降りそうだなって思ったから、予定より早めに村を出たんだ。結局降られたけど」
そう言いながら、リアトリスは顔を拭き始めた。ディックはようやく、深く呼吸をする。
今のは幻だ、と言い聞かせた。
母さんはいない。もう、ずっと昔に死んでしまった。ここにいる筈がない。
ディックはそう言い聞かせながら、首に手を当てる。早鐘のように鳴っていた心臓が、
普段と変わらない速度の鼓動を打ち始めた。
「あ、そうだ」
と、リアトリスが背中からライフルを外しながら、こちらを見る。
「なあ、ディック。グラフトン湖って知ってる?」
グラフトン湖とは、丁度ヴェステルブルグの西側。ボルマー地方にある、小さな湖だ。
頷いたディックに、リアトリスはアーリットに戻る途中、立ち寄ったオボロの喫茶店でのことを、話し出した。
◆
ところで、オボロの喫茶店は、とりたてて美味しい食べ物も飲み物も出てこない。
それはオボロ自身も、利用する客も分かっていた。しかし、リアトリスだけは「ウマイ、ウマイ」と、
世辞抜きに喫茶店で昼食を毎日食べている。そんなリアトリスを、オボロは少し贔屓しているらしく、
「これ、食べる?」
などと言っては、リアトリスにトーストやコーヒーなどを、サービスで付けたり、
少し値引きしたりすることも多々あった。そうして、今日もリアトリスは、ル・コートからの帰り道で、
昼食がてら、オボロの喫茶店に寄ってきたという。
「温かいカフェオレと、ハムサンドな」
そう言いながら、雨に濡れた肩を叩いていると、イェーガーがタオルを差し出してきた。
ありがたくそれを受け取って、濡れた髪やズボンを拭う。
「雨が降っているのに、傘持ってこなかったのかい?」
そう尋ねながら、オボロはサンドイッチに包丁を入れた。
切り終えたサンドイッチを皿に盛り付け、フライパンの蓋を開けると、中に入ってた物の量を確認する。
「ちょっと、町出てたもんだから」
「へえ」
濡れたタオルをイェーガーに返し、リアトリスはその隣に腰を下ろした。
オボロが、コーヒーミルで、挽いたばかりの豆をドリッパーに入れる。軽くお湯を注いだ。
砂糖もミルクも入っていないコーヒーは、苦くてリアトリスは嫌いだったが、この香ばしい豆の匂いは好きだった。
「で、村はどうだった?」
砂糖もミルクも、甘くするものは何も入っていない自分のコーヒーに手を伸ばして、イェーガーが尋ねてくる。
リアトリスは、ル・コートの惨状を思い出す。まだ幼かった頃の記憶は、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
あの時、魔物に受けた爪牙の傷跡が、生々しい程に色濃く残っていた。抉れた地面も、焼き払われた家屋もそのままだ。
魔物の使う魔法には、毒素が含まれている。そして、その毒素は土の奥底にまで深く染み込み、穢すという。
その為、十年以上経った今でも、ル・コートに草は愚か、苔さえ生えていない。
無残に殺された村人達の遺体は、纏めて土の中に埋められている。夥しく、盛り上がった土の上に、
トスカーナ山で積んできたり、手折ったりした花々を捧げてきた。しかし、その土に染み込んだ毒素ですぐ枯れてしまう。
それでも、一人生き残った者の礼儀として、リアトリスは捧げたのだ。
「みんなに挨拶して来た。ずっと来れなかったから、お墓もどこも荒れ放題」
苦笑しながら言うリアトリスに、「お待たせ」と、オボロがカフェオレとハムサンドを、
カウンターに並べる。そして、もう一つ大皿を置いた。赤いソースが絡んだスパゲッティだ。
「良かったら食べて。トマトソーススパゲッティ。サービスしとくよ」
「お、ありがとうな、おっちゃん」
「それから、リア坊。おまえさん、魔物ハンターだったよね?」
確認というよりも、本題へのクッションのようにオボロが言うのを聞いて、リアトリスは頷いた。
ハムサンドに齧り付いていたために、返事が出来なかったのだ。
「うん。まあ、そうだった……かな」
リア坊という渾名は、瞬く間にギルクォード中に広まった。
最初に呼び始めたイェーガー夫妻が、アーリットに飲みに来る常連客や、出向いた先で出会った顔見知りに、
そう呼びながらリアトリスのことを話したからだ。ついでに、魔物ハンターであったことも伝わっている。
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