雪は嫌な思い出だけを積もらせる。
忘れたいこと、苦しいことだけを白い結晶の中に閉じ込めて埋もれてしまえばいいのに、決まって雪の日に嫌なことが起こるのだ。忘却は叶わず苦痛だけを与えていく。
だから綺麗だとも思わないし、出来れば雪が降った次の日は外に出たくない。触れれば指先を凍らせる温度を持つように、いつだって優しくなんてしてくれないのだから。

ああだからか、と名前は震える拳を叱咤して白い息を吐いた。
突然帝国がこの北領に攻め入ってきたのも、どういうわけか名前が副官を務めている名字少将が北領鎮台の総指揮を執っている守原大将の直轄になったのも、その司令長官が身の危険を察して早々に逃げ出したのも、全部この雪のせいに違いない。悪いことは積み重なって起きるもの。だが、この状況は名前が今まで経験してきた戦いの中で最悪と言っていいほどだった。
なんせ、銃剣を手にして敵の喉元を掻っ切ったのなんて本当に久しぶりの感触だ。温かく生臭い血が顔面に降り注ぐが、それを拭っている暇もなく次から次へと騎兵が突撃してくる。こちらは馬にすら乗ってないというのに容赦がない。咄嗟に目を瞑って血で視界が塞がれるのだけを防ぎながら身を翻す。狙うなら馬か敵兵の足。武装されていない箇所だ。それ以外を攻撃しても一撃で倒せない。
副官ならば本来付き従っている将校の傍から離れず情報収拾、または万一の場合に備えての身辺警護がセオリーで、今のように白兵戦を繰り広げることなんて滅多にない。司令官は後方待機が常なのだ。銃剣を構えることすら無に等しいはずなのだが、生憎と名前が守るべき主は既に戦場に散ってしまっていた。
当たり前だ。戦闘隊形などとうに崩れ、敵兵がこの後方までなだれ込んできているのだから。


「――ふん、司令長官が敵前逃亡なんて聞いて呆れる」


にぃ、と口の両端を吊り上げた名前は、目を突かれて暴れ出した馬から放り出された帝国軍の兵士の脇腹に剣を突き刺した。男が声にならない叫び声を上げる。「うるさい」とばかりに引き抜いた刃をもう一度突き立てれば、びくんと大きく痙攣した男は完全に絶命したようだった。
ようだった、というのは名前がそれを最後まで見届けることなく背後に剣を向けたからで、血に濡れた刃は名前の後ろに迫っていた騎兵の太腿を裂いた。
前後左右を見渡しても敵兵の方が多く、名前の近くにいる皇国軍の兵士のほとんどは血を流して倒れている。まさに四面楚歌といったところか。苦境も苦境、この激戦区にいてまだ生きている己の方が不思議でならない。


「鎮台横列に帝国軍は縦列で突撃なんて…。『まとも』な指揮官じゃないみたい」


敵ながらこれほどまで統率されている軍は見事としか言いようがない。歩兵・砲兵・騎兵の特性をうまく利用し、実に無駄のない作戦を立てている。こちらは雪に足を取られて満足に攻撃することも迎撃することも出来ずにいるのに加えて、戦闘隊形が左右に大きく展開しているせいで両翼の味方からの援護射撃も望めないというのに。
まさに雲泥。明らかな戦術ミスに舌打ちした。所詮、真っ先に自分の身の安全を確保するような男に鎮台の司令長官など務まるはずもなかったということだろう。


「…ここはもうもちません。馬には乗れるのでしょうね、副官殿」


はぁ、と白い吐息を零しつつぐいっと乱暴に血で汚れた顔を拭えば、名前から数歩離れた所にある雪山のひとつが動いた。黒い切れ端が雪の下から現れる。白い地面を真紅に染め上げたその人物は、荒い呼吸を繰り返しながら腹部を片手で押さえ、どうにか身を起こした。
血色はそんなに離れていない名前から見てもいいとは言えず、額にはじっとりと冷や汗を浮かべている。腹部を撃たれているのだからそれも仕方のないことだろう。もってあと数刻、助かる命ではないということは誰の目にも明らかだった。
だが、名前はそんな彼女を一瞥しただけですぐに銃剣を構え、敵を見据えて言った。


「乗れないなどとは言わせません。乗れぬならただの足手まとい。私が貴方を刺します。それがお嫌ならとっとと司令長官の退避を各隊に伝えてきてください。これ以上の戦闘は無意味です」
「閣下の…。それで貴女はどうするのですか。ここを守っても貴女の父君…名字少将はもう――」
「行くならお早く。私だってここで戦死なんてごめんですよ」


近くにいた帝国軍兵士を切り伏せて軍馬の手綱を取った名前は、司令長官副官の彼女が騎乗して味方の元に向かったのを見届けてから周囲を見渡した。
残っている部下はわずか数名でいずれも傷を負っている。このまま戦闘を続ければ全滅するしか道は残されていない。彼らもそれを肌で感じているのか、部下の一人が敵の顎に銃剣を突き刺しながら声を張り上げた。


「副官殿!このままでは我々全員…!」
「後退する!味方の大隊に合流するまで皆、私の指揮下で動け!これより二・三度敵兵を威嚇射撃して距離を作り、その隙に撤退せよ!」


行動は早かった。死に物狂いで奮闘したおかげで周囲の騎兵はある程度減っていたし、撤退する隙も与えてくれた。
名前もまだ少年兵である敵の口に刃を突き刺し、馬から彼を引き摺り下ろしてそれに騎乗した。主が変わったことで動揺して落ち着かない馬を力ずくで押さえ込む。どうせ乗り捨てるつもりの足だ。気を使う必要はない。
残りの部下達が騎乗したのを確かめてから敵味方が入り乱れる戦場を駆け抜けた。立ちはだかる者は全て敵だ。蹄鉄で兵を踏みつけながら疾走する。
数分ほど走った頃、馬の方に限界がきた。無理矢理全力疾走させたせいで力尽きたのだ。口から泡を吹いて地面に倒れ込む。


「副官殿!」


馬と共に地面に打ちつけられるはずだった名前の体は後ろを駆けていた部下によって掬い上げられた。落馬しないように彼の前に座らされる。
しっかりと手綱を握る後ろの男とて傷が痛まないわけがなく、無理をさせてしまったようだ。部下に助けられるとは何とも不甲斐ない。すまない、と乾燥した唇を噛んだ名前は素直に頭を垂れた。


「――助かった、ありがとう」
「お気になさらず。それよりどうされるのです。副官殿についてこられたのは自分達だけでありますが…」


彼の肩越しに後ろを振り返れば、その言葉通り、ついてきている部下の数はさっきより更に少なくなっていた。置いてきたのか、逃げ出したのか。名前が率いる部隊はもう部隊と呼べるものではなくなり、壊滅同然だった。もし今敵軍に追いつかれたら戦闘するまでもなく飲み込まれてしまうだろう。
何かを思案するようにしばらく目蓋を閉じていた名前は「前方に味方であります!」という部下の声を聞いて信じられない思いで目を開けた。まさか、まだ生き残っている部隊がここに留まっているというのか。
だが確かに目の前にいる黒い塊は自軍の制服を着ている。剣牙虎が数十匹いるところから判断すれば、後方待機させられていた独立捜索剣虎兵第十一大隊であることに間違いないだろう。運がいいというか、悪いというか。待機させられていたことで兵も剣牙虎も大した消耗をせずに済んだようだが、こんな場所にまだ留まっているようではすぐに帝国軍に追いつかれてしまう。それでは名前達の二の舞だ。
どうやら守原大将の副官はまだこの隊に追いついていないらしい。チッと舌打ちした名前は司令長官の撤退を大隊長に伝えようと、その黒い人だかりに近付いた。
今すぐ退避させなければと思いながら指揮官らしき人物を探したのだが、どうにも見当たらない。ただその中央部分にいる人物達を囲むように兵達が立っている。


