ひおうぎすいせん


「殿下が、攫われた…!?」

サルシャーンのもとにその知らせが届いたのは、兄と別れてから、まさに今アルスラーンを探しているという時だった。どうやら稽古を終えたあと、彼は王宮の者を連れて城下へ抜け出したらしい。

聞けばお付きの者は酷い怪我を負い、アルスラーンはルシタニアの捕虜に攫われ今も街中を逃げ回っているという。

これも兄に会いたいが為にそばを離れてしまった自分の責任だ。サルシャーンは顔を青ざめさせながらも対策を考える。

「殿下は必ず連れ帰る。
だから、今はまだ陛下と王妃様には報告しなくて良い。」
「し、しかし…。」

国王たちがアルスラーンに対して冷たいのは、そばで見ていたサルシャーンがよく知っている。ただでさえ厳しい国王が、捕虜に捕まった王子のことを知ったらどうなるか、想像したくもなかった。

「大丈夫だ、ダリューン殿がついてる!」

城下には、大将軍ヴァフリーズの甥であるダリューンがいるだろう。剣、槍、弓。どの武器を取ってもサルシャーンの知る中で彼の右に出る者はいない。
ダリューンは忠誠心も厚く、ヴァフリーズ同様何かとアルスラーンを気にかけている。彼とならば、アルスラーンを無事に助けられる筈だ。

未だ渋る城の者を放って、サルシャーンは駆け出した。




*




屋敷で馬の世話をしていたダリューンは、表が騒がしくなるのに気づき、手を止めた。厩に飛び込んできたのは、アルスラーン殿下の側近を務めるサルシャーンだ。

「何の騒ぎだ。」
「ダリューン殿、殿下が捕虜に…!」

言葉を聞くや否や、サッと顔を強張らせつつもダリューンは傍に立て掛けていた弓を掴む。サルシャーンと僅かに目配せをし、共に厩を飛び出した。

自分よりも体格も歩幅も大きなダリューンと並走するサルシャーンは、足を止めることなく表情を曇らせる。ダリューンは、申し訳ありません、と自責の念に駆られる少年を一瞥し視線を戻した。

「今は殿下をお救いするのが最優先だ。
どこにおられる?」
「相手は子どものようです。街中逃げ回っているようで、所在が掴めませぬ。」

サルシャーンが知らせを聞いたのは、アルスラーンが攫われてより数刻後のことだ。最悪の事態を想定して苦虫を噛み潰したように再度謝罪を口にする。

捕虜がアルスラーンを捕え逃げ惑っているのは、恐らく追手を撹乱させ、パルス国外へ逃げるためだろう。そう踏んだダリューンは前に聳え立つ王都を守る巨壁を見上げた。

「城壁へ向かおう。」
「…はい!」




*




結果として、ダリューンの推測は大当たりだった。城壁には多くの兵が集まり、武器を持って階段を駆け上がっていく。
ダリューンとサルシャーンもそれに続き、頂上に辿り着くと、そこには捕虜の少年に剣を突き付けられたアルスラーンがいた。二人とも体力を消耗しており、息を荒げて兵たちから逃げるようにジリジリと後ずさっている。

今なら、どちらも傷付けずに捕らえられる。
しかしそうサルシャーンが思った矢先。

捕虜の少年はアルスラーンの襟首を掴んで、城壁を飛び降りた。


「殿下ーーーーーーっ!!!」

「……っ!!」

視界から消えていく二つの小さな影。誰もが間に合わないと思い、衝撃で固まっていたその一瞬の後、下方より激しい水音が響いた。

身を乗り出して下を覗いたダリューンは、アルスラーンが掘に張られた水の中へと落ちたことを察する。やがて息継ぎをするために彼が顔を覗かせると、一先ずは肩を落とした。

安堵と共に一つ深呼吸をし、サルシャーンもまた城壁に足を掛け、高く高く飛び上がる。下では奴隷や街の人によって引き上げられるアルスラーンと捕虜の姿があり、サルシャーンはそこへ目掛けて、高度を下げていった。

「あ…サルシャーン!」

そして、足にかかる負担を物ともせず、華麗にアルスラーンの前に高さを物ともせずサルシャーンは見事に着地して見せた。

「お怪我はありませぬか、殿下。」
「私は平気だが…。」

「馬泥棒ー!!」

気付けば捕虜の少年は繋がれていた馬に乗って人々の間を縫って遠ざかっていた。城壁へ視線を向ければ、ダリューンが弓を構え真っ直ぐ捕虜を狙っている姿がある。
彼なら必ず仕留める…と確信したが、その矢は軌道を逸らされることとなった。


