双龍の王 | ナノ



月明かりの下で
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カタン、

ヨナと語らった後もう一度眠りに就いていたユタは、夜半、微かに聞こえた衣擦れと物音に、うっすらと目を開けた。先刻まで閉じられていたこの小屋の扉が開け放たれ、月明かりが顔を照らす。弱い光でも眩しい、と目を細めると、森の中へと消えていく背中が見えた。

「………っ、」

ヨナはそばで眠っている。彼女を起こさないよう、自分の手を頼りに身体を起こして、小屋の中を見回す。自分たち以外に二人ほど見覚えのない男がいたが、ユタはすぐにこの小屋の持ち主であると結論付けた。さっきの物音は寝息に紛れ、誰も気付いていないらしい。

あの背中は、誰のものだったのか。その答えは、首を反対側へ向けた時判明した。ハクが寝かされていたはずの場所が、もぬけの殻になっていたのだ。

ユタは弾かれたように、地面に足をつけた。
こんな夜更けに、あんな傷だらけの体で、どこへ行くのだろう。当然返ってくる答えもなく、ユタは焦燥感に駆られて小屋の外へ裸足で飛び出した。

聞いた通りならば、ここはあの北の谷底。もともと火の土地との境にあるこの場所は寒いと聞いていたが、夜は特に冷え込むようだ。城にいた頃は夜でも耳にしていた虫の声が、少ないように思う。

小屋を出てすぐ、木々たちが周りを囲っていた。ユタはあの背中が消えていった方向を思い出し、草木を掻き分けてあとを追う。腕を振る度、足が地面に触れる度、振動で背中の傷がじくじくと痛んだ。燃え盛るような熱を発して体を蝕む。反対に青白い頬や手足を、冷たい風が容赦なく撫でていく。体が引き裂かれてしまいそうだった。しかしユタはそんなの気にもとめず、覚束ない足取りで森の中を突き進む。

自分が何故彼を追ってきたのか、ユタ自身理解できずにいたが、居ても立っても居られなかったのだ。ただ、無事を確かめたい。無心で歩いているうちに、ユタは聳え立つ壁の前にたどり着いた。見上げても、よほど高い場所にあるのか、頂上が見えない。きっと、彼女たちはこの上から落ちてきた。

「ハク、」

壁に手をついて息を整え、名を呼ぶが、返事はない。
何故、どうして、どこへ行ったの? 小屋から随分と離れてしまったようだが、途中動物の影さえなかった。湧き上がる不安に、ユタは胸を押さえた。苦しい。自分の息遣いだけがはっきりと響いて、広大な暗闇の中に一人立たされた心地がした。途端に恐ろしくなり、ユタは再び重い体を引きずって、今度は小屋への道を引き返していく。
けれど、ハクを探すことに夢中だったユタが、小屋の場所を覚えているはずもない。

どっと汗が噴き出し、額を流れて目に入る。あっ、と思う間もなく、ユタはついに膝から崩れ落ち、情けなく地面に全身を打ち付けた。

「…………ハ、ク…」

震える腕を無理矢理使って、上体を起こした。見下ろした地面についた自分の手が、ぽたぽたと、何かで濡れていく。

「ハク、どこにいるの、」

あまりにも無様だ。
かつてないほど体を痛めつけられ、地を這い蹲る様を父が見たら、何と言うだろう。だからお前は生きてはいけなかったのだ、と罵るだろうか。ユタさえいなければ、母が死ぬこともなかったかもしれない。そうすれば、スウォンが謀反を企てることもなく、ヨナも、ハクも、今頃城で笑っていたかもしれない。叶うはずもない想像が、いくつもユタの頭を駆け巡った。

でも、こんな姿だからこそ、生きていると実感するのだ。痛みが増し、熱を持つほど、自分の中を血が流れているのがわかる。

生きていることが、この上なく、嬉しかった。
それを伝えたかったのだ。あの人に。

「わたし、生きているのに、どうして…」

ヨナが、生きていてくれてよかったと笑ってくれた。初めて生きていることを、こんなにも喜ばしく思えた。視界が霞み、やがてユタの口から嗚咽が漏れていく。


「どう、して…どこにも…いないの、ハク──────!!」

「ここにいる。」


とうとう泣き崩れたユタのすぐそばから、返ってくるはずのない声がした。

「俺はここにいる。」

座り込んで俯いたまま、突然のことに驚いたユタは、涙をぬぐうことも忘れて、振り返る。
自慢の大刀を杖にして月を背に立つのは、まぎれもないハクだ。包帯をむき出しにして上には何も羽織らずにいるのに、ちっとも頼りない印象を与えない。ハクからはユタの顔がよく見えないのか、彼は飄々としていた。

「こんな夜更けに何してんだ?
そんなでかい声で呼ばなくたって俺は…………」

大刀を探しに行っていただけで、という言葉は続かなかった。どん、と体に衝撃を受けて、まだ病み上がりだというのもあってハクは思わずよろめき尻もちをつく。

「ハク…っ、生きてる……?」

自分の腰に回った細い腕と、胸元に押し付けられた頭にハッと我に返ったのは、大刀が鈍い音を立てて地面に倒れこんでからだった。

「………………………。」
「………やっぱり死んでる?
勝手に殺すな。」

ユタがもたれ込んで…というよりへばりつい付いている方が正しいのだが、その体勢でハクに軽く頭を叩かれる。けれどユタが離れる気配はなかった。ハクの胸に顔を埋めたまま、彼女はボソボソ何かを話しているようだ。吐息が体をくすぐり、身を捩りたかったが、耐えて耳を澄ませた。

