せんじゅぎく


「がっは…………っ!!」
「……っ!!」

サルシャーンの体が軽々と殴り飛ばされていく。

「答えろ、貴様がアンドラゴラスの小せがれか!?」

ゆらりと城内へと通ずる門の暗闇から姿を現したのは、瞳に混沌とした憎しみを宿した銀仮面の男であった。彼はすぐに殺気に気付いてアルスラーンの前へ飛び出したサルシャーンの身体を薙ぎ払うと、吹き飛ばされた少女には目もくれず、その足でアルスラーンを目指した。

「…いかにも。アンドラゴラスの子、パルスの王太子アルスラーンだ。そちらも名乗れ。」

アルスラーンは剣に手をかけ、隙をみて離れたところで蹲るサルシャーンのもとへかけ寄れないかと機会を窺っている。

しかし男には隙がない。こちらが一歩でも動こうとしたら、すぐ様斬り込んでくるであろう。
アルスラーンの予感は的中する。

「王太子だと?どの口がほざく!
貴様は薄汚い簒奪者の産み落とした惨めな犬ころに過ぎぬではないか!!」

身の毛もよだつような寒気がアルスラーンを襲う。まずい、すぐ逃げなければと警鐘が鳴り響いているのに、足は動かない。アルスラーンは男がその場で剣を鞘から抜き、構えることが精一杯だった。

「…すぐには殺さぬ。
俺の味わった十六年の辛苦、一撃で片づけるわけにはいかぬ!」

男はそう言っておもむろに長剣を抜き放った。一歩一歩、着実にアルスラーンとの距離を縮めていく。

「まずは右手首を切り落としてくれよう。
次に会った時は左手首…それでもなお生きていたなら、右の足首でももらおうか。」

男が酷く顔を醜くつりあげて舌舐めずりする。
そしてアルスラーンが恐怖に身を固めているその隙を狙って男一気に間合いを詰めた。

「恨むなら父を恨め。」
「殿下!!」

男の一撃で壁際まで押し飛ばされたアルスラーンは茫然として座り込む。たったの一撃で、アルスラーンが持っていた剣が真っ二つに折れてしまったのだ。打ち付けた体を起こし、どうすればいい、と辺りを見回す。

「殿下、助けをお呼びください!!」

そこへサルシャーンが男の前へ躍り出た。だが湯浴みの際に部屋に全て置いてきてしまったのか、彼女の腰に剣はない。身一つで何ができよう。この場にいる三人が思った。

「あの火傷の男は貴様だったのだな、銀仮面!」
「ほう…あの時はとんだ間抜けだと思ったが、ただの間抜けではないようだな。」

実に馬鹿馬鹿しい。いや、潔いものだ。
自ら命を差し出しにくるとは。

「名を教えろ!
言ったはずだろう、次に会った時に教えると。」
「貴様が生きていればの話だ!」

銀仮面は次の攻撃を繰り出そうと剣を振りかざす。サルシャーンは震える足を無理矢理動かして、男の腕の中へと飛び込んだ。

サルシャーンの背後で我に返ったアルスラーンは、誰かを呼ばねばと息を吸い込む。

「だりゅ…!」

だがそれはサルシャーンを強く地面に叩きつけた銀仮面によって遮られた。アルスラーンも腹に重い蹴りを入れられ、激しくえづく。

「跪け。そうすれば一瞬で綺麗にその右手を斬り落としてやる。」

腹をおさえ、痛む体に鞭を打ってアルスラーンは立ち上がった。立ち向かわなければ、逃げなければ、殺される。はっきりとした恐怖にアルスラーンは息をするのも苦しそうだった。

「させない……!!」

長剣を振りかぶる男に、アルスラーンは攻撃を受け止めようと折れた剣で対抗しようとする。しかし、男の剣が振り下ろされる寸前、アルスラーンは横からの、どん、という決して強くはない衝撃に、大きく体勢を崩した。

「……っあ………!!」

男の剣が切り裂いたのはサルシャーンだった。アルスラーンの喉から声にならない悲鳴が漏れる。

「殿、下…お逃げください!!」

だめだ、サルシャーンを置いてはいけない!

