ごくらくちょうか


女は、その四肢を投げ出して水路の水に沈んだ。身代わりの彼女は、体つきが王妃に似ていても、その言動は王妃とはかけ離れたもので、最後まで王妃を演じきることができず、王妃に仕えているはずのカーラーンを女は"様"を付けて呼んでしまった。また目の前で人が死んだのに、何もできない自分が歯痒いと、サルシャーンは唇を噛みしめる。

「行くぞ。」

たった今殺した女になど見向きもせず、一向はサルシャーンを引き連れ、先を進もうとした。だがそれを止めたのは、サルシャーンではなくギーヴであった。

「絶世ではないにしても美人を殺すとはなにごとだ!
生きていれば悔い改めて俺に貢いでくれたかもしれぬのに。」

明らかな動機不純である。

「まったく…か弱き女をくびり殺し、そのうえ股の下にするとは…。」

動機不純ではあったが、ギーヴは怒っていた。何よりその目つきは城でサルシャーンに付きまとっていた時のニヤついたものではない。苦しんだ表情のまま息絶えた女の上に衣を被せてやるギーヴを、サルシャーンは兵の影から見つめていた。

「おぬしの言う『まことの正義』とやらは、人の尊厳をまたいで通るものなのか?
顔を見せろ色男。」

仮面の男は答えない。

「それとも血液の代わりに水銀が流れているから…そんな素顔になったのか!?」

ギーヴが手に持った油を松明に投げつけると、次第に引火し、ゴゥッと激しく燃え上がった。伏せろサルシャーン!と聞こえた声に、何だ気付いていたのかと安堵したのと共に、体を曲げ、己を掴むルシタニア兵の腕を力一杯に噛んだ。

仮面の男が火を見て狼狽え、カーラーンが男を庇って前に出る。隙をついて一歩離れると、サルシャーンごと見捨てて、カーラーンは数人の兵を率いて城へ、男を囲みながら足を進めた。

「…おぬしら、このうるさい蚊どもを叩きつぶせ。
俺は本物の王妃を追う。」
「おっと…つれないね、銀仮面。」

サルシャーンとギーヴはルシタニア兵が間に立つことによって引き剥がされている。どうする、とギーヴを窺おうとしたが、彼は襲いかかる兵の攻撃を避け、その顔面に剣を突き立てていた。

戦うしかない。
覚悟を決めたサルシャーンにも敵兵が迫る。

ダリューンにはよく稽古を付けてもらった。叔父のヴァフリーズには剣術の基礎を叩き込まれたが、ダリューンの稽古は剣ばかりでなく槍を用い、実戦で通用する技を教えてくれた。

大丈夫、出来る。

松明の灯りで浮かび上がる輪郭を頼りに、相手の動きを見極め、振り下ろされた剣を跳ね飛ばし、身体を切り裂く。肉を斬る音、流れる血に怯むことはない。

「ギーヴ!」

サルシャーンを囲んでいた兵は既に倒れ、水に沈んでいる。だがギーヴに視線を向ければ、兵を見事な剣さばきで切り捨てていく姿と、その後ろに迫る凶刃。

「……!」

名を呼ばれて振り返ったギーヴの頭上に、剣を振り下ろす寸前で止まったルシタニア兵。その胸元には、後ろから厚い身体を貫いた槍の切っ尖が、ギーヴの眼前にあった。

「俺もろとも殺す気か。」
「…助けてやったのにその言い草は何だ。
殺して欲しいのなら、望み通り貴様の綺麗な額に穴を開けてやるぞ。」
「美人に殺されるのは本望だが、それは遠慮しておこうか。」

血を払った切っ尖を今度はギーヴの額に突きつけて、上から見下ろすサルシャーンに苦笑した。額に穴を開けられるのは困るし、今のサルシャーンの容姿でそれを言われると尚更複雑な気持ちになる。

「おぬしは人を殺めたことなどないと思っていたのだが、腕はいいのだな。」
「…いや、これが初めてだ。」

初めてにしては躊躇いがないなと、ギーヴは半ば感心していた。だがこれがサルシャーンの覚悟なのだ。生き残っていくためには犠牲も必要となる。だから、サルシャーンは何かを護るため、そして王太子の進む道を切り拓くために、槍を持つ。

「二度と大切なものを奪わせはしない。
そのためならこの手がどれほど汚れても構わぬ。」

心のどこかで人を傷付けることを恐れていたサルシャーンは、人として抱くべきその恐怖を、髪を切り落とし過去の自分とともに置いてきたのだろう。
しかし、それでは生き急いでるだけではないのか。自分の顔が険しくなるのを抑え込んで、ギーヴはサルシャーンのすっかり短くなった髪を一房、手に取った。

