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Baby-Doll

「帰寮時間はとっくに過ぎていますよ。」

玄関ホールに響いた声に、小さく肩を震わせる。足元の簀の子がかたりと音を上げた。ストレス発散がてらに自棄買いした冬服たちを置くのも忘れ、声の主を見つめる。

なぜこの男がいるのか。あまりにもこの場所にふさわしくない人間の存在に目を白黒させてしまう。見た目の優美さで言うならば私よりずっと似合っているし、住人ですと言われたら思わず納得してしまいそうになるけれど。しかしそんなことは有り得ないのだ、ここは女子寮なのだから。

こんな深夜に、いや、深夜でなくとも男がいて良い場所ではない。一瞬、間違えて男子寮に上がり込んだかとも思ったけれど、寮生活三年目にしてそんなミスを犯すだろうか。男子寮とは棟からして離れている。

「……………」
「……………」
「…………………」
「………なにか言ったらどうなんです」

呆けていたら、綺麗な眉を寄せて不機嫌そうに睨みつけられてしまった。どうしてこの人の言動は何もかもが嫌みったらしいんだろう。名字さんが門限破りとは、驚きました。そう言う声と表情が台詞ほど驚いていないせいだろうか。

「観月くんのほうが、まずいんじゃない?夜中に…ここ、女子寮よ?言い逃れできないわね」
「はい、その通りですね。寮長には黙っていてもらえますか」

頼むというより、確認するような口振り。私が告げ口などしないとわかっているからだ。悔しいから返事はしなかったけれど、無言を肯定と取ったらしい彼は柔らかく微笑んで言った。

「ではまた。」
「うん、」


もう冬休みに入っていたから、姿を見るのも久しぶりだった。「観月くんは帰省しなかったんだ?」なんて話し始めそうだったけれど、我慢した自分を誉めてやりたい。

中高一貫とは言え年明けに進学テストがあるから、私と同じ居残り勉強組か。観月くんほど頭が良ければ帰省をやめてまで勉強する必要なんてないだろうに。

…なんて。一生懸命、彼が寮に残った事情を考えて、現実逃避しようとする自分に反吐がでる。認めたくない事実から目を背けて何になる。彼が今ここにいる、それが一番の証拠であるというのに。


例えば、香水。これも証拠。いつもの薔薇の香りではなかった。もっとずっと甘い香り。

私はその香りを知っている。身につければ恋が叶うと評判の、いわゆる恋コスメのベイビードール。願掛けのつもりで買ってみたものの、マシュマロを思わせる甘ったるくてふわふわとした匂いにあてられてしまって、以来一度もつけて出歩いたことがない。当然彼の好みではないはずだから、香水を変えた訳じゃないんだろう。そもそも、これは女物だ。

去年も一昨年も帰省していた、案外家族想いな観月くんが今年に限って帰省しなかった理由だって、本当はちゃんと知っている。

うまく笑えたかな。


「名字さん、」
「な、…に?」

私の阿保みたいな反応にも、彼はもう眉を顰めたりしなかった。代わりに、

「良いお年を」

言い残して去っていく。

泣きたくなる。いくら門限を過ぎているとは言え、日付まで越してはいない。今日はクリスマスイヴだ。明日だってクリスマスだ。このタイミングで年の瀬の挨拶をするなんてミッションスクールに通う者としてあるまじきことだろう。

「メリークリスマス、でしょう、まだ」

数分前まで恋人と交わし合っていたであろう言葉を、私にも頂戴よ。香水が移るほど、熱い抱擁はいらないから。心の内で言葉を続ける。

彼女と聖夜を過ごすために、寮に残ったことなんてお見通しだ。これでバレていないと思っているなら笑えてしまう。このバカップルめ、もう少し隠したまえよ。私がどれだけあなたを見ていたか知らないくせに。

唸るような呟きにも、彼はきっと律儀に「あぁ、そうでしたね」なんて言いながら振り向くのだ。そうしたら白くて筋肉質で滑らかなそのお腹にきっついパンチをお見舞いしてやる。


三年間ずっと見つめ続けて、陰の努力も葛藤も知っているつもりで、気に入ってもらえるように勉強も頑張って優等生になって、話せた日には有頂天で眠れもしなくて、それでも呆れられたくないから遅刻だけはしないようにして、だというのに不真面目でトラブルメイカーで勉強もろくに出来ないベイビードールの彼女に骨抜きにされてしまった君に、

君に。



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