「………か、バカ、バカバカバカバカ、どうしてあの時戻ってきたんだ…あのまま逃げ切ることだってハクならできたのに、毒矢まで受けて…!」

どうにも、彼女は怒っているらしい。

「戻らなければヨナもハクも、大怪我せずに済んだのに…。」


昔、ハクとスウォンでヨナを城下へ連れ出したことがある。当時幼かった少年二人が一国の姫の面倒を見きれるはずもなく、ヨナは目を離した隙に忽然と姿を消した。誘拐犯によるその事件は、スウォンの人脈もあり、すぐに解決したのだが、その時誘拐され気を失っていたヨナを庇うように抱きしめていたのが、他でもないユタだった。ヨナ本人は覚えていないだろうが、幼い女の子二人が麻袋に詰められているというのに、ユタは泣きもせず、ハクが袋を裂いて助け出すまでずっと小さな腕でヨナを包んでいたのだ。

あの時、ヨナがハクたちから遠ざかるのを、ユタは見ていた。でも彼女はいけないよと一言諫めることもかなわず、隣にいることしかできなかったと、その場に居合わせた人に零していたのを、ハクは覚えている。


彼女はいつも自分ばかりを責めてきた。他人に頼ることを知らず、自分の命が危険にさらされようと、絡みつく死に黙って身を委ねる。一見生きることに頓着していないようだが、ハクはユタが一人固く唇を結び、泣くのを堪えていたのを、幾度となく目にしていた。例えそれが他の人にはわからないほど、些細なものだとしても。


「でも、私…ふたりがこんなに傷ついているのに、巻き込んでしまったのに、嬉しいって思ってる。」

そばにいてはならないとイル国王に強く命じられ、これまでの人生を過ごしてきた。それを破って行動を共にした結果が、この様な惨状である。けれどユタは不思議と、卑屈にはならなかった。今にも息が絶えようとしていた時に聞こえたハクの言葉が、よく思い出せる。

「本当は、ずっと、助けてほしかった…!ヨナと、ハクといっしょに、生きたくて…!」

ひたり、胸に感じた冷たい感覚に、ハクは目を見開いた。自分は鈍感ではないとハクは自負している。それこそ、ユタの表情の変化に誰よりもはやく気がつくのだから。けれど、こうしてユタが嗚咽を漏らし言葉が詰まるまで、泣いているなんて夢にも思わなかった。

普段は結い上げられたユタの髪が、華奢な背中を流れている。ハクは首元から髪をかき分け、恐らく一生消えることのないであろう傷に、指を這わせた。ユタの体が震える。良かった、無事で本当に良かった。そう繰り返し、泣いて縋り付いてくる彼女が、愛おしくてたまらなかった。

「顔がみたい。」

眼下に見えるのは、先程から変わらずユタの頭である。ハクは心の声がダダ漏れにでもなったかのように、そう口にしていた。

「顔。」
「嫌。」
「何で。」

が、返ってきたのは予想もしていなかった即答であった。
今酷い顔をしているから、と言って聞かないユタに、ハクはおもむろに両手を挙げ、頭を引き剥がしかかる。しかしユタはいっそう腕に力を込めてハクの腰を抱え込んだ。

「嫌だって言ってる!」
「いでででで、わかった、待て待て!やめる!」

木々が緩衝材の役割を果たしたとはいえ、ハクは全身を打撲した上肋骨を数本やられている。ここぞとばかりに馬鹿力を発揮してくるユタに急いで制止を掛けた。ユタも互いが怪我人であるのを思い出したのか、ふっと拘束が柔らぐ。
そしてハクはそれを狙って、ユタの頬に両手を差し込み、強引に顔を上げさせた。


かぷっ
なんて?


涙を湛えた紫紺の瞳と合ったと思い喉が鳴ったのも束の間、ハクの手はがっちりユタに噛み付かれていた。そんなに顔を見られたくなかったのか。じとりと睨めば、ユタは赤く腫れた目に頬をぷっくり膨らませてもう一度歯を立てた。

試しに手を振ってみる。ユタは噛み付いたままぶんぶんと頭をハクに揺さぶられていた。それが面白くて、ハクは体が痛まない程度に笑う。きょとんとしている彼女を、反対の手で引き寄せ、今度こそ腕の中に収めた。

「離さなくていい。」

耳元で、息を飲むのが聞こえた。

「どうせあの時もくだらない事を考えてたんだろ。
前にも言ったが、お前を縛るものはもうどこにもねェだろ。本心を隠す必要だってねェ。
生きたいって思ってるなら、二度と俺の手を離すな。
勝手に死ぬな。どこにも行くな。
俺も姫さんも、お前を必要としてる。」

心から焦がれていたものをようやく手に入れたのに、すり抜け、届かないところへいってしまう絶望感を、もう二度と味わいたくない。国王を亡くした日と同じように淡い光を降らせる月まで、恨みたくはなかった。

「…はなさない、ずっと。」

影は、いつまでも寄り添っていた。


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