人が近付いてくる気配と肩に何かが触れる感触がしてふと目を覚ますと、少し驚いた顔をした波江さんが目の前にいた。どうやら眠っている私にブランケットをかけてくれようとしていたらしく、腰を屈めた中途半端な姿勢のまま目をぱちぱちと瞬かせている。覚醒したばかりでまだ半ば夢の世界に浸っている状態の私はそんな波江さんを見上げながら起き上がり、ゆっくりと周囲を見渡した。
広々とした室内は私室というより事務所的な雰囲気が強く、窓際のテーブルの上には仕事で使うパソコンや筆記用具、最低限の書類くらいしかなくて綺麗に整理整頓されているせいか、すっきりした印象だ。部屋の中央には来客用に設えられた艶のある四角いテーブルや革製のソファーがセンス良く配置されていて光沢を放っている。ロフトがある二階に目を向ければ、階段を昇った先にあるのは波江さん専用のパソコンデスクと壁一面に収納されている本棚があった。常に新鮮な情報や多数の知識を必要とする情報屋という職業柄か、あるいは気紛れな主の性格を表しているかのように、取り揃えられた本のジャンルは実に様々だ。洋書、雑学本、推理小説、恋愛小説、歴史本、絵本、雑誌、図鑑、辞書…と括りのない蔵書の数々は私にとって宝の山のようだ。この本棚に収められた本を全て読破するには途方もない時間を労するだろうが、全く苦痛を感じないどころか想像するだけで幸せを感じた。ここは私の第二の楽園だと言っても過言ではない。(ちなみに一番の楽園はここより膨大な書籍がある図書館である)

ここ最近、私はずっとここに通って片っ端から本を読み漁っている。少しでも多くの知識を得たいから。
小さい頃から研究所で育った私は何も知らない。普通の人なら当然のように知っている一般常識も、何もかも。だから「いつでもうちに来ていいよ」という臨也さんの好意に甘えて、臨也さんの部屋にお邪魔している。今日、臨也さんは仕事で外に出払っていて、波江さんが私を出迎えてくれた。
波江さんは臨也さんの仕事の補佐をしているとても綺麗な女の人だ。最初ここで会った時、臨也さんの恋人なのかなと思ったのだけど、本人に聞いたらとてつもなく嫌そうに顔を歪めて「笑えない冗談もほどほどにしないと本気で怒るわよ」と地を這うような低い声で告げたから、仕事関係でしかない縁なのだろう。いつもパソコンに向かっててきぱきと仕事をしている波江さんは『出来る女』って感じがして女の私から見てとても素敵だから、臨也さんとお似合いの美男美女カップルだと思ったのに…予想が外れてちょっと残念だ。
そんなことをぼんやりと考えていると、「冷めないうちにどうぞ」と波江さんが温かい湯気が立つマグカップを差し出してきた。中身はいつもと同じ、甘党な私に合わせて作ってくれたミルクと砂糖たっぷりのカフェオレだ。


「わぁ、ありがとうございます!私、波江さんが煎れてくれたカフェオレ大好きなんです」
「どういたしまして。それにしても…相変わらず熱心ね。料理本なんて読んでるけど、そんなに面白いの?」
「はい!どれもこれも今まで読んだことがない本ばかりで目移りしちゃいます。こんなにたくさんの本に囲まれていいなぁ臨也さん…。いっそここに住みたいくらいです」


ほぅ…と恍惚とした顔でため息をつくと、「それは絶対にあいつの前で言っちゃダメよ」と真剣な目をした波江さんに諭された。心配しなくても、いくら無知で無学な私でもそんな図々しいお願いは臨也さんの前じゃ言っちゃいけないとわかっているから大丈夫だ。
臨也さんがいない時、波江さんは仕事の合間に私の相手をしてくれる。ちょうど休憩しようとしたのか、彼女は私の向かい合わせに座った。以前は大手の製薬会社の研究員として働いていたという波江さんは頭脳明晰で、話しているだけでとても勉強になる。態度は少しそっけないけど本当は世話好きで優しい人だとわかるから、私は波江さんがとても好きだ。
もし私に兄姉がいたらこんな感じなのかな。波江さんみたいに優しいお姉ちゃんがいたらいいのにな。嬉しくてつい笑みを零してしまうと、急に笑うなんて変な子ね、と波江さんも呆れたように笑った。

――その時。


「随分と楽しそうだねぇ。二人だけで内緒話なんてずるいなぁ」
「ひゃあっ!?い、臨也さん!?」


突然耳元で囁かれた声にぞわりと鳥肌が立ち、飛び上がって驚いた後に急いで振り返ると、いつのまに外から戻ってきたのか、黒いダッフルコートのポケットに両手を入れて屈んだ臨也さんが私の背後に立っていた。
他人の気配には敏感に反応するはずなのに、どうしてか臨也さんにはいつも気付けない。まだドキドキしている心臓の辺りを押さえつけた私はぺこりと頭を下げた。


「おかえりなさい。そしてお邪魔してます」
「うん、ただいま名前。君が来るかと思ってお土産買ってきたんだけど食べる?」
「食べたいです!あ…でもいいんですか?前だって…」
「もちろん。君の為に買ってきたんだから。それに俺ってケーキそんなに好きじゃないんだよね。捨てちゃうのももったいないし、全部食べてよ」
「はい、そういうことなら喜んで!」


臨也さんが持っていた箱を開けると私が好きな種類のケーキが所狭しと並んでいて、思わず口元が緩んでふにゃふにゃと情けない顔で笑ってしまった。
いつも臨也さんはこうして私の好きなお菓子を用意してくれる。本当に優しくて親切でいい人だ。静雄さんは何故か臨也さんをとても嫌ってるけど、彼が言うほど悪い人じゃないと私は思う。


「あんたね…この子餌付けしてずっとここに通わせる気でいるでしょ。大人げない嫉妬もいいかげんにしなさいよ」
「何のことを言ってるのかさっぱりわからないなぁ」


冷めた視線で臨也さんを一瞥した波江さんの苦言も何のその。全く気にしていない様子の臨也さんは私を見つめながらにこやかに笑って答えた。けれどその時、私の頭はもはやケーキ一色に染まっていて頭上で交わされる会話なんて少しも聞いていなかったし、二人の間に流れていた冷たい空気にすら気付いていなかった。
生クリームたっぷりのケーキを頬張りながら思う。私の周りにいる人達はみんな優しくて、今日も私は幸せだ。

その笑顔、僕だけに見せて
(笑みで5題:01)

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