クラウス・シュヴァルツは相当な暇人か変わり者か頭が緩い男なのだなというのが最近私が彼に抱いた感想である。
はっきり言って私と彼との接点は皆無に等しく、彼が自分自身の肉体を得た今、彼がこの場に留まり私と会話する特別な理由などどこにもない。にも関わらず立ち去る様子は一切なく、時々手振りを交えて感情的に話を続ける彼の意図が何なのか私には目星もつかなかった。ろくに相槌も打たずつまらない反応しかしない相手に延々と話し続けられる強靭な精神力は驚嘆に値する。もし私が彼の立場だったら心が折れているだろう。
彼がこの場に留まり一方的に話し始めてから、かなりの時間が経つ。私が話の内容の大部分を聞き流しながら不躾なことを考えているとも知らず、クラウスはさめざめと泣く演技をしながら大げさに両手を広げて愛する女の不実を嘆いた。

「酷いと思わないかい?俺はラウラがどこにいたってどんな姿になったってすぐにわかるのに、ラウラはまだ俺に気付いてくれない。化け物の一部だった時なら気付かなくても仕方ないけどさ、今は受肉してるんだよ?」
「…だったら自分から会いに行けばいい。実体化出来るからには自由に動き回れるだろう」
「ラウラに会いたい気持ちは山々だけどね、残念ながらそれは今じゃない。力を取り戻したって言っても全体の四割程度だし、さすがに俺一人じゃ彼女を解放してあげるには力不足だから何か策を練らなきゃなぁ」
「解放だと…?おまえ、ラウラ・レーヴェニヒをどうするつもりだ」
「どうするもこうするも返してもらうだけだ。元々ラウラは俺のものなのに、無理矢理奪ったのはあの男だぞ」

不遜にもハイドリヒ卿を『あの男』呼ばわりするクラウスの態度に眉を顰め、それと同時に魔城の核部分であるこの場にいるのが自分達だけでよかったなと彼の強運に感心もする。もしここにいるのが私だけでなくハイドリヒ卿に忠実な三騎士達だったら今彼は塵一つ残さず魂ごと消滅しているだろうから。特に主君を強く敬愛して狂信者と化しているザミエルとシュライバーの二人に今の台詞を聞かれていたら、集中砲火を浴びた末に全身を蜂の巣にされてしまっても仕方あるまい。
彼女らと同じ時代に生まれて同じ国の軍隊に所属していたクラウスは、けれど我らの同胞ではなかった。似たデザインの漆黒の軍服と赤い腕章は第三帝国に属するものであって聖槍十三騎士団を意味する証ではないし、他の黒円卓の者達のようにハイドリヒ卿に忠誠を誓っているわけでもない、ただハイドリヒ卿に気に入られて魂を魔城に取り込まれただけにすぎない彼の鬣の一部だ。むしろクラウスは愛する女を奪ったハイドリヒ卿に対して強い憎悪を抱いている。

「あの男ではなく、ハイドリヒ卿と呼べ。おまえ、自分の立場をわかっているのか?」
「消されるのが怖いなら蘇ろうなんて思わない」
「その体を得られたのもハイドリヒ卿の恩恵があってこそだろう。不敬だぞ。過去がどうあれ、今の主君に従うべきだ」
「主君?俺の?」
「そうだ」

クラウス・シュヴァルツの魂は既にこの城に溶け込んでいる。ならば彼の主君は城の主であるハイドリヒ卿と考えるのが筋だ。私が頷くと、彼はきょとんと目を丸くして驚き――大声を上げて笑い出した。

「ふ――、く…くく、あははははは!!ラインハルトが俺の主!俺を殺した、あの男が!」
「…何がおかしい」

目尻に涙を浮かべるほど腹を抱えて笑っている理由がわからない。笑われている理由がわからないというのは不快な気分だ。己の言動に不備はないと思うからこそ余計に苛立つ。
思わず不快感を隠さず全面に押し出していると、しばらくの間笑い転げていたクラウスはようやく笑いを収めて落ち着きを取り戻した。私の顔を見て大いに機嫌を損ねたと知ったのか、「ごめんごめん」と目尻の涙を拭って息をつく。

「イザーク、君は勘違いしているよ」
「勘違い…?」
「生前は立場や事情があったからともかくとして、俺は最初からラインハルトに従ってるつもりなんてなかった。あの男に跪いて屈しなきゃ叶わない願いなんて実現してもらわなくて結構だ。俺はね、自分の願いは自分の手で叶えなければ意味がないし、無価値なゴミに等しい浅はかな夢だと思ってる。他人に縋らなきゃならない哀れな君達とは違うんだ」
「…不遜な態度は身を滅ぼすぞ」
「残念。もう死んでるから全然怖くないよ。『殺す』は俺にとっての脅しにならない」

胸の前で軽く広げた両手を返して手の平を見せながらニコリと微笑む男に何も言い返せず、口を噤む。強がりで言っているのではなく本心だとわかるからこそ恐ろしかった。彼は何の力も持たない、ただの人間だ。ハイドリヒ卿の爪牙どころか鬣の一部でしかない魂の欠片。生かすも殺すもハイドリヒ卿の心次第で決まる、霞よりも儚い存在のはず、なのに――。
どうして彼を怖れる必要があるのか。黒円卓の人間ならまだしも、ただの人間に私が怯える理由がわからない。何故彼から私を圧倒するほどの威圧感が放たれているのか。何故彼は根拠のない自信を抱いているのか。何故彼はハイドリヒ卿に不敬な態度を取れるのか。何故、何故、何故だ。私には彼が理解出来ない。

おそらく自分自身の在り様に疑念を抱いた変化が原因なのだろうが、私が氷室玲愛と接触して以降現れるようになった亡者は見事なまでの復活を果たして、魔城の一部でしかなく自我どころか個としての意識など皆無だった黄金の骸から美青年の姿へと一気に蘇生した。
魔城に埋没していた時は彼の存在には全く気付かなかったから、今の彼から放たれる雰囲気には驚愕よりも戸惑いを覚えた。これほどまで強い気配を発しているにも関わらず、どうして今まで彼の存在に気付かなかったのか。城の動力源となったことで気が緩んでいたのだろうか。最深部で眠っていても自分は城内で起こる全ての事象に関して完璧に網羅していると驕り高ぶっていたのではないか。気が遠くなるほど長い年月を城と同化して生きてきたにも関わらず内部に潜む異変を察知しなかった己の愚鈍さに歯痒い思いがする。
それとも私が鈍感だったのではなく、相手の方が数枚上手だったのか。そう考えれば彼の存在に気付かなかった可能性も強い。もし彼が意図的に存在を隠していて誰にも悟られず表舞台に出る機会を窺っていたとしたら――最初から何もかも仕組まれていたのかもしれない。彼の魂が魔城に吸収されて取り込まれた瞬間から。更に言えば彼がハイドリヒ卿に殺された時から計画は始まっていたのだろうか。
どこからが巧妙に張り巡らされた罠だったのか、予想がつかないからこそ余計に恐ろしい。常に美しい微笑を湛える青年の思考が読み取れず不快に思い、たかだか一人の男に惑わされている自分にも苛立つ。

とうの昔に心は死んだ。鋼鉄製の歯車と化した心臓は冷たく、軋んだ音を立てて動いている。目が醒めるような美しい絶景を見ても胸は震えず、同胞達の悲惨な過去を垣間見た時も何も思わず、ただ無感動に眺めるだけだった。魔城と同化して、体だけではなく心までもが機械になった。
だからもう普通の人間のように豊かな感情を露わにすることなどなく、もし己の感情を荒げる何かがあるとしたらそれはハイドリヒ卿に関するもの以外にはないと思っていたのに、そう思い込んでいた私の常識を突如現れた青年はいとも簡単に覆すのだから警戒心を抱いても当然だろう。
私は彼の情報の一部しか知らない。簡略な経歴とハイドリヒ卿に殺されて魔城に取り込まれた過去と、それ以外には何一つクラウス・シュヴァルツに関しての知識を持たないのだ。故に、彼が誰に怒り、誰を想って、何を悲しんでいるのか――私には幾年の月日が流れようと共感出来ぬ感情でしかなかった。

