何故、どうして。
そんな言葉ばかりが混乱してぐちゃぐちゃになっている頭の中を忙しなく駆け回り、正常な思考を働かせようと躍起になるのを邪魔をする。真っ白になって凍りついた脳では何も考えられず、冷静になって目の前の現状を受け止めるのは不可能に近かった。ぽかんと口を開けたままの間抜け面を周囲の面々に晒しているのは百も承知だったが、そんなことを気にする余裕は今の自分にはこれっぽっちも残されていなかった。

突然目の前に飛び込んできた黒い影がぐらりと傾き、まるで糸が切れた操り人形のように力尽きた動作でドサリと地面に倒れ込む。全身が弛緩しているのか、受身など全く取らないまま倒れれば、自らの体の重みでそれなりに痛みを感じるはずである。
しかし地に伏せたその者は全身を打つ痛みに顔を顰めることなく、逆に土と砂と泥に塗れた傷だらけの頬からは血の気が失せて真っ青になっていく。深い傷を負った腹部は少しずつじわじわと真っ赤に染まっていって、そこから止め処なく溢れる血液のむせ返るような匂いが鼻をついた。
本来なら皮膚や脂肪や血管の中に収まっているはずの赤いそれは不快感しか煽らない。彼女の腹部から流れ出す血は一向に止まる気配がなく、周囲の地面に流れ出しては広がっていく。赤い液体が彼女の体から出て行く様を見ると、まるで血と一緒に彼女の生気も流れ出ていってしまうような気がした。
伸びた四肢に力はなく、固く強張った指先はピクリとも反応せず、微かな吐息を繰り返すだけの口からは何の言葉も返されることはない。いや、深手を負った彼女は己の意思ではもう何の反応も返すことも出来なかったのだろう。自分の名を呼ぶ声は耳に届いているだろうが、首を縦に振って「大丈夫だ」と頷く、それだけの動作すら辛いのだ。
時々思い出したように大きく肩を揺らして痙攣する彼女の苦悶する様を呆然と眺めていた狂は、ゴホッと咳き込んだ彼女が口元から血を吐き、こんな時ですら肌身離さず常に身につけている白い仮面の下からボタボタと零れた血が黒い忍装束を汚していくのを目にして、ようやく深く沈んでいた意識を引き上げてハッと我に返った。


「な…にしてんだ、お前…。何で俺を庇った!?お前はほたるの影だろうが!!」


昂る感情のままに、ぐいっと彼女の胸元を掴んで強引に引き上げる。「狂!?」と近くにいた灯が悲鳴を上げて慌てて止めようとしてきたが、狂はうるさいとばかりに彼の手を乱暴に振り払った。
狂が手荒く扱ったせいで傷が深くなろうが、この女が苦痛に呻いて顔を歪めようが、知ったことじゃない。己が今一番知りたいのは、どうしてこの女がこんな愚かな真似をしたかということだ。互いに互いの命を削る真剣勝負の死合いの最中に突然飛び込んできて、まさに今、息の根を止めようと勢いよく振り下ろされた吹雪の刃から狂を庇った彼女の行動が、狂には心底理解出来ない。壬生一族の中でも屈指の実力者で壬生最強と謳われる吹雪が手元を狂わすとは思えないから、もし彼の刃をまともに受ければ軽傷程度などでは済まされず、致命傷となり得ることはわかりきっているだろうに。
むしろ化け物じみた彼の途方もない強さは、この地から長らく離れていた狂よりも同じ壬生一族である名前の方が実感する機会が多く、自分達とは桁違いだと重々承知しているはずだ。戦乱の世に名を馳せた『鬼眼の狂』でも太四老である吹雪には手も足も出ず、虫けら同然にあしらわれていたのだ。微塵の油断も隙もない攻撃をどうにか受けるのが精一杯で、狂ですらこの男には到底敵わないと思い始めているのに、その吹雪と対峙して彼女が無事でいられるわけがない。
この女自身、必ず死ぬとわかっていて、どうして吹雪の攻撃から自分を庇ったりなど――!と血が滲むほどギリッと強く唇を噛み締めた狂の頬に、その時ふと、下からゆっくりと伸ばされた指先が触れた。


「無事…なのですね、鬼の子…?」


よかった、と名前は心底安心したように微かな声で呟いた。白い仮面に隠されているせいで表情を窺い知ることは出来ないが、今の名前はきっと満足げに口元を緩めて微笑んでいるのだろうとわかる。
狂が知る限り、いつだってこの女はそうなのだ。勝手に自分の身を犠牲にして、勝手に自己完結して終わらせる。庇われた側の気持ちなんて少しも考えずに、「貴方が無事で安心しました」と傷だらけの体で笑ってみせるのだ。
今までと唯一違うのは、その対象が自分ではなく、ほたるだけだったという話で――…。

