02


 ベッドの中で、ディックは目を開ける。
 何度目か分からない、もう随分と昔に、色褪せてしまった記憶を、思い返していた。
 隣のベッドでは、リアトリスが熟睡していた。静かに、彼が被った布団が上下している。
 それを見て、そっと身体を起こす。包帯を外した右目に手を当てる。眼球の感触はしない。
 空っぽだ。何も無い。

 少し変わった力が使えるだけで、人間なのだと思って生きていた。母がそう言ったから、
 ディックはその言葉を信じていた。いや、信じる、信じないということではない。
 しかし、人間ではなかったと気付いた時。その恐ろしさに打ち震えた。母は決して、騙そうとしたわけではない。
 そうすることで、子供を守ろうとしていただけなのだ。

――裏切ったのは、俺の方だ。

 ディックは右目から手を離す。部屋の中を恐る恐る見渡すが、今日は母の姿は見えない。
 そのことに、幾ばくかほっと胸を撫で下ろした。最近、眠れない日々が続いていた。
 このまま、布団の中に身を埋めていても、目は冴える一方なのは、わかっていた。
 リアトリスを起こさないように、音を立てないように注意しながら、ディックはそっと部屋を出る。

 もうじき、卯月アヴリールになるとはいえ、今日の夜は少し肌寒かった。
 ローブを纏わずに出たことを、ディックは少し後悔する。宿場街だが、夕刻に訪れた飲み屋街と比べれば、
 人通りは少ない。そのまま、閑静な街道を歩き続けていると、やがてリアトリスと待ち合わせをしていた、
 広場へと辿り着く。このまま、大通りを突っ切って横道に入れば、羚羊亭のある飲み屋街へと差し掛かる。

「……」

 ふと、ディックはその大通りに足を向けた。少し進んで、とある路地の前で止まる。
 真っ直ぐ進めば、あの飲み屋街だが、その手前に作られた脇道。細く狭いその道には、殆ど灯りが無い。
 短い石階段を降りた先は、闇が屯している。その闇の中から冷たい魔力が漂っていた。

――吸血鬼、か?

 湧き上がる推測に答えるように、ひんやりとした空気が、足元に絡み付いてくる。
 その空気に混じって、甘ったるい匂いが漂ってくる。人工的なこの香りに混じって、
 人間の匂いもした。この魔力の中に、人間が迷い込んでいるらしい。

「……」

 行くべきかどうか、ディックは少し迷った。そもそも、アストワースに来たのは、リアトリスの付き添いという認識が大きい。
 出没する吸血鬼を求めているのは、リアトリスなのだ。それにディック自身、
 この町に知り合いがいるわけでもない。言ってしまえば、無闇に首を突っ込む程のことでもない。
 踵を返そうとしたディックは、

「っ……」

 そこで小さく息を呑む。いつもと同じ格好をした、母アレクシアがそこにいた。
 今日は何を言ってくるわけでもない。落ち窪んだ翡翠色の瞳が、じぃっとこちらを見つめている。
 只、それだけだ。何も言わず、こちらを見つめていたアレクシアの姿が揺らぐ。
 こちらに、近付いてくるのが分かった。その唇が、ゆっくりと言葉を紡いでいる。

 ま、た、こ、ろ、す、の?

 心臓が異様な鼓動を打つ。
 そして、忘却した記憶が戻ってきた。昨年の師走デザンブルの某日のことだ。
 既に事切れている娘を抱いて、助けを求めてきた男の姿が、ぼんやりと蘇る。その顔立ちや声音などは、
 もう思い出せない。けれども、悲痛な眼差しで懇願してくる様は、一度浮かぶと、なかなか消えてくれない。
 シェリーの炎に包まれた男の、あの断末魔の叫びが耳に纏わり付いてくる。

だって、もう助からない命じゃないか。でも、シェリーに頼めば、助けられた命だろう。
助けてくれなかった、人間じゃないか。だけど、その人間とは違うだろう。
あの人を殺したのは、俺じゃない。でも、見殺しにしたのはおまえじゃないか。

 交互に浮かぶ言葉が、肺や心臓を押しつぶして、呼吸がし辛い。ディックは呻きながら、その場にしゃがみ込む。
 全てを遮断するように、顔を伏せた。すぐ目の前に、アレクシアが立っている気配がする。
 しかし、その顔を見るのが怖くて、見上げることが出来ない。



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