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死に至る病

明日も知れぬ身の者たちが集まってなお、この場所は優しかった。もちろん、ほかならぬわれらがリーダーの仁徳によるところも大きいのだろうが、様々な背景を抱えこの先の未来の道もおそらく分かれているであろうメンバーたちが、いっときひとところに集ったということ自体、ここを優しくさせるほかなかった。私たちの行為は、ほんの悪あがきにすぎない。世界を救う、言葉にすれば大仰だが、世界のこまごまとしたほころびを見つけては、その都度縫い合わせていく、そんな対処療法だ。破壊は破壊でしかなく、憎しみは憎しみを生む。理想主義と言われようと、私たちが動く案件のうちのいくらかは、異界人と人間の経済振興であったり、相互理解や連携の深化であったり、そうした穏健かつ時間のかかる方法によって防ぐことができるだろうと思う。しかしそれにかかる途方もない時間を生き抜く術を私は持っていないし、短時間で解決するための暴力という力を――それはほんの一握りの人しか持たない――持ってしまっている。おそらく血法を操るほとんどの人が多少なり考えてきたことだろうが、少なくとも私とリーダーは、いつもそのことに意識的だった。答えの出ない問いを思考しつづけるほかない私たちは、互いが立ち止まるたび、ただ黙ってその背を守った。うちの参謀は、あきれたように肩をすくめていたけれど。

彼からすれば、私たちが甘ちゃんなのはよくわかっている。貧困や差別をなくせば世界は良くなるだなんて限らないことも。犯罪意識は統一された教育によってはぐくまれる、そうでなければ拉致も殺人も薬もただの文化に過ぎない。犯罪という枠組みを作ったって、それを破る人間は数多くいる。それを取り締まらない理屈はない。どれだけ相手を理解したって突き詰めたところ対立するのだから、目の前の事件をとりあえずおさめておけば良いのだ。余計なものを背負い込むな。そんな彼の態度に救われて、今まで活動を継続できていた部分も大分にある。ライブラは優しい。多様なあり方を受け入れてどこまでも懐深く、明日の暗闇を憂うでなく今をにぎやかに。だから、私は随分と弱くなってしまった。

「本当に、行くのかい」

一面に開けた窓から朝日が差し込んで、ソファセットを超え事務所の入り口付近まで闇を照らしだした。大層お早いご出勤をきめたのはスティーブンだ。リーダーのほか、唯一私の移籍を知っている人物。誰にも会いたい気分ではなかったけれど、私有物を引き取るという作業の性質上見張りをしないわけにはいかないから、顔を合わせるだろうとは思っていた。リーダーは今、国外出張中だ。だからこの作業もスティーブンにしかできない。段ボールに詰め込んだほんの少しの荷物を確認してもらう。マグカップだとか、待機時に読むための本だとか。私はきっとこれらを箱に詰め込んだまま、後生大事に保管するだろう。

「本部から正式な通知が来たでしょう?ドイツですって」

そう、よりにもよって。よりにもよってドイツなのだ。クラウスが出張している先に、私はこれから移籍する。もし鉢合わせたら微妙な空気になること必至である。それで済めばまだいい、一戦まじえることになるかもしれない。私はクラウスの反対を押し切って移籍を決めたのだから。温厚そうに見えて短気で理不尽と言われるクラウスは、私という身内に対しても――身内だからこそ――その性質を爆発させた。あらゆる言葉と情動を尽くして私を説得しにかかり、それが通じないと見ると自分の屋敷に軟禁した。壊そうと思えばドアなど簡単に壊せたし、緊急の呼び出しがあれば任務に就いていたから、生活する部屋や食事が豪華になったくらいで何の問題もなかった――たまらない気分になるだけで。けれどもレオくんやツェッドくんには悪いことをしてしまったかもしれない。事情を話したわけではないが、クラウスが殺気立つからおびえさせてしまったし、ある時には私の手首を壁に縫い付けるさまを見られてしまった。K・Kは目を見開いて固まり、ザップは口笛を吹いて、チェインは姿を消した。スティーブンとギルベルトだけがいつも通りに仕事をつづけていた。そんな日がいくらかつづいて、ぱたりとクラウスの抵抗が途切れた。ダダ漏れになっていた殺気はなりをひそめ、よく見れば表情にこわばりが残るものの、表面上は穏やかに、もとのように優しいクラウスが帰ってきた。その頃には自宅を引き払うに向けて生活拠点をクラウスの屋敷に移していたから、帰る場所も変わらずただ穏やかに物事は進んだ。クラウスだって一つの組織を背負う男だ。幼子のように自分の意見を並べ立てても意味がない、それどころか構成員の指揮にかかわることに気づいたのだろう。それからまたしばらくして、クラウスはドイツへと旅立った。私の出発日もHLには戻らない日程になっていたから、きっと引きとめてしまうことの無いようにという彼なりの優しさなのだろう。

それなのに、よりにもよってドイツ支部所属になるなんて。神様はいじわるだ。でもそこにだってねじ込んでもらったようなものだから、このくらい仕方ないのだと理解している。ポストが空いていて、かつ受け入れる体制をとる余裕のある場所でないと、急な対応は難しい。だからしばらくしたら、途上国でもなんでもいいから、転属願いを出そうと心に決めている。

「君は大切なウチの戦力なんだが」
「言えば代わりの人間が派遣されてくるわよ、そのうちに」

なかなかしおらしいことを言う。この男が冷めているように見えて存外情が深いのは承知の上だが、必要とあらば感情など切り捨てることのできる人間ではなかったか。家財道具一式を整理し、最後の荷物を回収しにきた今という時点になってまで、そんなことを言い出すとは思わなかった。けれど、大方ライブラという組織のために私が残っていた方がいいという判断が根底にあるのだろうな、と自分を納得させる。それに確かに引きとめるなら、忙しく作業しているときよりも実行直前の少し手が空いたころのほうが効果的かもしれない。現に私は事務所を見渡して、短くも濃い3年間の感傷にひたっていたのだから。

「君はいいのか」

前言を撤回しよう。こんな安っぽいセリフ、いまどきドラマでだってお目にかかれない。まぁ以前から芝居がかったセリフ回しが好きな男ではあったけれども。思い切り茶化してやろうと思って口の端を歪めて視線を向ければ、怖いくらいに真剣な赤銅色の瞳に射すくめられた。美形のくせに大きな頬傷、どう見たってやくざなのに、どうしてこんなに優しく人をにらむのだろう。促されるようにこぼれた言葉は、本音がにじんでしまっていた。

「ここにいたら私、いつかダメになっちゃうわ」

私たち牙狩りは不死者を抑えるための肉壁だ。特に血界の眷属たちを滅殺するほどの実力のない私は、レオくんの目とクラウスの封印までの時間をもたせるための取り換え可能な部品でしかない。血法を使える人間に限りがあるとはいえ、仕事だけの話をするなら、同じ役目を果たせれば私でなくてもいいのだ。そのことを忘れないようにしなければいけない。自分は特別だなんて、うぬぼれてはいけないのだ。ここにいるとうっかりそれを忘れそうになってしまうし、ここのみんなは優しいから、ほかの誰でもなく名字名前が必要だと言うだろう。でもいつか、特別でないことに気づいてしまったら。現実を突きつけられてしまったら。

「いつかクラウスが、結婚したら?」

黙ったまま、微笑むように空気が流れる。無言は肯定だ。

クラウス・フォン・ラインヘルツ。この厳つい名から察せられる通り、ライブラのリーダーはお貴族さまだ。こんなゴミ溜めみたいな街で生活するなんてこと、本来ならあり得なかったはずの人。私とは住む世界が違う人。そう何度も繰り返してきた。呪詛みたいに。特別な人を、特別でない人間が、好きになっては、いけない。階級の差は世界の差だ。二つの世界はガラスで仕切られて、互いを見通すことはできるようになったけれど、溶け合う日はきっとこない。異界と私たちの世界が、完全な調和を迎えることがないように。私たちは違いを違いとして受け止めて、しかも許容しなくてはならない。そのときなにより大切なのは、引き際というものだ。

「あんないい人、だれだって好きになるでしょ。流行り病みたいなものよ」

スティーブンが肩をすくめる気配がした。

「そうかい?チェインなんかは平気そうだけど」
「あの子は別のウイルスにやられてるから。しかも悪性」
「へぇ?知らなかったな」

今度はこちらが肩をすくめる番だった。知ってるくせに。ずるい男ね。そんな言葉を口の中で転がしながら。

「もうちょっと人心掌握に励むべきね」
「肝に銘じておくよ」

私はチェインを見習うべきだったかもしれない。彼女ほどの諜報能力があれば、スティーブンの素行の悪さを目にすることもあるだろうに、彼女は自分が傷つくことも厭わず相手の役に立とうとする。自分が役立つことを、何よりの喜びとして、足を引っ張ることを、これ以上ない苦しみとして。もしかしたら本当にスティーブンのプライベート(という名目の諜報活動)を知らないのかもしれないけれど、知ったとしても彼女は変わらないだろうと思った。みんなどこか似ていた。見返りなんて求めなかった。世界平和のために身を粉にするクラウスと、クラウスに身をささげるスティーブンと、スティーブンに尽くしぬくチェインと。みんなみんな、部品として一流だった。クラウスさえも、大きな視点に立ってみれば、部品なのかもしれない、と、初めて気づいた。

このままじゃ、私は部品でさえいられなくなる。

「名前」

デスクの荷物をまとめて退室しようとしたところを、少しばかり強い調子で呼び止められた。あの強い瞳を向けられていることが背中越しでもわかった。私は振り返ることができない。私はただ前を向いて、ひたすら、ただ前に向かって進まねばならない。

「クラウスも、……同じ気持ちだと思うぞ」
「知ってるわ。スティーブンあなた、男心はわかるのね」


2016/03/08



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