「ダリューン!!待て!!!」


サルシャーンは目を見開いた。ダリューンにその声は届き、放たれた矢を誰もが視線で追いかけ、そして少年を通りすぎて地面に突き刺さるのを見た。

「良かった……。」

剣を突き付けられたと言うのに、この王子は、捕虜が助かって良かったと本気で安心しているのか。周りの人々から手ぬぐいをもらい、サルシャーンは殿下、と彼の前に跪いて髪に手を伸ばす。

「殿下。」
「なんだ、サルシャーン。」
「…なぜ城下へ抜け出したのです。」
「その、ルシタニア人の話を聞いてみたくて…。
まさかこんなことになるとは思いもしなかった。」

ルシタニア人が色々教えてくれるのを期待していたのがまさか脅され、街中を連れ回されるとは。ははは…と乾いた笑い声を漏らすアルスラーンに、サルシャーンは頭を押さえた。

穏やかなのはアルスラーンの長所なのだが、それが逆に今回のようにあらぬ事態を引き起こすことにもなり得る。彼は何事も穏便に済むと思っているのであろうが、奴隷としてこの国へやってきた彼らが暴れることなど想像に容易い。

「アルスラーン殿下、お怪我は!?」
「大丈夫だ。」

彼の髪をぬぐい終わる前に下りてきたダリューンは、どこか不満そうだ。

「なぜあの者を討つことをお止めになったのです?」
「いや…つい…。」
「……考えなし。」
「…分かりました。
私が討ち損じたことにしておきます。」




*




「素直に奴隷になっておれば命を落とさなかったものを…なぜなのだ…。」

馬車の荷台へ乱雑に投げ捨てられていくルシタニア人の死体を目の当たりにしたアルスラーンの表情は、かつてないほどサルシャーンには暗く感じる。
捕虜の少年には逃げられてしまったが、アルスラーンの話をしたいという願いを聞き、彼が攫われた場所まで戻ってきたのだが、どうやら手遅れだったようだ。暴れて手がつけられないと、こうも捕虜たちはあっさりと斬り捨てられていた。

サルシャーンは、俯くアルスラーンを横目に見た。少年に連れられている間、彼はその者に何を聞いたのだろう。そこらの貴族のように奴隷をモノとして見てはいない目だった。


「私には解らぬよ。
ダリューン、サルシャーン…。」

あっという間に過ぎた一日だった。
夕日が鮮やかな色を放ち、馬上のアルスラーンの白銀の髪を染め上げていく。城への帰り道、アルスラーンは何かを思案しているようだった。
ダリューンもまた、彼の様子に悩んでいるかに見える。

「いつか…。」

手綱を引いたダリューンの声。

「殿下が王位に御即位なされましたら、登用していただきたい我が友人がおります。」
「…?それは誰だ?」

純粋に首を傾げるアルスラーン。
だが、沈んだ空気から一変、馬の横を歩いていたサルシャーンが顔色を変えた。

「ならぬ、断じてならぬ!!
あの様なひねくれ者を登用などと!!」
「ダリューンの友人なら、おぬしの知人でもあるのだろう?」
「あんなやつ、知人などではありませぬ!」

あまりの剣幕に兵たちも驚いて肩が跳ねてしまっていた。
アルスラーンが戸惑ってダリューンを見ると、まるでこうなると分かっていたのか、耳を塞いでいる。

「…いや、口が滑りました!今の話はなかったことに。」
「なんだ、思わせぶりな!」

サルシャーンの顔色を伺ってか、後ろに控える兵たちに聞かれることを危惧したのか。

「父上がおれば我がパルスもここエクバターナも安泰だ。
おぬしの友人とやらには、しばらく会えそうにないな。」
「まったくです!」

その友人が余程嫌なのか、眉間のしわが深くなるサルシャーンにアルスラーンが苦笑し、ダリューンもまた微笑みを浮かべた。


ここより三年後のパルス歴320年、王太子アルスラーンは十四歳で初陣を迎える。
それはサルシャーンにとっても忘れられない、王都が炎と血煙に包まれる年となるのだ。



姫檜扇水仙 -謙譲の美-

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