「立って下さい。なにしろこれから戦争ですので」


酷く冷たい声と視線だった。
男性にしては小柄な体躯の男が軍帽を差し出すと、地面に座り込んだ男がそれをひったくるように受け取っていた。


「…言われんでも立つ!」


「彼がこの部隊の指揮官のようでありますな」と背後から囁かれた言葉に頷いた名前はさくさくと雪を踏み締めながら彼らに近付いていく。取り巻く兵達が名前達の存在にぎょっと驚いて銃剣を揺らしたが、一々それに取り合っている暇はない。
白い息を吐き出しながら兵を掻き分けるように腕を振り、円の中心へと辿り着いた。
副官という立場上、それなりに将校の情報は把握している。特に頻繁に関わりのある部隊なら尚更のことで、幸いなことに目の前にいる将校達とは少なからず顔を合わせていた。これなら合流も難なく行えそうだ、と密かにほっと胸を撫で下ろした名前は、軍帽を被り直している若菜へ敬礼を向けた。


「お久しぶりです若菜大尉。陸軍名字少将閣下専属副官、名字名前であります。独立捜索剣虎兵第十一大隊とお見受けしますが、大隊長殿はいずこにおられますか?我ら残兵の合流許可を頂きたいのですが」
「副官殿…!?いえ、大隊長殿はここには…」
「…いないのですか?既に戦死なされたと?」
「い、いえ!そうではなく」
「我々中隊は先程の戦闘で大隊とはぐれてしまい、現在撤退中であります。合流しなければ大隊長の安否もままならない状況です」
「新城中尉」


突然現れた名前に驚いて慌てている若菜の代わりに、新城が敬礼を返しつつ状況報告をすらすらと述べる。

――新城直衛。

名前は目を丸くして驚いた。
いや、彼がこの部隊にいることはわかっていたが、それでも生きていてくれて嬉しい。彼のような有能な人間が死んでいくにはあまりに惜しすぎる戦いなのだから。

で、と新城は探るような視線を隠そうともせず名前に向けた。


「それで名字少将閣下の副官殿はどうしてここに?見たところ、敗走兵とそう変わらぬご様子ですが」


「新城、無礼なことを言うな!」と若菜は遠慮せず不躾な言い方をする新城を咎めたが、当の本人は少しも気に留めずにしれっとしている。切迫したこの状況では礼儀作法に関わっているより自分達が置かれている状況を一刻も早く把握することが先決だ、と判断したのだろう。
無駄を最大限省く、という彼の考えは名前にとっても好ましい。相変わらず正直な人だ、と苦笑した名前は素直に口を開いた。


「閣下は…戦死なさいました。残った兵をかき集めて撤退したのはいいのですが、見ての通り隊にもならない状況です。他隊と合流して指揮下に置いてもらおうと思っていたのであります。元々歩兵なのですが騎兵の真似事ぐらいは出来ますよ」


そう言った名前に、「いや」と新城は首を振った。


「失礼ですが副官殿が乗られてきた馬では剣牙虎を怖がってしまって使い物にならないでしょう。荷を運ぶくらいが精一杯です」


言われて振り返ってみれば、たしかに名前が帝国軍から奪った馬達は見慣れぬ剣牙虎に怯えて遠く離れた所から近付いてこようとしない。見慣れぬ見慣れないの問題ではなく、本能が危険を察知しているのだろう。これではこの部隊の主力である剣牙虎と共闘するなど夢のまた夢だ。
恥じ入るように「出すぎたことを」と軍帽のつばに手をかければ、新城は若菜へと顔を向けた。


「それで中隊長殿、副官殿達の編入はどうされるのです。こうして来ている以上、無下に追い返すわけにもいきません」
「お、追い返すわけがないだろう!副官殿は我々がお守りするのだ!」
「守る必要はありません。私は戦いにきたのですから」


若菜の言葉をきっぱりと否定した名前は、それと、と続けた。


「隊に編入させて頂いたからには私達は貴方の指揮下に入るわけであります。ですから私の立場に気を使う必要はありませんし、駒の一つとしてお使い下さい。私のせいでこの部隊が壊滅に追いやられてしまったら、それこそ立つ瀬がありません」


名前に何か反論したそうな表情を表した若菜だったが、敵の追撃が迫っていることを知らせた導術兵の言葉がそれを遮った。
「急ぎ後退して大隊に合流しましょう」と西田が提案する。このまま帝国軍に追いつかれればまともな戦闘にもならず壊滅してしまうと判断したのだ。兵力に差がありすぎる。一刻も早く大隊と合流しなければならないということは、誰の目にも明らかな状況だった。
導術兵の腕を掴んだ若菜が大隊の場所を探らせようとしたが、この敵味方入り乱れた状況の中で大隊本部の導術兵と連絡を取り合うのは難しいらしく、良い返事は返ってこない。
鎮台司令部も同じ状況だと告げた導術兵の言葉で、彼らが司令長官の撤退を知らずにいることを思い出した名前はそれを伝えようとしたが、頭上から降り注いだ弱々しい声の方が少しばかり早かった。


「司令部はもうありません…守原司令長官閣下は退避されました。あなた方も早く退避なさい。帝国軍の追撃がそこまで来ています」


血塗れのままどうにか騎乗している守原司令長官の副官が生きていたことに、名前は素直に驚いた。とっくに死んでどこかの雪に埋もれていると思っていたのだが、彼女は想像以上に頑丈だったらしい。
だがそれも時間の問題だ。腹を撃たれているだけではなく酷使させすぎた体にはもう限界がきている頃であり、顔には血の気が全くと言っていいほどなかった。乱れる息遣いが命の灯火がいかに儚いかを示している。
名前はそれを承知で彼女を動かした。適切な手当てを施せば彼女は助かったかもしれない。だが療兵はおらず、彼女の上司は逃げた。ならばその尻拭いをするのが副官の務めだろう、と。
そして彼女を利用して助けようともしなかった自分こそが、傷の痛みで苦しむ彼女の息の根を止めてやらなければならない。同じ副官として、彼女を死なせた人間として。
自分がどれだけ人でなしで酷い人間なのかなんて、とうにわかっている。

――情けない。味方の人間を殺す時はこんなにも手が震えるものなのか。

名前は敷布の上に横たわっている彼女を冷めた瞳で見下ろしていたが、やがて決心したように腰下の剣をすらりと引き抜いた。
点数稼ぎの為に彼女を助けようとしていた若菜は近くにいない。やるなら、今だ。今しかない。
ごくりと息を飲んだ名前が刀を振り上げようとしたその時、後ろから腕をぐっと掴まれた。


「副官殿、そんなに震えていては目測を誤ってしまうでしょう。…僕がやろう」
「新城中尉」


後ろには、刀を鞘から抜いていた新城が立っていた。


「…申し訳ありません、副官殿」


そう言って躊躇なく彼女の腹に刃を突き立てた新城に一言二言、言葉を遺していった彼女は、静かに息を引き取った。最後まで根を上げることなく穏やかだった彼女の顔を見つめていた名前は軍帽のつばに手をかける。そうして己の顔を隠した。
彼女の上官は嫌いだったが、彼女自体は好ましい人物だったと名前は思っている。
ぐっと拳を握った名前は彼女の軍帽を拾い上げてそれを彼女の顔に被せた。それぐらいしか、自分に出来ることはなかった。

だが悲観に暮れている暇もなく、敵の追撃が徐々に迫ってきていた。


「すぐ後ろから敵です!」


既に虫の息だった彼女を保護していたせいで足止めをくらい、敵にこの隊の存在を知らせる結果になってしまった。導術兵によれば半刻もすれば追いつかれてしまうという。「足手まといになるから捨てて行け」と自分で言った瀕死の副官を助けようとしていた若菜の目論見は水の泡となったばかりでなく、最悪の状況をも生み出してしまったのだ。
どうしたらいいんだ、とぶつぶつ小さく呟いていた若菜を見て名前は失望した。この男は昔から目上の人間に擦り寄ることばかりが得意で、部下の評判は悪いし、まともな戦闘など経験したことがなかったという。貴族という身分だけで今の地位にいるのだ。以前から指揮官の器ではないと思っていたが、これではこの部隊の兵達が哀れだ。この男が指揮官では生き残る者も生き残れまい。
逃げるのはいい。この状況で敵とぶつかるなんて正気の沙汰だ。問題は、機動力で勝る敵軍からいかにして味方の所まで逃げきるかということ。
同じ疑問を抱いていたのであろう。西田が「それで追手はどうするんです」と尋ねると、若菜は「西田少尉!」と声を上げた。


「貴様の小隊は前進し、三刻間追撃をくいとめろ!」


つまり、西田に死ねと、捨て駒になって敵軍から自分達を守れと、彼は言ったのだ。


「――馬鹿な」


くらりと眩暈がして、名前は背後にいた部下に背中をぶつけてしまった。足に力が入らない。部下が肩を掴んで支えてくれているおかげで地面に尻をつくような失態は晒さずに済んだが、それに気を配る余裕もなく、信じられない思いで若菜に視線を向けていた。
どうしてこうも簡単に愚策でもって部下を捨てられる。どんなに足掻いても生存は不可能だと知っているだろうに。
犬死にしろと言っているような若菜をきつく見据えた名前は異議を唱えようと震える唇を開いたが、静かに敬礼する西田を見てぐっとそれを噛み締めた。『上官命令は絶対』。士官学校で教わるはずのそんな言葉が頭をよぎった。


「西田少尉以下二十八名はこれより前進し、中隊の戦線離脱を援護します」



◇◆◇◆◇◆◇◆



「この隊と合流したのは間違いでしたかな。次はいつ我々が捨て駒にされることやら」
「それなら一番最初に捨てたはずでしょう。あの男、私が副官だってことまだ気にしてる」


ザクザクと雪を踏み締めながら親指の爪を噛んだ名前に、男は苦笑しただけであった。
随分と苛立っている彼女がどこに向かって歩いているのかなんて彼は手に取るようにわかっている。大股でずかずかと歩いていく名前の背中を微笑ましく思いながら見ていると、名前は銃剣の手入れをしている西田の元へと向かっていた。防波堤になることを命令された西田達は、おそらく最後の手入れになるであろう点検を念入りにしている。


「先輩、覚えてますか?海棠屋のあの子!ほら、素人っぽいのが味のある…」


元気ですかねあの子、と漏らす西田は近付く名前に気付いているのかいないのか、新城に話しかけていた。


「あの子のいる皇都までは、まさか攻め込まれるわけにいかんですよねぇ」
「――なら迎撃は私達に任せてもらいましょう」


ざっと西田の前に立った名前は彼を見下ろしながら告げる。


「大切な方がいるのなら貴方はまだ死ぬべきではないのでしょう。やはり私が中隊長殿にかけあって交代してもらいます。貴重な剣牙兵を減らすのはよくない。我が部下達も足止めくらいにはなります」
「名前さん、聞いてたんですか」


突然呼びかけられて目を丸くした西田だったが、まいったなぁ、とばつが悪そうに苦笑いして指で頬を掻きながら立ち上がった。その表情は暗いものではなく、いっそ晴れ晴れとしている。死ににいく覚悟が決まって思い残すことはもう何もない、とでも言いたそうな顔だ。
ふざけるな。名前はそう思った。
少なくとも彼が死ぬことで泣く人間がいるというのに、勝手に納得して死んでいくなと思った。未練を残して死ななければ彼が想うその子が惨めではないか。


「大切な方を泣かせてはいけませんよ、西田少尉」


大切な人が誰もいない自分の方が貴方より死ぬのが簡単だ。
そう言おうとした名前はぐいっと腕を引かれ、あっという間に西田の腕の中に収まった。目の前が黒い外套でいっぱいになる。後頭部に手を置かれて丸ごと強く抱き込まれた名前はその息苦しさと彼の体温の温かさ、そして突然のことに混乱して何も抵抗出来なかった。


「嬉しいな。心配してくれてるんですか?」


からかうように告げる西田の低くも高くもない爽やかな声音が耳元で囁かれて、くすぐったい。「…やめろ西田少尉」と思わず身を捩ると「あは、いつもの名前さんだ」と西田が笑みを零した。


「大丈夫です。俺の大切な人は何があっても涙を見せてくれない頑固者ですから。こんなふうに抱き締めたって『愛してる』の言葉の一つもくれない人だけど、それでもいい」
「な…」
「心配してくれてありがとう名前さん。でも俺の代わりに長生きしてください。貴女を守る為だって思えたら、この任務も随分意味のあるものに思えるから。…うん、本当はもっともっとお偉いさんになって名前さんを俺の副官にしたかったんだけど…仕方ないですよね」


