じゃこうれんりそう



「兄上えぇええええええええ!!!」


沈んでいた意識が、微かに聞こえた声に引っ張られるように浮上する。風が緩やかに頬を撫で、小さく編んだ三つ編みが揺れた。橙色の夕日が照らす荒野を高々と見下ろすこの場所は、嗚呼、そうだ。

「兄上?」

聞き慣れた声に横を向けば、一歩離れたところで心配そうにこちらを覗き込むサルシャーンがいた。

「夢でもみていたのか?」

「あ、ああ。
…………夢、だ。」

歯切れの悪い返事に、サルシャーンは変だなと笑って、再び荒野へ前を向いて沈みゆく太陽を眺めた。滅多には下ろされない彼女の髪が、今は風の弄ぶまま、靡いている。前を見据えた整った横顔に、はて、妹はこんなにも美しかったかと場違いに思った。

全て、長い夢だったのだ。
幼き日の彼女も、今目の前にいる彼女も。

「……結局、お前の晴れ姿は見れなかったな。」
「急に何を言いだすんだ兄上!
そんなの、まだまだ先の話じゃないか。」

城壁には、二人だけが立っていた。

「美しくなったな、サルシャーン。」
「……変なの。」

本心だと言うのに、褒められることに慣れていないサルシャーンは揶揄っていると思ったのか、ぷくりと頬を膨らませてしまった。はは、と笑えば、彼女も応えて笑ってくれる。

最後に彼女とこうして二人きりでゆっくり話すのはいつだったか、戦が重なりすぎてそれも分からなくなってしまった。

もっと、もっと沢山話をしておけばよかった。
…なんて、そんな子どもみたいなことを思った。

「サルシャーン、しっかり殿下をお守りするんだぞ。」
「……?ああ、もちろんだ。」
「ちゃんと食事はするんだぞ。
今までも夜はちゃんと眠れていたのか?お前はまだ子どもなのだ、沢山寝て沢山育て。」
「う、うん。」
「ああそれから、クバードには気をつけろ。あいつの前では絶対に隙を見せるんじゃないぞ。
言い寄られそうになったら手でも足でも出して追い払え、いいな?」
「わ、わかった。」
「それから……それから、イスファーンとは仲良くやるんだぞ。」
「待ってくれ!本当にどうしたんだ兄上!そんな、まるでお別れみたいな……」

燃えるような夕焼けは、藍色へ、そして黒へと色を変えていく。いつしか、二人は全てが掻き消された暗闇の中に佇んでいた。

あの場所が、俺の最期の場所だったのだ。

「兄上、兄上!!
今助けるから…助けるから!!だから、兄上、」


探るようにこちらを見ていたサルシャーンが、息を飲んだ。
徐々にその顔を曇らせて、歪めていく。昔と違わぬ仕草が愛おしくて、ふっ、と頬が緩んだ。


「あ、にうえ、」
「サルシャーン、すまなかった。」


もう一度だけでいい、あの頃よりずっと大きくて強くなったサルシャーンの頭に触れたい。けれど、伝えられるのは言葉だけ。足を踏み出そうとしたサルシャーンを拒むように謝罪した俺を、彼女は一層顔を歪めて立ち尽くした。

「ちがう、ちがう!謝るのは、私の方だ…!
兄上の元に駆けつけると言って、兄上に傷を負わせたくはないと言って、結局は見ることしか出来なかった!」
「お前が生きているだけで、俺にとって支えになっていた。」
「でも私は兄上を!」
「嗚呼、俺は、」

見えない俺たちの間に敷かれた境界線。
手の届きそうな、けれど果てしなく遠いこの距離を埋めることは、決してできないのだ。

あの日、同じ戦場にいたサルシャーンだけが気掛かりで、己が助からないと知った時から、最期に一目会いたいと願っていた。そしてそれは叶った、もうこれ以上は望まない。

「俺は、イスファーンに怒られてしまうな。」
「…………兄様、カンカンになる。」
「お前も怒っているか?」
「……ううん、でも。」

サルシャーンの頬に涙が伝う。
思えば、サルシャーンは泣かない子どもだった。心配はしても、かけたくはなかったのだろう。もっと甘えても良いのに、辛いと助けを求めても良かったのに。

「兄上、嫌だよ!!」

そんな愛おしいわがまま。なんと口惜しいことか、漸く縋ろうとしている華奢なその手を、もう取ることができないとは。

「兄上がいなくなってしまうなんて、嫌だよ!」

私も、兄上の元へ。

禁忌だと知りつつ伸ばされた手を、取りたかった。

少しずつ、サルシャーンが遠ざかる。
引き裂かれていくのに抗おうと、互いに手を、体を伸ばし触れようとするけれど、それを許すまいとする。死とはどこまでも残酷で、この境界線は深裂であった。

「兄上、お願い…いかないで!兄上!」

「サルシャーン、許してくれ。」

「やだ、いくな!兄上!兄上!!」

視界が霞んでいくのは、意識がこの世に留まれなくなったのか、それとも、らしくもない涙が溢れたからなのか。

生きろ、生きてくれ。
それだけを祈って、俺は行き場を失くした手を、下ろした。

「愛している、これからも。」

だからこそ、もう別れだ。


「…っ、兄上えぇええええええええ!!!


兄として流した最後の涙は、確かな熱を心に刻んで、弾けた。

麝香連理草 -ほのかな喜び-

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