アルスラーンは何か武器を探そうと弾かれたように走り出す。何か、何かサルシャーンを救えるものを。

そして離れていったアルスラーンを確認すると、サルシャーンは頭からも体からも血を滴らせながら、銀仮面の体へと縋り付いた。絶対に離しはしないと睨みつけて。

「貴様に用はない。」

そんな決意も虚しく、サルシャーンは銀仮面に剣の柄の部分で強く頭を打たれ、その場に倒れこむ。だが倒れても、男の足はしっかりと捕らえたままだった。

突然、暗い城壁に灯りがともる。
はっとしてサルシャーンが顔を上げると、そこには松明を男に向けて放るアルスラーンの姿があった。逃げろと言ったのに!そう思いながらもどこかで安堵している自分がいることにサルシャーンは気づく。

「う……ああっ!!」

男は先ほどまでの態度はどこへやら、足を掴むサルシャーンの手を振り払い、大きく後ずさった。男は、火を恐れていた。あの夜と同じだ。小さな蝋燭に灯る火にすら、男は怯えていたのだ。

アルスラーンもそのことに気づいたのか、松明を両手で持ち、振り回しながらサルシャーンを背に庇った。覚束ない足でサルシャーンは立ち上がる。
そしてアルスラーンと男が対峙している間に、荒野一帯に響く声で、叫んだ。

ダリューン殿!!殿下はここだ!!!
「貴様……!!」

憤慨する男が足を踏み出す前にサルシャーンはアルスラーンの腕を引いて背後へ引きずり込んだ。

いけない、斬られてしまう!

サルシャーンの名前を呼ぼうとしたその時、城壁の上へ駆け上がったギーヴを先頭に、アルスラーンの配下たちが次々と姿を現し、銀仮面の男を囲む。ナルサスは肩で息をつくサルシャーンとアルスラーンを守るように立った。

「お怪我を!?」
「私は大丈夫だが、サルシャーンが!」

ナルサスは頭から血を流すサルシャーンに目を見開いた。今ここで包囲を解いては銀仮面を仕留めることができない。もう少し辛抱してくれとナルサスが声を掛けると、サルシャーンは静かに頷いた。

「この男は俺に譲ってもらおう。
双刀将軍キシュワードの城を侵す者は、キシュワードの手で討ち果たす!」
「全員まとめてかかって来るがいい。
そうでもしない限り貴様らごときにこの俺は倒せん。」

これだけの敵に囲まれようとも、銀仮面は余裕を崩すことはなかった。男の挑発にキシュワードは双刀を構え、今にも襲いかからんとしている。

しかし、この場に駆け込んだもうひとりの者によって、銀仮面の退路は開かれてしまった。

「いかんキシュワード!!その方を殺してはならなぬ!!
その方を殺せばパルス王家の正統の血は絶えてしまうぞ!!
殺してはならぬ!!!」

時が止まったようであった。
誰がこの老騎士バフマンの言葉を理解できようか。

「……。」

サルシャーンは横目にアルスラーンの様子をみた。その顔は、重大な事実に気付いてしまったことで、真っ青に染まっていた。

銀仮面はバフマンの言葉で一同が気を取られている間に、逃げ出そうとする。キシュワード、ファランギース、ギーヴ、そしてダリューンがすぐに反応して彼に応戦したが、あと一歩のところで男が濠へと飛び込み、これを逃した。

「…バフマン、私に教えてくれ。
それは…どういう意味なのだ。」

バフマンは、銀仮面の男を殺せばパルス王家の正統の血が途絶えると言った。つまりそれは二つの意味を示していた。

一つ、銀仮面がパルス王家の正統の血を引いていること。二つ、アルスラーン王子がパルス王家の正統の血を引いていないこと。

「お許しくだされ!お許しくだされ、殿下!!
わしは血迷ったことを申しました。
自分でもどうしてよいかわからぬのでござる…。」

更にこのバフマンの謝罪が、その二つの事実を証明していた。

アルスラーンのもとに、駆け寄ってその肩を持って支えてやらねば。絶望に打ちひしがれ瞳に色を宿さぬ少年を目の当たりにして、サルシャーンは自分の無力さを呪った。

ただ一言、伝えればよいのだ。
そんなことは関係ない、と。
血を引いていようがいまいが、そんなことは構わないのだと。

「殿、下……」

けれどサルシャーンの足は動かなかった。

彼女はシンドゥラからの軍勢数万がパルスとの国境を突破しつつあるとの報告を耳にすることなく、その眼を閉じた。


千寿菊 -絶望-

prev
  
next

Back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -