自慢ではないが、私の朝はとても遅い。
使用人たるもの本来ならば誰よりも朝早く起きて主人の快適な目覚めの為の準備に勤しまなければならないのだが、低血圧な私はどうも朝が苦手なようでどうしてもすっきり起きられないのだ。よって屋敷の住人の中で一番最後に起床する私は、普通ならば絶対に許されないだろうが、いつも当家主人であるシエル様より後に目を覚ます。
昏々と眠り深く寝入って夢の中を彷徨っていると、突如容赦なくカーテンが開けられたかと思えば、窓越しに差し込む清々しい朝日の光が私の目蓋の上に降り注いできて、その眩しさに思わず眉間に皺が寄る。脳と体はまだ睡眠を欲しているにも関わらず、この白い光はそれを許してくれないばかりか無理矢理私を叩き起こそうとしてくるのだ。
うう…と低い唸り声を上げながら体に巻きつけてあったシーツを頭の上まで引っ張って覆い被ろうとすると、不意にそれが取り払われて温もりが奪われ、代わりに与えられた肌寒さと眩しい光源に思わず身が震えた。シーツを奪い返そうとして反射的に伸ばした手を誰かに掴まれる。白い手袋に包まれたその手が誰のものかだなんて、目で確認しなくたってとっくにわかっていた。


「お早うございます、名前。今日も貴女が一番最後のお目覚めですよ」
「……………」
「起きなさい。何でもう一度寝ようとしてるんです。まったく…主人より遅く起きるなんて使用人としての心構えが出来てないようですね。少々痛い思いをしないとわかりませんか?」
「………おはようございます」


余計な抵抗をして折檻を受けるのはまっぴらごめんだ。朝から無駄な体力を消耗したくはないから渋々目を覚まして欠伸を噛み殺しながら起き上がると、ぼんやりと眼を開けた霞む視界の向こう側にはにっこりと微笑む悪魔がいた。
彼の名はセバスチャン・ミカエリス。『悪魔』と彼を言い表したのは単なる比喩表現ではない。シエル様に執事(バトラー)として仕えるこの男は人間ではなく正真正銘の悪魔なのである。確かに腹黒く極悪非道の悪魔と言っても過言ではないくらい捻れまくっているこの男の性格はもはや修正不可能で、私はもはや生理的に受け付けないほど彼が大嫌いだ。
顔の両側の部分が顎まで伸ばされている地獄の闇を閉じ込めたような漆黒色の艶やかな黒髪、鮮やかな血潮を思わせる真紅の瞳、そしてシミやそばかすなど何一つなく滑らかでつるりとした陶磁器にも似た白い肌。丁寧にアイロンがかけられている燕尾服には皺などどこにも見当たらず、ネクタイやピンにも乱れは一切ない。見目麗しい外見で人間を誘惑し堕落させる魅力を持っているせいか、姿形だけは極上の彼は今日も上から下まで文句の付け所がないほど完璧だった。
それがまた腹立たしく、相変わらず嫌味な男だ、と内心で舌打ちした私はこれ以上彼の小言を聞きたくなくてむくりと起き上がった。確かにこれ以上惰眠を貪り、身支度を整えている主人を放っておきながら自分だけベッドの中でぬくぬくと過ごすのは召使としていかがなものかと思う。
そう思い動こうとはするのだが――未だ覚醒していない脳はぼんやりとしたままろくに働かず、のろのろとした鈍い動作で立ち上がった瞬間、足元がふらついたせいで窓枠に思いっきり頭を強打した。


「〜〜〜〜〜っ!!」
「…何をやってるんですか、貴女は」
「…大丈夫か?」


ガツンとかゴツンとか鈍い音がしたかと思うと額に激痛が走って目の前が真っ白になる。
声も出せないくらいの痛みに蹲って悶えている私の上に、心底軽蔑した視線で見下ろすセバスチャンと、少々気遣わしげに尋ねてくるシエル様の声が降り注いだ。悪魔らしく人情の欠片もない執事とは違い、私の幼い主は優しい心根の持ち主だ。
痛いことには変わりないけれど、そうやって私の身を気遣ってくれたことがとても嬉しい。眠気などすっかりどこかに吹き飛んでしまった私は「大丈夫です」と頷き、セバスチャンの手を借りて身支度を整えていたシエル様の元で片膝を付き、「おはようございます、シエル様」と頭を垂れた。
指通りの良いサラサラとしたブルネットの髪、煌く宝石のような蒼碧色の大きな瞳、精巧な人形じみた白磁の肌。美しい少女と見紛うほど可愛らしい顔立ちをしたこの少年はシエル・ファントムハイヴ伯爵。この屋敷の主人である彼は若干十二歳にして広大な領地を治める当主であり、それと同時に玩具・製菓メーカー「ファントム社」を才能溢れる経営方法であっという間に巨大企業に成長させた年若き社長でもある。
わずかに眉を顰めたシエル様は呆れたような表情を浮かべて不穏な空気を漂わせる私とセバスチャンを見比べたかと思うと、疲れた様子でため息をついた。


「セバスチャンもそのへんにしておいてやれ。言いたいことはわかるが、名前の寝起きの悪さは今に始まったことじゃないだろう」
「そうやって坊ちゃんが甘やかすから彼女の寝坊癖がいつまでたっても治らないんですよ」


呆れながらため息をつくセバスチャンの言葉を耳にして、私はムッと顔を顰めた。
私がセバスチャンを心底嫌っているように、彼もまた私に好意など全く持っていないのか、私に対する態度はいつも辛辣だ。言動さえ丁寧だがその裏には隠しきれないほどの無数の棘が含まれていて、時にはわざとこちらの神経を逆撫でするようなことを言ってくるのだから苛立たしい。まぁもっとも何かの間違いや天変地異が起こって彼に好意を抱かれた日には、生理的嫌悪を催し身の毛もよだつだろうから、こうして明らかに見下されている方がまだマシなのだが。
しかしそれでも小馬鹿にされると腹が立つ。私の寝起きの悪さは弁解する余地もないほど酷いものだという自覚はあるが、それをシエル様に咎められるならまだしもこの男に口出しされたくない。執事の彼が私の上司であり部下の怠惰を咎める権利を持っているとしても、だ。
目を眇めて傍らに立つセバスチャンを横目で見やると、彼は私からの明け透けな視線を少しも気留めることなくシエル様からティーカップを受け取り、主の身支度を整え始めた。絹で織られた真っ白なシャツのボタンを留め、ベストの袖を通し、手触りがよく一目で上質のものだとわかる上着を羽織らせ、最後の仕上げにやや大きめのリボンを首元に巻いて結ぶ。


「そうそう…先日注文したヘレンドのシノワズリーのティーセットが届きましたよ。ですから本日の午後の紅茶(アフタヌーンティー)はキーマン茶に。ベリーも入ってきましたので、おやつはカラントとベリーでサマープディングにしようと思うのですが…いかがですか?」
「!」
「任せる」


思わずピンと背筋を伸ばして聞き耳を立てた私に気付いたのか、シエル様は面白そうにくつくつと喉を鳴らして笑う。私はセバスチャンのことは大が頭に十はつくほど嫌いだけれど、彼が作る菓子が大好物なのである。認めるのは癪だしかなり悔しいが、プロの料理人が顔負けするほどセバスチャンが作る料理や菓子はどれも申し分ないほどおいしく、見た目の味も完璧で一級品と評しても過言ではない。
だから彼手作りの菓子に目がない私はいつも己の理性とプライドと食欲の狭間で苦悩していた。仮にも敵視している男に簡単に餌付けされるのは嫌だ。でもそんな意地を張っていることさえ馬鹿馬鹿しくなるほど彼の菓子は素晴らしくおいしくて…結局最後には心が折れて釈然としない気持ちのまま、得意げに微笑むセバスチャンの顔を見ながら彼手作りの菓子を口にして舌鼓を打つことになるのだ。
唯一の救いは私の大好物が当の本人に気付かれていないことだろう。もしセバスチャンに知られてしまったら、羞恥心で人は死ねるということを私は表現出来ると思う。

そういう理由があって極力反応しないように努めていたのだけれど、うっかりセバスチャンの言葉にほんの一瞬だけ動揺してしまい、それがシエル様にもわかるほど顔に出てしまっていたらしい。内心でかなり慌てた私はさっと表情を消して平静を装おうと試みたのだが、もう遅かった。
あえて何も仰らないけれど、にやりと笑ったシエル様には「(今日のおやつはプディング…!)」とうっかり期待してしまった私の本音など全部お見通しなのだろう。眠気がまだ完全に取れず少々不機嫌であるはずのいつもの朝の様子とはうって変わって、意地悪そうな笑みを口元に浮かべている。
…シエル様、お願いですから性根が捻じ曲がりきっているこの執事と同じ種類の笑顔を向けてくるのはやめて下さい。貴方の将来がとても心配になってしまいますので。


「では私は早速明日の準備に取りかかります。――名前、貴女も自分の仕事をしなさい」


いつもであれば意味もなく反発したくなる彼の言葉も、愉快そうに細められたシエル様の視線から逃れたい今の私にとっては天からの啓示にも等しい。わかりましたと素直に頷いた私はシエル様への礼もほどほどにして足早に部屋を去った。私の記憶が正しければ、明日はバートン伯の養護院の子供達をこの屋敷に招く予定になっているはずだ。
どんな客であろうとも、名門貴族であるファントムハイヴ家の名に恥じぬ最高のもてなしで出迎えるのが作法というもの。シエル様の顔に泥を塗らない為にも、わずかなりとも手落ちがあってはならない。
そんなわけでシエル様の部屋を出た私は自分の仕事をするべく屋敷内を歩き回り始めた。――何しろ我が家の使用人達は個性豊かな人間揃いで、彼らだけで彼ら自身の仕事を任せきりにするのは少々…どころか、かなり心配だったから。



◇◆◇◆◇◆◇◆



「ギャアアアアーッ!!危ないですだーっっっ!!」
「―――――っ!?」


私の不安は早くも的中した。廊下を歩いていると角を曲がった瞬間、人影が突然目の前に現れて、盛大な悲鳴と共にドンッと何かが体にぶつかる衝撃が走った。鳩尾に思いっきり体当たりされてはいくら痛みに強い私もさすがに辛く、一瞬息が止まりそうになって顔を歪める。
それでも何とか苦痛に耐えてその場に踏み止まり、後ろに倒れそうになった体を支えながら胸元を見下ろして、突然飛び込んできたものの正体が何なのかを確認しようとして――数回ほど瞬きを繰り返した。


「…メイリン?」


私の胸に顔を埋めていたのはメイリンだった。顔を見て確認することは出来ないが、二つに分けて結わえられた赤髪の上にちょこんと乗せられた白いレースの飾りと、慎ましい印象を与えるスカートの裾が長いメイド服を見れば、彼女が誰であるかを判断することは容易だ。
致命的なほどドジで間抜けな彼女は家女中(ハウスメイド)という役目を負っているにも関わらず、洗濯も掃除も失敗ばかりを繰り返す。今も壷を運んでいる最中だったらしいが、彼女の力ではかなりの重さがあるそれを支えきれなかったのに加え、運悪く解けてしまったブーツの紐を踏みつけてバランスを崩して転んでしまったようだ。転んだ先に偶然私がいたからまだよかったようなものの、もし誰もいなければ今頃盛大に転倒した彼女は思いっきり顔から床に衝突していたに違いない。
私の背が高いのか彼女の背が低いのか、ちょうど私の胸の位置に飛び込んできたメイリンは、ぷはっと顔を上げて息をついた後、自分がしがみついていた相手が私だと気付き、慌てて身を離した。


「はわわわっ、すっ、すすすすみませんですだ名前さん!」
「いえ、特に大事ないのでお気になさらず。それより少し落ち着かれては…」


また転んでも知りませんよ、と続けようとした私の言葉など少しも聞いていないのか、目をすっぽり覆い隠してしまうほどの大きさの丸眼鏡をかけたメイド服の少女は血の気が引いたせいで真っ青な顔をしながら半泣きになって喚いている。


「それどころじゃないですだよ〜!ワタシが何もない所で滑って転んだせいで坊ちゃんが大切にしてた高価な花瓶が…!!」
「壷でしたら…それならここに。割れてませんし、ヒビ一つ入ってませんから安心して下さい」
「あああああ〜!ありがとうございます、一生恩に着ますだよ名前さあああん!!」
「…いえ、それは結構です」


感極まった様子のメイリンにがしっと力強く抱きつかれた私は軽く嘆息して、突撃してきた彼女にぶつかった時、柔らかく華奢な彼女の体と一緒に受け止めた大きな花瓶を彼女に返した。
彼女の厚意はありがたいが、いつか迷惑を被りそうな予感がするのでここは丁寧に断っておくのが吉だろう。それよりちゃんと前を見て歩いてくれと思う。絶望的なまでに目が悪いという彼女は瓶底のように分厚い眼鏡をかけているが、彼女の致命的なまでのドジっぷりを見る限り、視力が悪いというよりただ単に注意力が散漫なだけではないかと私は疑っている。
靴紐はしっかり結んでおいて下さいね、とメイリンに忠告した私は再び転びやしないかという不安に駆られながら彼女の背中を見送って、姿が見えなくなってからようやく次の場所へ向かったのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



鼻をつく焦げ臭いにおいに顔を顰めた私は、黒い煙が流れる元へ辿り着き、ああやっぱりと肩を落とした。


「…今度は一体何を焦がしたんですか、バルド」
「おー、誰かと思ったら名前じゃねぇか。相変わらず眠そうで辛気臭ぇ面してんなぁ。まだ若いんだからシャキッとしろよ、シャキッと!」


悪臭が漂うキッチンの中を覗いてみれば、室内は散々な荒れ具合になっていた。数々の高級な調理器具が取り揃えられているはずの流し台や壁の大半は真っ黒に炭化するほど焦げていて、それ以上に焦げたオーブンからもくもくと上がる灰色がかった煙が空気中に漂っている。まるで大火事でも起こった後のような悲惨たる光景だ。
その中で蠢く一つの黒い人影。元は金色の短髪であったはずの頭部はかなりボリュームが増して鳥の巣のような芸術的な髪型になっていて、白い服は所々焼け焦げてボロボロになり煤で黒く汚れていて、私が知っている通常の彼の姿とは大きく異なっているが――しかしそれでも彼がバルドロイ本人であることは間違いない。
目を保護するゴーグルを取り外したバルドは怪訝そうにキッチン内を見渡す私を見て陽気に片手を上げて声をかけてきたのだが、ファントムハイヴ家の厨房で料理人(シェフ)として腕を揮う彼にしてみればこれは部屋を焦がしたことにはならないらしい。バルドは口を尖らせて苦言を呈す私に反論した。


「つーか、別に失敗なんかしてねぇよ。ちょっくら母国から取り寄せた新兵器の使い心地を試してたら爆発したってだけで」


そう主張する彼の手には見たことがない巨大な武器が握られている。彼の身の丈以上はある大きさのそれは重厚な鉄製らしく鈍い銀色の光を放ち、かなりの威力を持つ重火器なのだと知れた。普通の人間であれば小型のバズーカ砲に近いそれを触れる機会が日常で訪れることはまずない上に、一介の料理人が持つには酷く不釣合いだ。
紛争地域の最前線でしか目にするはずのない代物が、どうしてここにあるのだろう。この屋敷で戦争が起きているわけがないし、そもそも料理器具として新兵器を使う必要はどこにもない。
頭の中が現在進行形で戦争真っ最中な彼を、私は酷く冷めた視線で見やった。


「……………。それで調理台を丸々台無しにした、と」
「うっ…。こ、細けぇこたぁいいんだよ!芸術的な料理に爆発は付き物だろうが!」
「それは初耳です」


私が料理に求める要素は芸術性ではなく味そのものであって、見た目がどんなに悪くても味さえ良ければ何も問題はないと思っている。だが彼が作る料理(料理と呼ぶのも抵抗がある何かの物体)はその見た目すら食欲をそそるものではなく、むしろ減退させる成分が含まれているのではないのだろうか。
ただの黒い炭になったラムのラベンダー焼きを見て私はげんなりと肩を落とした。彼の理論は食への冒涜だと思うのだが、私の心が狭すぎるのか。今まで彼の手料理の中で食べられるものを口にしたことがないから余計にそう思う。

最悪、今日の昼食は抜きかと思っていたのだが、どうやらついさっきセバスチャンが来て代わりの食事を作ってくれたらしい。無事だった残りのひき肉と野菜で作ったロールキャベツとポテト・ミントサラダが乗った皿を見つけてほっとため息をついた私は、バルドと共に後片付けを開始した。
しかし泡をたっぷりつけたスポンジで鍋をゴシゴシ洗っている途中、ふと我に返った私は、「いやーしっかし、爆発した時はさすがの俺でもちっとばかしビビったぜ。死ぬかと思ったもんなぁ〜」と何事もなかったかのように豪快な笑い声を上げるバルドを見て思う。…この屋敷の料理人って、確か貴方ですよね?



◇◆◇◆◇◆◇◆



「あ、名前さん見ーつけた!ちょっといいですかー?」


厨房を去ってから中庭へと続く廊下を歩いていると、溌剌とした陽気な声に名を呼ばれた。
足を止めて振り返ってみるが、誰もいない。気のせいだったかと不思議に思いながら首を傾げると、「こっちですよー」と再度同じ声が聞こえる。どうやら勘違いではなかったようだ。
注意深く周囲を見渡してみると、声の主は窓の向こう側にいた。庭先で私の名を呼んでいた少年は満面の笑みを浮かべながら私の元へ駆け寄ってくる。作業の邪魔にならないように前髪をピンで留め、動きやすい作業服を纏い、泥まみれの軍手をつけた庭師(ガードナー)の名はフィニアンという。胴回りが太い木を抱えていた彼は、かなりの重量があるであろうそれを平然とした顔で持ち上げていた。


「フィニ…それは?」
「あ、これですか?植木です。ちょっと失敗して庭の芝生全部枯らしちゃって…。だからもし暇だったら埋めるの手伝ってくださーい!」
「はぁ…」


――私の記憶が正しければ、つい二・三日前も同じような失敗をしたと思うのだが。
喉まで出かかったその言葉を奥でどうにか押し止めた私は、えへっと屈託なく笑うフィニを見て脱力感を覚えた。先日の失敗は彼の頭の中から既に綺麗さっぱり消え失せているようだが、どうしたらこんなにもポジティブな思考を持てるのか私にはわからない。
というか、彼の思考回路を理解すること自体、私には無理な話だ。私は突然突拍子もない言動をするフィニにいつも驚かされていて、彼と会話をしていると宇宙人を相手にしているような気分になる。とにかく疲れるのだ。無邪気な彼に悪気はないとわかっているのだけれど、彼と接した後の疲労感が半端なく大きく、出来れば一対一で面と向かい合って二人きりで会話をする事態になるのは避けたいと思うほどには苦手意識を持っている。
だから今も叶うことならフィニの申し出を断りたい気持ちでいっぱいだったが、有無を言わさず彼に手を引かれて中庭まで連れて行かれ、どういうわけか二人仲良く協力しながら木を植えている状況になっていた。


「ところで…どういったデザインの庭にするおつもりで?」


中央に噴水がある広々とした庭は見るも無惨なほどの荒野と化していた。道の両脇に植えられていた木の枝葉は全て枯れ落ち、色鮮やかな花が咲き綻んでいた花壇は荒れ果て、青々とした芝生は大部分が萎びてしまっている。元通りの美しい光景を取り戻すまでには相当手を入れなければならず、かなりの苦労と時間を必要としそうだ。
だがフィニはそんな苦難など何とでもないとでも思っているのか(たぶん何も考えていないだけだろうが)、大きく膨らんだ期待に胸を弾ませながら両手の拳をぐっと握り締め、キラキラと円らな瞳を輝かせた。


「えっと、合体ロボみたく格好イイ庭にしたいんですっ!!ガシン、ドカーン、バーン!って感じの!!」
「(ガシン、ドカーン、バーン!な合体ロボ…??)」


輝く笑顔をフィニに向けられたが、私には彼が口にする庭がどういうものなのかさっぱり想像つかなくて、顰め面をして首を傾げた。独創的な彼の想像力は私の理解の範疇を超える。きっと今彼が脳裏に思い描いているイメージは私が思いもつかない感じになっているのだろう。
熱心に己の理想の庭の完成図を語るフィニの声を意識半分で聞き流しながら黙々と作業を進めた私は、後で忘れず除草剤の散布機を直しておこうと思った。三歩歩いた瞬間すぐに物事を忘れる鳥頭の彼のことだから、このまま放っておけばまた同じ失敗を繰り返すに違いないのだ。





空気が凍え、夜空に浮かぶ満月がより一層輝きを増す頃、シンと静まり返ったファントムハイヴ家の敷地内に侵入しようとする人影が蠢いた。不穏な気配を察知してピクリと反応した私は、感覚を研ぎ澄ませる為に閉じていた目蓋をゆっくりと持ち上げ、侵入者がどこに現れたかを探る。
大きく豪華な正門を堂々と潜る暗殺者などいない。門番がいない正門も裏門も鼠一匹入り込めないように施錠してあるから事前に連絡がなければ開いていることはまずないし、侵入方法があるとすれば屋敷の周囲をぐるりと取り囲む高い塀を乗り越えるしか術はないから、見張りは私一人で充分事足りる。
立ち上がって敷地内を一望出来る屋敷の上から周囲を探ると、息を潜めて木々の間を移動する何かがいた。深い闇の中ではさすがに昼間より視力は劣るが、それでも招かざる客を発見するのに支障はない。目を眇めて庭に入ってきた侵入者を注意深く観察すると、一見すると男は武器を何も持っていないようだからおそらく暗器の類を懐に忍ばせているのだろう。――何者かから暗殺依頼を受けて、眠っているシエル様を殺す為に。

シエル様は敵が多い。私には漠然としかわかっていないが、由緒正しい家柄の貴族というものは昔からの古いしきたりやしがらみに縛られる宿命らしいし、飛躍的に急成長を続けるファントム社は理不尽な妬みを向けられることも多いらしいし、何より多くの肩書きを持つシエル様がまだ幼い子供の年齢ということもあって簡単に見下されてしまう立場にあるのだ。
『悪の貴族』『女王の番犬』『裏社会の秩序』と影で怖れられるシエル様の本来の姿も見抜けない愚か者達に限って、邪魔な存在であるシエル様を消そうとして次から次へと暗殺者を送り込んでくるのだから頭が痛い話なのである。

――金や権力欲にとりつかれた醜い亡者ごときがシエル様の安らかな眠りを妨げるなど、この屋敷の番犬たる私が許さない。

ふん、と鼻を鳴らした私は一つに結い上げている長い銀髪を夜風に揺らしてタンッと地を蹴り、屋根から一気に飛び降りた。衝撃を和らげる為にワイヤーを使って壁伝いに地面に降りて、屋敷に向かって走ってくる男の前に立ちはだかると、突然現れた私の姿に声もなく驚いた男は慌ててその場に踏み止まった。
覆面をした男は「!」と一瞬息を詰めて目を見開いて私を見る。その一瞬見せた戸惑いが彼の死を決定した。
懐に差し込んでいた私の手から数本の短剣が放たれ、寸部の狂いなく人体の急所を狙って投げた銀色の光を持つそれは、男の額と喉元、それと心臓に突き刺さる。


「―――――!!」


勢いよく鮮血を撒き散らした男は断末魔の悲鳴を上げる間も与えられないまま絶命した。
昏倒して自らが流す血で地面を赤く染めていく男の傍らに膝をつき、苦悶の表情を浮かべる彼の顔を覗き込んで瞳孔が開いていることを確認し、首の動脈に指を当てて完全に脈が止まっていることを知った私は、ふと背後に立つ気配を感じてため息をついた。


「…覗き見は悪趣味だと思います、執事殿」
「おや、気付かれてしまいましたか。さすがに貴女を欺くのは難しいようですね」


ふふ、と不敵に笑うセバスチャンに気分を害され眉を顰めた私は、何を今更、と内心で悪態をついた。わざと私に気付かれるように気配も足音も消さず近付いてきたに違いないというのに、すました顔でしれっと言い放つこの男の面の皮の厚さとか神経の図太さには、怒りを通り越してもはや呆れてしまう。少しも残念がっていないくせに、よくもそんな大げさな嘘を言えるものだ。
元々この男には苦手意識を持っているのだが、自分達以外は深く寝静まった深夜、近くに誰もおらず彼と二人きりの状況となると更に緊張感が増して逃げたくなる。原因はよくわからないけれど私の本能が警鐘を鳴らすのだ。悪魔はその眉目秀麗な外見で人間を誘惑し篭絡して堕落させるというから、無意識のうちに彼を警戒してしまうのかもしれない。
でも私にもプライドというものがあって彼を怖れていることに気付かれたくなかったから、苦し紛れに「もう猫と戯れなくてもいいのですか」などというどうでもいいことを口にする。虚勢を張っている私に出来る唯一の抵抗だ。
するとセバスチャンはそんな無駄な足掻きをする私の怯えに気付いているのかいないのか、くすりと笑って「私が昼間どこに行っていたのか知ってるんですね」と肩を竦めた。


「たまには息抜きしてもいいじゃないですか。あのどうしようもないバ…使用人達に疲れて擦り切れた心を彼女に癒してもらってるんです。彼女は私の天使だ。愛くるしい仕種、しなやかな体、流れる黒髪、琥珀に煌く気の強そうな瞳…。ああ、彼女の手はどうしてあんなに柔らかくて触り心地がいいんでしょうねぇ」
「知りません」
「名前、貴女は彼女の魅力がわからないんですか」
「私は犬派ですので」


うっとりと目を細めて蕩けるような甘い表情を浮かべている彼には悪いが、私には猫の魅力がさっぱり理解出来ない。移り気で自分勝手でワガママで――主人の言うことをよく聞き素直で忠誠心が強い犬の方がずっと可愛げがあると思うのだが。
しかしここで不毛な言い争いをする気は一切なく、私は己を魅了する猫という生き物について切々と語るセバスチャンをその場に一人取り残して屋敷の中へと戻ることにした。日付が変わる時刻はとうに過ぎている。あと数時間もすれば朝になるだろうから今夜はもう暗殺者は来ないだろう。主の護衛役を兼ねた近侍(ヴァレット)の私に与えられた仕事は、主人であるシエル様をありとあらゆる危険から守ること。襲撃がないと踏んでいる以上、これ以上この場に留まっている理由はない。

静かにシエル様の部屋に入った私は、豪華な天蓋付きのベッドの中でふかふかのシーツに埋もれながら眠るシエル様の愛らしい寝顔を拝見して、そっと息をついた。
彼は唯一無二の私の主。私の大事な宝物。私に残された存在理由。シエル様の平穏を乱す者はたとえ誰であろうと許さず容赦なく消すし、彼の御身を守る為なら自分の命を犠牲にすることすら厭わない。この身一つ捨て去って彼を守れるなら安い代償だ。

嫌味な上司、自由奔放な使用人達、絶え間なく現れる暗殺者。近侍も楽ではない。
でも慌しいこの生活もそう悪くないと思えるのは――きっと、彼がいるから。


「おやすみなさい、我がご主人様(マイロード)――良い夢を」


私は安らかな寝息を立てる小さな主の額に一つ口付けを落とし、ほんの少しだけ口元を緩めた。
シエル様に拾われてこの屋敷に来てからというもの、騒がしい日常を送るはめになった私の一日は、こうして終わりを告げるのだ。

とある従者の一日

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