彼女は時折爪を立てる愛らしい子猫でもなければ澄んだ鳴き声で歌う駒鳥でもない。獲物に飢えた貪欲な猟犬だとふと思う。それも見た目だけは極上の。
敵と判断すれば一瞬も躊躇することなく身を切り刻むその姿は、悪魔である自分が見ても異様なものであった。無表情で血飛沫の中を駆け巡る。ただ呼吸をするように、自然に。人間をただの肉塊に変えていく彼女を見てぞくりと背筋が粟立ったのは、恐怖か興奮か。
全身に返り血を浴びて床に血を滴らせていた猟犬は、煌く銀髪を靡かせ、凍てついた蒼色の瞳にセバスチャンを映し出して不快そうに眉を顰めた。


『…何故死なない?』


セバスチャンは心臓に深く突き立てられたナイフを抜き取り、口の端を吊り上げる。悪魔がこんなもので死ぬはずがなく、流れていた血は固まり、傷口は瞬時に塞がれていく。ただの人間だったら間違いなく致命傷になっていたであろう、その傷。
感情がないと思っていた少女も常識離れした光景に思わず息を飲み、瞬きを繰り返す。
それを見たセバスチャンはにこりと微笑み、皺一つない白い手袋に包まれた右手を差し出した。


『我が当主の命により、貴女を迎えに参りました。ミス・名字』


名前・名字という名を持つ少女は、イタリアンマフィアの裏の実力者と呼ばれる男の懐刀だ。少女から逸脱しきれていない外見とは裏腹に何人もの命を奪ってきた裏の世界の人間であることは、血に塗れた彼女自身が示している。
ただの殺戮人形である名前をどうしてシエルが必要としたのかなんて、セバスチャンにはあまり興味がない。主人の命令に忠実に従うのが執事の役割であり義務だからそうしたまで。
彼は、シエルの『駒』であり『剣』になると彼女に誓わせる為にここに来たのだ。

――残虐非道な猟犬に、絶対の服従と宣誓を。

何にせよ、人間でありながらもはや人間らしき心を失っていた彼女に興味を持ったのはこの時ではなく、異常なほどの残酷さと感情の欠如が不安定に揺れ出した頃であった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



セバスチャンが執事として仕えているこの屋敷の主人、シエル・ファントムハイヴ伯爵は、わずか十二歳にして広大な領地を治める当主であり、玩具・製菓メーカー『ファントム社』の社長という肩書きも持っている。本来ならばまだ親に庇護されるべき子供である主人が子供として振舞うことが許されない立場だということを、執事として誰よりも彼を支えているセバスチャンはよく理解していた。

だから寝ている時だけはどうか安らかに――…。
そう願うのは嘘ではない。…と思う。

柔らかい日差しが窓から差し込む早朝にシエルを起こす為に彼の部屋に訪れたセバスチャンは、豪華な装飾が施された天蓋付きのベッドの上を見た瞬間、脱力してがくりと肩を落とした。


「(名前、また貴女ですか…っ!)」


子供用の小さなベッドの上に身を丸めているのは、天日干しされたふかふかの白いシーツに包まれているシエルの他に、もう一人。真っ直ぐに伸ばされた銀髪を持つ女性が、シエルを抱き締めるようにして眠りに落ちている。しかも黒いネクタイに黒い上着まで着たまま。
セバスチャンは頭が痛くなる感覚を覚えて、クラリと眩暈を起こした額に手を当てた。本来ならば、由緒正しい家柄の伯爵家当主とその従者が同じベッドで寝るなんてことありえないのだ。警戒心が強いシエルが珍しく強く望んだこととはいえ、良家に仕える執事としては釈然としないものがある。
強く名前の服の裾を掴んでいるシエルを見てわずかに眉を寄せたセバスチャンは、やがて諦めたようにため息をついた。

女性の身でありながら男装をしている名前は、かつてその身を血で真っ赤に染めた獰猛な猟犬であった。
けれど今、凶暴な牙と爪は隠され、主人に忠実に従う番犬となっている。シエルが彼女に心を許したように、名前もまたシエルに存在意義を見出したのであろう。凍てついた深海のような瞳は徐々に溶け出し、少しずつではあるが感情豊かになってきたと思う。
少なくとも穏やかなこの寝顔を見る限り、猟犬だった頃の冷酷さはどこにも見られない。

――ふと名案を思いついて口元を緩めたセバスチャンは、すうすうと寝息を立てている名前の顔に指を伸ばす。
ふにふにふにふにふに、と柔らかな感触をしつこく堪能していると、顔を顰めて不快感を露わにした名前は一瞬にしてバッと目を見開いた。


「………なに、してるんですか」


まだ完全に意識が覚醒していないのか、うとうとと夢と現実の狭間を彷徨っている名前は、寝ぼけ眼を擦りながら不機嫌そうに起き上がる。
名前の頬を抓り続けているセバスチャンは、にっこりと笑いながら指に力を込めた。


「お早うございます、名前。よーーーーーく眠っているようでしたから、モーニングコールしてあげただけですよ?むしろ起こしてあげたことに感謝してもらいたいくらいです。坊ちゃんと添い寝するだけでは飽き足らず、主人より遅く起きる従者がどこにいますか」
「…ここにいる」


淡々と答える名前の言葉を聞き、セバスチャンの笑みが深くなる。


「ほう、それは忌々しき事態ですね。主人に仕える者としての心構えがなってない。貴女の上司である私の責任でもありますし、坊ちゃんの勉強が終わった後にでもじっっっくり教育し直さねばなりませんね。執事に口答えするような従者には…」
「――そのへんで終わりにしてやれ」
「「シエル様」」


欠伸を噛み殺しながら起き上がったシエルは「まったく相変わらず仲が悪いな、お前達は」と口を尖らす。すかさず紅茶と新聞を差し出したセバスチャンは、シエルの着替えの準備を始めた名前に赤い瞳を向けた。
名前が一方的にこちらを毛嫌いしているだけであって、こちらはむしろ楽しんで彼女に接しているのだが。悪魔の愛情表現というものは『少々』屈折している。対人関係というものは難しいものだ。『あちら』だったら力技に持っていけばすぐに解決するのに…とは思っていても口にはしない。
目を細めたセバスチャンは、クス、と小さく笑みを零した。人間というものは実に興味深く、面白い。


「さあご朝食の用意が整いましたよ、シエル様」


こうして今日も騒がしい一日が幕を開ける。

その執事、回想

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -