俺はその人を、”お姉ちゃん”と呼んでいた。
稽古が終わるたび、道場の縁側で他愛もない話をした。
一緒にアイスを食べたり、けがの手当てをしてもらったり、試合に負けてぼろぼろ泣いたこともあったという。
俺は不思議とその頃のことをよく覚えていない。
赤く射しこむ夕日、伸びた影、指先をかすめる風――
あぁ、あれはいつのことだったろう?
爪一枚を隔てた、かすかな重さと冷たさに目を細める。10年以上も押し入れにしまわれていたマニキュアは乾き、変色して、瓶の形だけがかろうじて当時を思わせた。
『若ちゃん、どうしたの?』
『あちゃー、また爪割れちゃったのか。弱いもんね、爪』
『ほら、こっちおいで。お姉ちゃん良い物持ってるんだ』
『若ちゃんに、あげる』
なつかしい声がよみがえる。まだ自分が彼女を姉と呼び慕っていた時期のこと。稽古の後、いつもの縁側で、爪が割れたと泣く自分にこのトップコートをくれたのだった。あの頃は泣き虫だったなぁ、とか、いつもいつも兄と”お姉ちゃん”の後をくっついて歩いていたとか、思い出したくもない記憶までほろほろとこぼれてきて、無意識に肩をすくめる。
「若ちゃーん!降りてきて!」
記憶の中のものよりほんのわずか低くなった声が、昔と変わらぬ親密さで俺を呼ぶ。階下では日吉と名字の女衆が集まって、朝から何やかやと忙しそうにしていた。何をたくらんでいる、と尋ねてもうまくはぐらかされ。見てからのお楽しみと言って笑う”お姉ちゃん”もとい名前さんに、自室へと閉じ込められてしまったのだった。暇を持て余して押し入れの整理を始めたものの、このタイミングでこんなものを見つけてしまうとは、何かの因果かもしれない。
「はい、ただいま」
階段に向かって声を張り上げ、白く濁りドロドロになったマニキュアを持って立ち上がる。
これは思い出の品。大切で少し気恥ずかしくて、いつまでも押し入れの奥深くにしまっておきたくなるような。今見つけられたのは幸いなことだ。
自分でも忘れていた。7歳くらいだったろうか。その時にはもう、名前さんのことが好きだったこと。どこまでも澄んだ、透明な恋を。
記憶の底に沈んでいた初恋の思い出を、彼女の嫁入り直前に思いだすなんて、誰が予想しただろう?
そう、彼女、名字名前は、この夏日吉名前になる。7つも年の離れた幼馴染から、はれて家族に昇格するのだ。
「失礼します」
「どうぞ。…どうかな?似合ってる?」
夕の西日に目を射られ、一瞬何が何やらわからなくなる。たぶん相当な間抜け面をさらしていただろう。俺は言葉も出ないままその光景に見とれていた。
髪も、化粧もきちんとして、花嫁の証、白無垢を着て。白無垢とは言っても、射しこむ夕日で染め上げたように赤く輝いている。
「…ぅ……あ、ちょっと待っててください、のどが渇いたので」
「え、若ちゃん?」
名前さんのいぶかしげな顔もそこそこに、音を立ててふすまを閉めた。…逃げてしまった。名前さんがあまりにも綺麗だったから。幸せそう、だったから。やはり花嫁は綺麗なものだと現実逃避する頭が思う。大変に失礼な己の振る舞いに冷や汗が出てくるものの、顔が熱くて戻るに戻れない。夕日のせいにすれば、頬の赤さも隠しおおせるか。
冷蔵庫からペットボトルを取り出して、一息に飲みほす。冷たい麦茶はこの季節に良く似合う。すぐ横にゴミ箱があったので、ぽいとマニキュアを投げ入れた。
「すみません、お待たせしました」
「ううん、大丈夫だよ。あの、変かな?お義母さんたちが張り切ってくれてね。本当は羽織るだけだったんだけど、ばっちり着付けしてもらっちゃった」
変だなんてとんでもない。むしろ、
「綺麗です。…とても」
「ありがとう」
すんなりと賛辞の言葉が出てきた自分に内心驚く。けれど今日俺は、もう少し素直にならなければならない。居住まいを正して、告げる。
「結婚、おめでとう。……義姉さん」
「…ありがとう、若ちゃん」
笑顔が一層華やぐ。そういえば、この人は俺が”お姉ちゃん”ではなく”名前さん”と呼び始めたころ、悲しそうにしていたから。丁度兄と彼女が付き合いだした頃からだったと聞く。弟扱いに嫌気がさして、いっぱしの男のつもりでいたのだろうか。それとも幼いながらに二人の変化を感じ取ったのか。遠い日の自分に尋ねてみても、返事は返ってこなかった。
それでいい。
「また”お姉ちゃん”って呼んでくれてもいいのよ?…今度は本当、だし」
「大学生にもなって、それは勘弁してくれ」
そう言ってどちらからともなく笑いだす。これから先、彼女を迎えた日吉家は笑顔で溢れていくだろう。いつか兄と名前さんの間に子どもが生まれ、彼らがお爺さんお婆さんになっても。
もちろん俺も、笑っているに違いない。
requested by ひよ様
“片思い・マニキュア・夕焼けで日吉夢”
Thanks a lot!
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