「イザーク」と呼びかけてくる男を見下ろすと、彼はどこか遠くを見据えながら悲しそうに笑った。

「人としての心を失った君には理解し難いかもしれないけど…俺はね、ただ取り戻したいだけなんだ」
「…それがラウラ・レーヴェニヒだと?」
「そう。ラウラがいれば俺は幸せだった。彼女がいれば他に何もいらなかった。俺の隣でラウラが手を握って微笑んで、俺が死ぬまでずっと傍にいてくれたら…それだけでよかった。誰も愛せないと思ってた俺が唯一失いたくないと思った女なんだ。なのに…」

私と彼しかいない静かな空間にポツリと呟いた声が響く。
ハイドリヒ卿の元にいればいずれ願いは叶うだろうに、それを愚かにもこの男は『憎い敵の施しは要らぬ』と撥ね付けた。馬鹿な男だ。仮にハイドリヒ卿を憎んでいたとしても一時それをやりすごせば目的は果たされるというのに、感情に左右されてまたとない機会を手放すのか。ラウラ・レーヴェニヒを取り戻したいと心の底から渇望しているなら矜持など捨ててしまえるはずだ。
己の渇望と矜持を比べて悩むのなら、所詮その程度の望みだったのだ。私はそう断じた。

だが――そうではなかった。
声を微かに震わせたクラウスの瞳から一滴の涙が落ちる。

「…どうしてだろうな。今まで散々悪事を働いた罰が当たったのかな。俺が本当に欲しかったものだけが奪われた」

輝石のように美しい碧色の瞳を潤ませて泣く彼に同胞の一人の姿が重なる。私の脳裏に、かつて同じことを言った女の記憶が思い浮かんだ。

『どうして…?大切なものは全て私の手から零れ落ちてしまう…。私が弱いからいけないの…?』

私が過去を見せる度、ラウラは自責の念に駆られて涙を流す。己の罪を悔いて、過去に戻ってやり直したいと嘆く。そうすればクラウス・シュヴァルツは死ななかったのだと根拠のない理由を抱き、過ちを正して彼を救いたいと願っている。
なるほど、と私は嘆息した。確かに彼らは夫婦だったようだ。お互いがお互いを想うあまりに盲目的になりすぎて真実を見る目を失っている。だからこんなに近くにいるのに存在に気付けないのだ。愚か者同士、お似合いだ。いつまでも自分をこの世で一番不幸な人間だと憐んでいるのなら、悲劇の主人公気分に酔い浸り続けているがいい。
そう思っていると――。

「でも俺は、奪われたままじゃ終わらない」

泣いていたはずのクラウスは涙で濡れた頬を拭うこともせず、唇を歪めて低い声で笑った。不遜に、不敵に。燃え盛る憎悪の炎を瞳に宿して。

「今は無理でも、いつか絶対取り戻す。その為に今は我慢するしかない。君ら――聖槍十三騎士団、黒円卓だっけ?化け物みたいな力を持つ君達とは違って、俺は非力な男だからね」

彼自身が言う通り、クラウス・シュヴァルツは何の力も持たない人間だった。魂は稀に見るほど極上なのだが、彼はあくまで普通の域を出ない男だ。獣の鬣になっても爪牙にはなれない。騎士団に属する他の者達のように人外の力を持つわけではないのだから、恐れる必要はないはずだ。
だが、ならば何故この男に限って受肉出来たのか?黄金の獣の鬣となった亡者達は一人として例に漏れず異形と化し、黄金の骸として魔城に溶け込んでいる。一個人としての記憶を有し、あまつさえ自我を取り戻すなんてことは今まで一度もありえなかった。

ざわりと空気が変化する。私を見上げる男の周囲に不穏な気配が渦巻き、まるで大蛇が蜷局を巻いて彼の身を守るような動きを見せる。不気味な黒い影に私は目を瞠った。靄がかった『それ』から巨大な力を感じる。認めたくはないが、ハイドリヒ卿によく似た黄金の属性の力だ。目を凝らして見れば、彼の力に反発しているのか周囲の空間が歪んでいる。彼が一歩進んで足を地につける度に、彼が触れた部分が瞬時に黒く焼け焦げて禍々しい瘴気を放った。
魔城を形成している骸達の苦痛の叫びが聞こえるようだ。黒い影が纏う瘴気は硝酸にほど近い成分で作られているらしく、触れた部分の表面を溶かしていく。煙を立てて溶解する音は、さしずめ骸達の悲鳴や断末魔といったところか。
けれど男は少し前まで自分と同じだったはずの存在を気に留める様子もなく、酷薄な笑みを浮かべている。

――何が、非力な男か。

私自身が魔城と溶け込み、心臓部分となる核の中心になっているからこそ、わかる。あれはもう私の一部ではない。既に私の手を離れた異物。容認してはならない規格外の魂。この男を自由に解き放っては後に必ず禍根を残すだろうと本能が警鐘を鳴らしている。
この男を好き勝手にさせていれば、ハイドリヒ卿を憎んでいる男はいずれ我らと敵対して大きな脅威となる。確たる根拠はないが、その可能性は充分にあった。

けれど今の私には彼を抹消する力がない。いや、言い換えよう。彼の力はもはや私を上回り、うかつに手を出せば私の方が損傷を受けてしまうかもしれなかった。
魔城を動かす核の役目がある以上、私は己の身を危険に晒す真似は出来なかった。私とて黒円卓の一席に座る者だ。普通の人間はおろか同胞でさえ私に勝る者は数えるほどで、私に抗える力があるとすれば少なくとも三騎士レベルの強さでなければ対峙するのも甚だしいと自負していた。
なのに、この男は――。にわかには信じられないが、彼には恐れを抱くほど強い力の片鱗を感じた。
一目見れば、彼がおぞましく巨大な力を持っているのがわかる。彼の周囲に取り巻く黒い影。きっとあれは獣の鬣の一部だ。亡者達の魂が成れ果てた姿の欠片が寄せ集まって作られた、怨念と妄執の集合体。忌まわしい呪いの体現。だとすれば彼は私の力の一部を奪い、それだけではなく完全に彼らを掌握した上で己の力として操っているのか。

「クラウス・シュヴァルツ、おまえは…」

城の核機能を担っている私の力の一部でも使いこなせるとしたら、彼の存在は脅威になりかねない。何らかの偶然が重なって魂が具現化しただけの非力な男だと思っていたが、その認識には誤差が生じている。この男は危険だ。近い将来に我々の敵となるであろう相手をこのまま放置しておくわけにはいかず、ハイドリヒ卿にとって邪魔な存在となる前に彼の魂を消滅させる必要性があると感じる。
刻一刻と時間が経つほど彼が従える魂の軍勢は勢力を増していくようだ。今以上に力をつけてしまったら厄介だし、手遅れになる前に三騎士の誰かに彼を殺させるか?今ならまだ間に合う。
この男が私の力を横から奪う真似が出来るのは、おそらく今まで魔城の一部として埋没していたからだと考えられる。魔城自体と言っても過言ではない私と魔城に魂が溶け込んでいた彼は近しい存在であり、私の一部のようなものと捉えるべきか。それでもクラウス・シュヴァルツが特異なのは他の亡者達とは違って己の肉体や自我があるという一点に尽きる。奇跡でも起きない限り、黄金の軍勢となった魂が一個人として現れるなんてありえないのだから。

何故この男だけが特別なのか、知識が乏しい私にはわからない。私がゾーネンキントになってから数十年、未だかつて彼のような異質な人間はいなかった。
緊急事態、想定外のアクシデントだ。致命的なバグを引き起こす前に原因を排除しなければならない。
理由はわからないが、私は何故かこの男に対して言い知れぬ恐怖を抱えて怯えていた。単純な強さで計れば三騎士達の方が圧倒的に強いだろうし、自我があるにしても彼は獣の鬣の一部。つまりハイドリヒ卿の創造位階、グラズヘイム・ヴェルトールを展開せしめる私には敵わないはずなのに、そうわかっていても私は彼を目の前にして戸惑いを感じていた。
あまりにも彼は我が主に――ハイドリヒ卿に似ているのだ。金髪碧眼の美しい容姿や他者の心情に無頓着な思考回路が…ではない。彼が纏う輝かしい雰囲気や、完全無欠で非の打ち所が見当たらない点、常に余裕の笑みを浮かべる王の風格とも言うべき器。ハイドリヒ卿に敵うはずもなく所詮は二番煎じにすぎないが、ここにはいない彼を連想させるほどクラウス・シュヴァルツは黄金の獣に酷似している男だと言えよう。
自然と眼差しが厳しくなり、私は眉間にわずかな皺を寄せた。そんな私を見上げたクラウスは視線を合わせ、おどけた様子で軽く肩を竦める。

「無理するな。君は何も出来ない。そもそも、何かしようとする意思がないからね。君の大事なハイドリヒ卿が斃されるのをそこで指を銜えて見守っているがいいさ。――断言しよう、黒円卓は崩壊する」
「何だと…?くだらん妄言でわたしを惑わすつもりか?」
「怖い顔しないでくれよ。本当だって。それが俺の仕業なのか内部分裂なのかは、わからないけど…。ああ、その他第三勢力っていう線もアリかもね。もしかして可愛い君の孫娘が何かやってくれるかもしれないって期待してるんだ」
「…おまえ、一体何を企んでいる」
「心外だなぁ。俺はラウラの為にしか動いてないよ。最初から、ね」

彼は愚問だとでも言いたげな表情を浮かべて笑い、踵を返して私から離れていく。遠ざかっていく彼の背中に私は声を上げずにはいられなかった。

「待て、どこへ行く」
「うーん、ちょっとお散歩?心配しなくてもすぐに戻るよ」
「首を傾げても無駄だ。それに心配なんてしていない。おまえ…今は力がないから動く時ではないと言っていただろう」
「だからこそ余計にだよ。俺が弱い分は誰かに補ってもらうさ。それに利点だってある。力が弱いから相手に発見される可能性も低いし…。ほら、君も感じない?俺が知らない誰かさんがここに紛れ込んでるよ」
「……………。この気配は…」

クラウスに言われて気配を探る。すると確かに城内に入り込んだ異物を複数確認した。一つ…二つ。ベイと極めて近い場所にいるようだ。

「イザークの知り合い?」
「いいや…心当たりはない」

言われるまで侵入者に気付かなかった失態に舌打ちしたい衝動に駆られた。いくら目の前の男の言動に翻弄されていたとはいえ、魔城の核としての本来の務めも果たせないとはいかなる理由があっても許されることではない。
侵入者の正体は何なのか。氷室玲愛の一件が尾を引いている上に、先程のクラウスの発言だ。ごく普通の人間だと思いたいが、この魔城に突然現れた魂が普通であるわけがない。
度重なる不穏分子の出現に頭が痛くなる思いがして顔を顰めると、クラウスはこちらの心情も知らず――いや、性格がだいぶ捻じ曲がったこの男のことだから知っているのにあえて、なのかもしれないが――実に気軽に提案してきた。

「そうか、それじゃあそいつの正体を俺が探ってきてあげよう」
「…あわよくば利用して手駒にしてやろう、の間違いではないのか。手勢を増やす魂胆だろう」
「いやぁ俺って、君の中じゃすんごい悪党になってるねぇ。ま、否定はしないけどさ」

嫌味を言ってもクスクスと笑う彼は気分を害した様子もなく、侵入者がいると思われる場所へと目を向ける。

「でも君が真に警戒すべきは俺なんかより、あの男じゃないか?」
「あの男?」
「君達がメルクリウスと呼んでる男だよ」
「カール・クラフト…か?」
「そう、それそれ。あの男には注意した方がいい。上手く言えないけど何か嫌だって思うんだよなぁ」

騎士団員の大半に忌み嫌われている副首領を疎んでいる者がどうやらここにも一人いたようだ。嫌悪感を露わにして渋面を作るクラウスを見て私はふと疑問を覚えた。彼は騎士団員のように直接あの男に関わったわけではないのに、どうしてここまで嫌うのか。
愛する女の運命を捻じ曲げた諸悪の根源としてカール・クラフトを認識しているなら彼を恨んでいても不思議ではないが…もしそうだとしたら逆恨みに近いのではないか?とも思う。各々理由は違えども、騎士団員達は皆、叶えたい渇望の為に双首領の力を求めて忠誠を誓った輩である。ラウラもその例に漏れず、彼女には彼女なりの事情や野望があって彼らの手を取ったのだろう。黒円卓に入るのを決めたのは彼女自身の意思だ。闇に堕ち、この世の全ての罪悪を飲み込む覚悟は既にあったはずだ。
けれど彼にしてみればラウラには全く非がなく、彼女に甘い誘惑を仕掛けた双首領こそが悪という結論に至るのだ。良くも悪くも彼の世界はたった一人の女を中心に回っている。その過度なまでの愛情は相手を押し潰してしまいかねないほど重く、息苦しい。背筋に寒気が走る異常な愛を彼女に抱く様子は、まるで神を盲目的に崇拝する狂信者を連想させる。

「一つ聞くが、そう思う確かな根拠はあるのか」
「ん?別にないよ。ただ、アイツ嫌いだーって俺が勝手に思ってるだけ」
「……………」
「あ、何だよー。その目。こいつ馬鹿だろ…って溜息つきたそうな顔して。失礼だなぁ」
「…よくわかったな。わたしの思考を読み取る特殊能力でもあるのか」
「うわ、酷いよイザーク!可愛い顔して結構冷たいこと言うね。俺ちょっとショックだよ…。でも本当にそう思ったんだからしょうがないじゃないか」
「承知している。副首領に関しては、おまえに言われるまでもない」

メルクリウスと名乗る男の正体は曖昧な影に似ていて得体の知れない不気味さがある。いかにハイドリヒ卿の盟友と言えど、信頼するに足る者だとはとてもじゃないが思えなかった。それどころか何故ハイドリヒ卿が彼と好んで親交を深めようとするのか理解に苦しむ。かの男の何もかも超越したような表情を思い出す度に不快な気分になり、私は口を閉ざして黙り込んだ。脳裏に彼の姿を思い浮かべるだけで嫌悪感が生まれ、首の後ろがザワリと粟立つ。
クラウスに言われなくても彼は油断ならない男だと認識しているし、決して隙を見せていい相手ではないと思っているから警戒を緩めているつもりもなかった。ハイドリヒ卿とは切っても切り離せぬ縁がある者であることも、卿と共に黒円卓の基盤を作ったのも、騎士団に関わる奇妙な力の源は全て彼の術式によるものであることも、この魔城も彼に造られたものであることも、全て私は知っている。普通の人間にこのような真似が出来るわけがなく、だからこそ私は神がかった秘術を軽々と行使するメルクリウスが怖ろしい存在だと倦厭しているのかもしれない。ハイドリヒ卿でさえ到達出来ぬ域にいる者を警戒するなという方が無理だ。彼が何を考えて黒円卓を結成したのか私には知る由もないが、ハイドリヒ卿が戯れに彼を傍に置いているからといって気を許しても良い相手かどうかは、また話が別だ。
それにこう言っては何だが、信頼出来ない軽薄な男という点ではメルクリウスもクラウスもあまり変わりはない。捉え所がなく本心を探りにくいせいもあって、常に疑惑の目で見てしまうのだ。特にクラウスはハイドリヒ卿に対して不敬な態度を隠そうともせず、「出来るものなら何十回でも殺してやりたいくらい大嫌いだ」と堂々と公言している。私相手によく言えたものだと、あまりに潔く言い切った彼の豪胆ぶりには少々驚いた。城内には私だけでなくハイドリヒ卿に忠実な三騎士もいるというのに。もし彼らの耳に入ったら無事では済まず、言い訳も許されないまま八つ裂きにされる可能性もあると彼自身わかっているはず。なのに周りを憚る様子を少しも見せないのは勇気か愚行か。私には判別しかねた。

結局、簡単には手の内を見せないこの男に私は振り回されているのだ。本来なら魔城の歯車の一部である彼は手足の如く自由に使役出来るはずの相手なのに、常に微笑んでいる彼の真意が読めなかった。彼の甘く蕩ける微笑が彼の心をそのまま映す鏡でないことは明らかで、腹に一物を抱えている男が笑っていてもその顔が本心だと思うには早計だし、もし素直な表情だとしてもコロコロ早変わりしすぎてついていけない。何せ、笑っていたかと思えば急に不機嫌になったり泣いたりするから忙しないことこの上ないし、正直疲れるから長く関わっていたくなくて早くここから立ち去れば…あるいは消えてくれればいいのにと思う。
クラウス・シュヴァルツとは相性が悪いのは確実で、私が苦手な部類に入る。普段は他人に全く関心がないから誰かに対して否定的な感情を抱くことさえめったにないのだが、そんな私が彼には「嫌いだ」とはっきり思った。今さっきまでさめざめと泣く演技をしていたクラウスはあっさりと普段の態度に戻って「そう?ならいいんだけど」などと、あっけらかんと返事をしているから余計に腹が立つ。この男にまともに付き合っても無駄にイラついて疲弊するばかりで一銭の得にもならない。そうわかっているのだが…。

「んー?どうしたんだい、イザーク」
「…別に。何でもない」
「何だ何だ、反抗期か?それとも俺がコソコソして妙な動きをするんじゃないかって警戒してる?大丈夫だよ、今はまだ事を荒立てたくないから我慢するさ」
「『今は』『まだ』という言葉が『そのうち』『必ず』に聞こえるのは、わたしの気のせいか?」
「ああ。気のせいだねぇ、きっと。君がそう思うんだもの」
「ふざけるな。調子に乗るのも大概にしろ。おまえ程度の人間に何が出来る?」
「なーんにも。だからそんなに怖い顔して睨むなよ。俺程度の弱いヤツ、気にする必要なんてないだろう?」
「…ほう。その言葉を信用しても良いと、胸を張って言えるのか」

スッと目を細めて眼下に佇んでいるクラウスを見ると、美しい狂人は不遜な笑みを消さないまま無言を貫いている。何を考えているのかわからないから逆に怖ろしい。表面上だけは完璧な笑顔の下では、どんな風に醜く汚い算段が渦巻いているのだろうか。
胸の奥で燻っている微かな焦燥感がいつまでも消えずにいるのが気にかかるが、とりあえず今は好きに泳がせておいても支障ないだろう。謎に包まれた侵入者の正体を知れるのに越したことはない。重大なバグの監視や今後の対応も大切だけれど、それ以上に彼に期待してしまう。どうせ私には好き勝手な行動を取るこの男を拘束する力も手段もないのだから、それならせめて使える駒は限界寸前まで酷使してやろうと思う。
困ったことに、この男を縛る主導権は既に私の手の内になく、解き放たれた亡霊はある程度まで自由を許されている。さすがに団員達と同じというわけにはいかないだろうが、有象無象と化した他の異形達に比べたら遥かに個人としての存在が浮き彫りになっていたし、その上見過ごせないほど強い力を彼から感じたから厄介だ。

――このまま黙って見逃してもいいのか?わかっているだろう。この男を放っておけば、いつか必ず我ら黒円卓の邪魔をする。
だから、消せ。今のうちに。殺してしまえ。自分が出来ないなら他の誰かに殺させろ。

自分ではない誰かの囁き声が頭の中をぐるぐると渦巻いて、甘美な誘惑が脳内の隅々に至るまで占領していく。殺すなら今だと。今しかないと。災厄の芽は早めに摘まないと、いずれ命取りになる。取り返しがつかなくなる前に――いいや、今すぐに殺さなければ!
密かに芽吹いた殺意が思考に根を張り、ゆっくり、しかし確実に、じわりじわりと広がっていく。いずれ死する病魔に侵された患者の体のように。病魔に四肢の隅々まで喰い尽くされて臓腑が腐り落ちてからでは遅いのだ。その前に多少の痛みは伴えど原因となっている部分を摘出して膿を出さねばなるまい。
そう、彼は癌だ。放置しておけば無限に増殖する悪性の腫瘍であり、宿主の命を削り取る忌まわしい肉塊。この男の目的と本質を考慮すれば、彼は我ら黒円卓の脅威となる者というよりもラインハルト・ハイドリヒを内側から腐らせる癌だと思った方が正しいように思えた。
どちらにせよ、看過していい存在ではない。放っておいて毒にはなっても薬には決してならぬ男だ。この種類の人間は扱いを少し間違えただけでこちらが大火傷を負いかねず、団員達と同様に駒としての利用価値を見出そうとするだけ無駄だろう。確かにヒトにしては無類の輝きを誇る魂の器である彼が臣下となれば心強い。だが最良の手駒になる可能性がある一方、致死量に至る毒を持つ害虫でもあるから彼を従わせるなら埋伏の毒を常に警戒しなければならないし、そもそも彼が心底毛嫌いしているハイドリヒ卿に下るとは思えなかった。クラウスのラインハルト・ハイドリヒ嫌いは相当根深いようだ。秀麗な顔が酷く歪むほど強く、目で、声で、雰囲気で、全身で「俺はあの男が大嫌いだ」と訴えている。この先どんなことがあろうともハイドリヒ卿に頭は垂れないだろうなと、出会ったばかりの私でも簡単に想像がついた。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか…。イザーク、君はどっちだと思う?」

殺意を向けられているとも知らないで、柔和に微笑んだクラウスは「招かざるお客さんは誰だろうね?」と小首を傾げると、己の演技に酔い痴れる役者の如く、大仰に両手を広げた。
そして口の両端をにいっと吊り上げて怖気が走るほど不気味な笑みを浮かべたかと思えば、本当に楽しそうに舞台の終幕を告げる。声高に、朗々と。己の声を、審判の日に吹かれる終末の音として。

「賽は投げられた。さあ――終わりを始めよう」

かつて神に愛されて生まれてきたのではないかと思わせるほど整った美貌を持つ青年の姿がドロリと泥のように溶けて醜い肉塊へと変わり、床に触れている部分から魔城と一体化していく。腐臭を周囲に撒き散らすそれは触手に近い外見をしており、形が安定しない胴体からは何十本という数の触覚が生えて複雑に絡み合っていた。
見る者におぞましさを感じさせるのは、それぞれ違う先端部分だ。二つに枝分かれしたもの、繊細なブラシ部分のようになっているもの、食虫花を思わせるもの、ギザギザの歯がびっしりと生えているもの、丸い先端からびゅくびゅくと白い液体を吐き出しているもの――蠢く触手のどれもが粘着質な液体を纏っていて、熱く滾った男性器を連想させるそれが本能的な嫌悪を呼び起こすほど気持ち悪くて、思わず顔が歪む。これが美しい男であったはずの男の正体なのか、と。

だが、今更驚くことでもない。いかに彼の姿が大きく変貌しようと、亡者の本性を現そうと、私は淡々と見続けるだけだ。
私には理解できず、くだらないとしか思えないのだが――時に、愛は人を狂わせるという。『愛する女を奪い返したい』という、彼がたった一つ抱いた強い願い。それを叶える為だけに男は理性も尊厳も何もかもを手放したのだという。ならば恋に狂った愚かな男が人間性の欠片もない異形になったとして、一体何の差障りがあるのか。

あの男が言う通り、舞台の幕は既に上がっている。運命の歯車は勝手に動き出し、私一人の手には余る状況になっているのだろう。
まったく困ったものだ。突然の来訪者といい、好き勝手な行動をする自分本位の男といい…黒円卓にとっての不安要素が多すぎる。
黒い泥となり魔城に身を沈めていくクラウスを見送った私の口からは自然と溜息が漏れていた。


モラトリアムが終わりを告げる
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