月明かりの下で 1/2
これは、夢?
辺り一面暗闇だとばかり思っていた空間は、よく目を凝らすと、ユタにとっては見慣れた懐かしい場所だった。母が亡くなるまでユタが軟禁されていた、緋龍城の奥まった場所に建てられた離宮。当時そこを出入りしていたのは母と、世話係を任された数人の女官のみだったとユタは記憶している。
母は、隙を見つけては、離宮を訪れてくれていた。自分には妹がいる、なんて事実を知ったのも、限られた親子二人の時間の中でだった。ヨナはどんな子? 母は笑って、赤い髪の愛らしい子よ、と教えてくれたものだ。
母上は、ヨナが大切なのですね。ええ、とっても…あなたもきっと、愛してあげられる。 まだ見ぬ妹の姿を思い浮かべて胸を踊らせるユタに母は、でもね、と続ける。
「愛しているからこそ、今は離れて。」
幼いユタは、母の言葉の意味をよく理解できなかった。
「それは、ヨナのためですか?」 「あなたのためでもある。 大丈夫よ、あなたにも──の加護がついている。」
母が言っていたのは、何のことだったのだろう。 離宮に佇みあの日に思いを馳せてみるものの、死んでは加護もないな、とぼやいた。
「ヨナのそばに堂々と立てる日は、きっと訪れるわ。」
ここで尽きるのが運命だったのだろうか。母の予言通りにはいかなかったけれど、ヨナを守るという使命のために、ユタは生を全うしたはずだ。…これであなたのもとへ逝けますか。記憶の中の母は、ただ笑っていた。
「あの子が呼んでる。」
不意に引っ張り上げられる感覚がして、母の姿が薄れていく。呼んでる? 一体誰が。疑問を胸に母を呼べば、ひんやり、とユタの頬に何かが触れた。それは顔にかかる髪をどかし、耳にかけ、離れていく。
「……は、上…?」 「ユタ…!」
呼び掛けに応じたのは、母ではなく、絶えず耳にしていた鈴を転がすような声だった。
「………ヨナっ?」
はっと息を飲めば、朧げな意識は覚醒した。どうやらユタは、横向きに寝かされているらしい。視界に映る彼女は、身を屈めて心配そうにこちらを見ている。
何故、目の前にヨナがいるのだろうか。確か自分はあの崖の上から、奈落の底へ落ちたはずだ。死んだのか? しかし、それではヨナも死んでることになってしまう。最期に見たときは、無事だったのに。 状況を処理しきれないユタに、ヨナはくすっと笑みを零した。
尚も混乱し続けるユタは、起き上がろうとするが、体を少しでも動かすと突き刺すような痛みに襲われる。その場で悶えているのを見兼ねて、ヨナは手を差し伸べた。
「無理に動いちゃだめ。背中の傷が酷いんだもの。」 「あ、あの…?姫様、これは夢……?」
堪らずに問いかけたが、ヨナはやはり笑って、そこにいた。
「夢じゃないわ。…傷もちゃんと痛いでしょ。」
よくよく見れば、ヨナは頭や腕に包帯を巻き、顔も擦りむいて痛々しい姿をしているではないか。自分のことなど些末に思えて、ユタは引き攣る背中を無視して、ヨナの頬に触れた。
「僕がいながらこのようなお姿に…申し訳ありません。」 「謝ることなんてない!ユタは精一杯守ってくれた。 無事とはいかなかったけど、私もユタも、ハクも、みんな生きてるわ。」
ハク。 漂わせた視線をヨナの示す方に向ければ、数歩離れた場所に寝かされた、満身創痍のハクが眠っていた。暫くぼうっとその姿を眺めていたが、次第につん、と鼻の奥が熱くなる。ハクを死なせたくないとあの時自ら落ちることを選んだというのに、何故彼はあのような姿をしているのか。憤り…いや、ちがう。腹の底がふつふつと煮える感覚は決してハクに向けられたものではない。己の不甲斐なさに苛立っているのだ。
ハクを見つめたまま何も言わないユタに、ヨナは自分が目覚めるまでの話をぽつりぽつりと話した。
北の谷でユタたちが崖から投げ出された後、ヨナはテジュンに一度捕らえられたものの、鷲掴みにされた髪を捨て、二人を引き上げようとした。しかしユタの手が滑り落ち、驚いたハクの体が揺れ、加えて兵たちがそこに駆け寄ってきたものだから、ヨナも驚いて三人まとめて谷に放り出されたのという。
ヨナはすぐに気を失ったが、奈落へと吸い込まれていく最中、ハクはヨナと、先に落ちたユタの体まで手を伸ばし、その身を呈して衝撃から庇ってくれたのだそうだ。それが幸いしヨナは軽い怪我で済んだが、肝心の他二人は崖の上で負った傷や体を冒す毒もあり、暫く眠っていたらしい。どちらも手当が一歩遅ければ命はなかった。ヨナはその事実を深く受け止めている。
ユタを支えながら、ヨナはふとその胸元に巻かれた包帯をみて、ごめんなさい、と頭を下げた。
「私、ずっとユタは綺麗な男の子だと思ってた。」
ヨナの視線の先を辿ると、ユタは自分が襦袢姿でいるのに気付く。手当てをしたためか胸元は緩れられており、包帯に隠しているとはいえ、その存在を知るには十分だ。彼女は、手当てを施してくれた少年から、ユタの正体を聞いたと、素直に教えてくれた。
「ごめんなさい、ユタが女の子だって知っていたらこんな傷……。 ううん、今は何を言ってもだめね。私にはユタを守る力なんてないんだもの。」
ぎゅっと服を握り、唇を噛み締める彼女に、ユタはどうすればいいのか対応し兼ねていた。何を隠そう、ユタの性別を偽らせたのはヨナの父であり、その理由もヨナが関わっている。ここで真実を話してしまえば、ヨナが傷つくことなど想像に容易い。ただでさえぼろぼろの彼女に、これ以上負荷を掛けたくはなかった。
「…こんな傷、姫様に比べれば何ともありません。」 「嘘をついちゃだめ。」
ハクも言っていた。ユタは、平気なわけないのに、 大丈夫と言い張って、本音を隠しているのだと。
「痛いなら痛いと言って。誰も咎めたりなんかしない。」
やんわりと諭されて、ユタはこみ上げる熱を抑え込み、口元を緩めた。
「いたいです、とても。」
本当は、支えられていても体を起こしているのが苦痛で仕方ない。 初めて聞けたユタの弱音に、ヨナは前よりもずっと血色の良くなった顔に花を咲かせた。
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