戦の序章 1/1
姫の誕生日を終えたその夜、まだ宴の熱も冷めやらぬまま眠りに着くはずの城は、ひどく殺伐としていた。 それもそのはずである。つい先刻まで慈愛に満ちた眼差しで姫が部屋に引き下がるのを見送ったこの国の王イル陛下が、変わり果てた姿で赤い血溜まりに沈んでいるのだから。
「あなたは平気ですか?ユタ。」
血の滴る剣を片手に王の部屋まで一人戻ってきたスウォンは、立ったまま動かない人影を、たった今人を殺めたとは思えない声音で気遣った。ユタは、じっと王の死に顔から視線を外さない。
ヨナをどんな宝石よりも美しい、と甘やかし褒め称えた穏やかな彼は、苦悶に満ちた表情で永遠に時を止めた。しかしユタは、端から穏和なだけの臆病な王を見てなどいなかった。ハクにもスウォンにも本当は武器を持たせたくないと言って、彼はユタに性別を偽らせてまで武器を取らせたのだから。
「今なら、私があなたを陽の下へ導けます。 どうか私と共に、この城へ残ってはくれませんか。」
父としてのイル陛下を知らない。けれど、王の彼に強く言い聞かせられ、この身体に染み付いた役割が、ユタにスウォンの手を取ることを躊躇わせた。
「…僕は、ヨナを守るために在る。」
お前は忌子なのだから、お前は災厄を呼ぶのだから。 彼はユタに当たり出すと、決まって口癖のようにそう言う。この身にどんな呪いが掛けられているというのか、ユタはとうにそれを問うことを諦めていた。
けれど、どれほど罵倒しようとも、王はユタを殺そうとはしなかった。否、殺せないのだ。他でもない、愛する皇后に殺さないでくれと頼まれた子。王が悩み、苦しみ、この存在を持て余した結果辿り着いた結論が、姫の護衛…とは名ばかりの、いざという時の影武者としてユタを育てることだった。
「ええ、あなたならそう言うと思っていました。」
肩の力を抜き、未だ骸の前から動かないユタのそばまでやってきたスウォンは、そのまま彼女の頭を己の体に倒す。泣いてもいない、表情すら変わらない。心をどこかに置き去ったようなユタの髪に、そっと唇を寄せた。
「彼らを…私の代わりに、ヨナとハクを頼みましたよ。」 「はい、たとえ命に代えても。」
名残惜しくもスウォンが体を離せば、彼女はするりと腕の中から逃げていく。あの時、ヨナへ手渡した花が風に攫われ、二度と戻らなかったように。…どうかご無事で。喧騒を遠くに、スウォンは月へ祈った。
*
「ハク将軍。」
突如茂みをかき分けて現れた人影に、ハクは構えた槍を下ろした。宴のあとからぱったり姿を見せなかったユタが、普段着崩れしない着物を乱れさせて現れたのだ。
「お前、無事だったのか!今までどこにいた!」 「…申し訳ありません。…。」
恐らく追手と一戦交えてきたであろうユタは、すぐに身を屈めて息を潜めていたハクたちに深々と頭を下げる。謝罪の真意は、ハクには伝わらないだろう。
一度言葉を切ったユタが、ハクと、同じく文官であり陛下の側近であるミンスの背後に見えるヨナ姫に、身動ぎをした。が、虚ろな目でとめどなく涙を零す今のヨナには、自分の存在など映らない。そう判断し、ユタは言葉を続ける。
「このままでは見つかるのも時間の問題です。」 「私が逃げ道を確保します。 お三方はこの城から脱出してください。」
城にはすでにスウォンが率いて来た兵と、スウォンを支持する兵が集まりつつある。連中は、既にハクを王殺しの逆賊として触れ回っているであろう。そうなれば、見つかったのちに待ち受けるのは死しかない。 どうにか逃げる算段を、と考えを巡らせる彼らの背後から、か細い声がした。
「どこへ…行くの…? 私……宴の時……父上が泣いて喜んでいたのに、一言も言わなかったわ、ありがとう……って。 ここは父上の城よ…父上を置いて…どこへ行くというの…?」
ハクも、ミンスも、口を噤んだ。父の死を目の当たりにし、信頼していたスウォンに裏切られたヨナは、今にも手折れてしまいそうなほど、繊細で、傷ついていた。直向きな愛を受け、穢れを知らぬまま成長した彼女に、ユタがしてあげられることなど何もない。
「どこへでも行きますよ、あんたが生きのびられるなら。 それが陛下への想いの返し方です。」
共に歩むはずだった彼女とユタの道は、はるか昔に分かたれている。違う育ち方をしたヨナとの間に共通することなど、彼女の父に対する愛も、彼女へ向けられた他者からの愛も、ひとつとして存在ない。今できる精一杯の励まし、誓いを胸にヨナを抱きしめるハクの姿から、ユタは目を背けた。
*
ハクたちと合流するまでに、ユタは彼らを探すがてら城の中を走ってまわり、脱出できる場所を見つけていた。城の裏口は、建物の影の奥まった場所で、木々に覆われて存在する。ユタが見つけた際はまだ追手がここまで辿り着いていなかったが、時間が経ってしまった今、彼らが到着して数分としないうちに、辺りから兵たちの声がしはじめた。ミンスがヨナのまとっていた羽織を頭から被る。
「私が引きつけます。」 「…今なら僕たちと共に逃げられる。」
いずれ裏口から城を出たことは知られる。でもその前に逃げてしまえば、わざわざ囮になってミンスが犠牲になることもない。命を無駄にすることはないのだと提案したが、ミンスは聞かなかった。
「少しでもあなた方が遠くへ逃げる為の時間稼ぎをさせてください。ユタ様は、彼らと共に。」 「……何故。」 「私の罪滅ぼしですよ。」
ハクとヨナが待っている。
「どうかご無事で。」
あなたが自由でありますように、とミンスがそばを離れる際そう言い残した。…願うなら、私は、彼女に触れたい。けれどそんな自由を手にする方法をユタは見失っていた。母が救ってくれて命。ミンスが繋いでくれた自由への道を、歩むことができるのだろうか。
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