名前の軍帽がパサリと雪の上に落ちる。それを横目で確認する間もなく、名前の唇に西田のそれがそっと重ねられた。今までで一番優しく穏やかな口付けは、西田も名前も瞳を閉じずお互いをじっと見つめながら終わる。
唇を離した西田は困ったように眉を寄せた。


「弱ったなぁ…。今になってそんな顔されると未練残っちゃうじゃないですか」


むっとして「そんな顔とはどんな顔だ」と尋ねようとした名前に再び西田の顔が近付いていく。彼の唇は名前の目元に吸い寄せられた。思わずぎょっとした離れようとしたのだが、がっちりと頭を固定されてそれは無駄な抵抗に変わる。
おそらく女たらしである彼がこういう気障ったらしい行動に出るのはいつものことだったが、今は周囲の目がある。
それでなくとも女扱いされることに抵抗があるというのに、いつだって西田は名前を女として見ていたからどうしていいかわからなくなる。いつも彼は優しかったし、いらない気配りまでよくされた。名前の意にそぐわない行動は閨の時以外何一つしなかった彼にいつだって名前は振り回されていた。あまり表情は動かないことを自負しているから、表面上はそう見えなくても心の中は彼に引っ掻き回されっぱなしだったのだ。


「さようなら名前さん」


柔らかく微笑んで耳元で囁かれたその言葉に名前は背中に爪を立てることで返した。
少しは痛がって傷跡でも残ればいい。最後の最後まで名前の心をかき乱していく西田が憎らしかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



剣牙虎や部下と共に去っていく西田の背中を愛猫と共にじっと見送っていた新城は、白い息を吐きながら、でも決して視線を逸らすことなく小さくなっていく彼らを見続けていた。
数歩離れた場所から名前もそれを見つめる。彼らは特に親しかったらしいから、新城も込み上げてくる感情が何かしらあるのだろう。ぐっと奥歯を噛み締めなければ全てを吐露してしまいそうになるほどに。
「副官殿」と呟いた新城に名前は「はい」と答えた。


「…副官殿、貴女は西田と…。いや、いい。余計なことを言いました、忘れてください」


おそらく名前の西田の関係を問おうとした新城は、それ以上何も言うことなく頭を振った。

『貴女は西田と恋仲だったのか』
そんな彼の声が聞こえて名前は足元に視線を落とす。

正直な話、名前にもよくわからなかったのだ。
たしかに西田とは何度も体を重ねていたけれどそれは名前にとっては不本意なことで、彼の遊び相手の一人になるつもりなど全くなかった。彼に親しげに話しかけられれば話しかけられるだけ、優しくされれば優しくされるだけ猜疑心ばかりが増していった。まさか内部情報を聞き出そうとしているのか、と勘ぐったこともあったが、それに気付いた西田に腹を抱えるほど思いっきり笑い飛ばされて終わった。
たまに会ってお互い気を紛らわせる関係――それだけのこと。好きも嫌いもない。

雲に覆われた空を見上げた名前はちらほらと舞い落ちる雪に目を細めた。


「雪は嫌いです。嫌な思い出だけを増やしていく」


父と、そして西田少尉。きっと二人はこの降り積もる雪に埋もれていってしまうのだろう。
忘却は叶わず苦痛しか伴わない記憶を閉じ込める。冷たいだけでちっとも優しくない雪が嫌いだった。

――でも、ただ一度だけ。


『ほら名前さん、雪だるま。大きいの作れたでしょう?』


子供のように頬を赤くしながら無邪気に笑って雪の塊を指差す彼を見て、雪の日も悪くないと思ったことを思い出す。
それはいつのことだったか。自分はどんな顔をしていたのか。笑っていたのか、呆れていたのか。そんな些細なことは全て忘れてしまっていた。
大切な大切な、楽しかったと思える雪の思い出はそれだけだ。きっとこれから先どれだけ生き延びれるかわからないけれど、ずっと雪が嫌いだし憎んでいくのだろう。

数限りなく舞い落ちてくる冷たい雪が頬に触れて消えていく。
冷えた頬に流れる涙がどうしようもなく熱かった。

――あなたに抱いた想いが大きすぎて、息も出来ない。

白き追憶

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