ふざけるな、と狂は名前を射殺さんばかりの眼差しできつく睨みつけた。
ほたるの『影』――護衛である彼女は、主たるほたるだけを見てほたるだけを守っていればいいのに、また名前自身だってそれを誇りとしてほたるの影であり続けたというのに、どうしてこんな重要な場面に限って、頑なに貫き続けてきた信条を曲げてまでして狂を庇ったりするのだろう。
狂がほたるの大事な仲間だから、という理由だけで狂を庇ったのなら、この女はつける薬がないくらいの大馬鹿野郎だ、と狂は思った。己は自分より弱い女に庇われるほど落ちぶれていない。
確かにあのまま名前が狂を庇ったりしなければ、今頃瀕死の重傷を負っているのは名前ではなく狂だったろうが、勝手な真似をして死にかけているのは、愚かな行動に出た彼女の自業自得だ。

この世は弱肉強食、正しい者は常に勝者であるという自然の摂理からして、吹雪に敵わない自分が彼に殺されるのは至極当然のことだ。
もちろん勝つ為にはどんな手段を使ってもいいと思うし、力尽きて倒れる最期までみっともなく悪足掻きしてやろうと思ってはいるけれど、狂は来るべき時に訪れるであろう敗北と死を素直に受け入れる覚悟だって持っている。
互いに己の信念を貫き、魂を昇華させる死合いとはそういうものだ。自分の命すら賭せないような生半可な覚悟では、一生かかっても勝利を掴み取ることは出来ないだろう。
だから吹雪に敵わなかった狂に逃れられない死が訪れるのも当然の結果だというのに、今、狂の腕の中で血塗れになって苦しげに喘いでいるこの女は、その運命を「ならぬ」と強引に捻じ曲げたのだ。
いとも容易く己の命を差し出して。少しの躊躇も見せず。

なんて勝手な自己満足だと思う。余計なお節介を焼いて他者を守った優越感に浸るのは構わないが、その為に他人を巻き込むなと言いたい。
それに彼女の命と引き換えに生き長らえたところで、一体誰が喜ぶと思うのか。今は気を失っているからまだ知られずに済んでいるが、名前に想いを寄せているあの兄弟が意識を取り戻したらまず間違いなく責められるだろうし、下手をすれば恨まれて殺されたっておかしくない。死合いで死ぬのは本望だが、痴情の縺れなんかで殺されるのはごめんだった。

まったく女ってやつは、どいつもこいつも――。

過去にゆやに庇われ、今と全く同じ状況に陥ったことを思い出した狂は、引き絞られるような痛みを訴える胸を無視して、頬に這わされる指先の震えた感触に一瞬だけ目を瞑った後、彼女の手を取った。ぬるりと肌を滑る血が、狂の頬だけではなく、合わさった互いの手のひらさえも赤く汚していく。
は、と荒く息を吐く名前の腹部から溢れる血を止めようとして傷口を手で覆うと、ぐちゅりという嫌な濡れた音と共に湿った感触が肌に伝わって、背筋をぞくりと粟立たせた。
今まで数多くの死線を潜り抜けてきたからこんな傷なんか見慣れているはずで、むしろもっと目を覆いたくなるくらいの惨状だって見てきたはずだ。人間の体の構造はどうなっているのか、薄い皮膚を掻っ捌いた下に流れる血液は、神経は、筋肉は、内臓はどんな色をしているのか、どうすれば人は簡単に壊れるのか、幾多の骸の山を築いてきたはずの自分はとっくに知っているはずなのに、何故か今は目の前にいるたった一人の女の死が怖ろしい。

左肩から腹部にかけてバッサリと斬りつけられた傷口から止め処なく血が流れていく。
名前の体から徐々に力が抜けていき、名前を抱え込んでいる狂は自らの体で彼女の命が風前の灯し火であることを知る。青白い顔に生気は一切なく、血を流し体温が奪われたせいで彼女の指先はひんやりと冷たくなっていた。このままでは、か細い呼吸を繰り返すばかりの彼女が助からないことは一目瞭然だった。

だが、絶対に死なせない。
そう固く心に誓った狂は、名前が黄泉の国へ旅立ってしまわないように、名前をこの腕の中に引き留めておく為に、彼女の手を強く握り締めたのだった。

湿った掌
(繋がる手で5題:01)

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