「よく似合っている。」
「…なっ、褒めたって嬉しくなどない。」

ギーヴは自分の手を叩いてそっぽを向いたサルシャーンの顔が、松明の赤みだけではなく、淡い桃色に染まっていることに気付いて瞬いた。

そんな顔もできるのか。

柄にもなくきゅっと心の臓を掴まれたように胸が痛んで、頬が熱くなる。

「それじゃ、私はもう行く。」
えっ

珍しくときめいてしまった自分に酔いしれている間に、サルシャーンは平然として歩き出そうとしていた。慌ててギーヴが引き止めると鬱陶しそうに何だ?と振り返る。

「そなたは連れて行かぬぞ。」
「女一人では危ない。ここで出会ったのも何かの縁、このギーヴが護衛を務めてやろう!
断る理由はないだろう?」
「大有りだ。そなたみたいな変態、誰が好んでそばに置きたがる。いらん帰れ。」

どうやらサルシャーンはギーヴが自分の前からいなくなって、後をついてこないと確信してからでないと進まないと決めたようで、水路の真ん中で仁王立ちしていた。折角行方を掴もうと思っていたのに。
だがサルシャーンは相当頑固なようで、その面構えは、テコでも動かんと言っている。仕方ない、とギーヴは諦めて、大きなため息を吐いた。

「よし!混乱にまぎれて財宝の一部をちょうだいすることにしよう!
ついでに美人もいたらちょうだいしよう!
そうしよう!」
「手癖が悪い。」

ビクッと、サルシャーンの纏う雰囲気が一気に険悪になったのに気付いて、後半は冗談だ冗談、と付け足した。去り際、死んだルシタニア兵の懐を漁るギーヴには、最早怒りすら湧かないようで、サルシャーンは呆れてその背中を見送った。




*




山中にある洞窟で、白髪の少年、王太子アルスラーンはここまで供してきた馬の異変に気付いて、同じ洞窟で将来宮廷画家となるナルサスと何やら話をするダリューンを呼んだ。

「ダリューン、バートンの様子が変なのだ。」

他の馬たちは座り込んで思い思いに寛いでいるが、サルシャーンの愛馬であるバートンだけは先ほどから足踏みをし、どこかへ行きたがっているようだった。もしや、とアルスラーンが青ざめていくのにダリューンもまさかと呟いた。
バートンが落ち着かないのは、サルシャーンに何かあったからではないか。

横目にそれを眺めていたナルサスは、ふと洞窟の外に足音を聞いて、笑った。

「殿下、ダリューン。
心配はいりませぬ。あれをご覧くだされ。」

ナルサスに外まで導かれた二人が、目を見開いて、その場に立ち尽くした。夜の闇に浮かぶ、馬の手綱を引いて歩いてくる姿。

「殿下!ダリューン殿!」

髪こそ短くなって一瞬誰だか分からなかったが、その声はまごうことなき、サルシャーンのものであった。
なるほど、バートンは本当に利口な馬だ。主人の帰還を誰よりも早く勘づくのだ、よほどサルシャーンは愛されている。

「サルシャーン、サルシャーン!
生きているのだな…良かった…!」

幾らか細くなってしまったサルシャーンにアルスラーンが飛びついていく。サルシャーンはまったく、自分が王太子であることを忘れでもしたのか、部下の首に手を回すこの少年に笑みをこぼした。

「殿下……」

彼に伝えなければならないことがある。
意を決して、サルシャーンは口を開いた。

「申し訳、ありません。
殿下のそばを離れてまで、わがままを言ったのに、私は……っ」

目の奥がじわりと熱を持つ。力なく、肩口に顔を埋めたサルシャーンの声が震えていることに気付き、アルスラーンは強く華奢な体を抱きしめた。

「私は…っ、申し訳…ありません……」
「サルシャーン、良い…良いのだ。」

やがて静かに嗚咽を漏らしはじめるサルシャーンと共に、アルスラーンも涙を流した。
ずっと憧れていたサルシャーンという少年も、紐解いてみればこんなに脆いものなのか。

失いたくない、守りたい。
ようやく見つけた、お互いが泣けるこの場所を。
月明かりは柔らかく少年たちを包んだ。



やっと、殿下と旅を共にする者が揃ったか。安否のとれなかったサルシャーンが帰ってきたことにダリューンがほっと息を吐いたそばで、ナルサスもまた懐かしい少女の姿に穏やかに微笑んで見せた。

あぁ、そういえば。

我に返ったダリューンが固まったことには誰も気付かない。大変なのは明日からの生活だ。ダリューンが頭を抱えたくなったその訳は翌日、アルスラーンが身を持って知ることになる。


極楽鳥花 -恋の伊達者-

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