※オリキャラ成分が強いので苦手な方は注意。



――お主についてきてもらいたい場所がある、と改まった表情で名前に請われた玉藻は彼女の艶やかな黒髪を梳いていた手を止めて、鏡越しに彼女の姿をまじまじと見た。
朝早く目覚めた玉藻がまだ夢と現の境をさ迷っている少女の為にわざわざ服を着替えさせたり朝食を取らせたり身支度を整えたりするのはもう日課となっていて(何しろ放っておけばずっと寝たままなのだ。この娘は。ここまで自堕落な生活を送ろうとする人間の娘を玉藻は今まで見たことがない)、一見するとまるで主に忠実に従う召使のように名前の世話をすることに慣れてしまっているから、今更大した苦労でも何でもないし特に不平不満もない。高位の妖孤である自分が人間の小娘に傅くなどプライドが許さないはずなのだが、主人に仕えているというより子供の世話、あるいは老人介護だと思ってしまえば怒りも湧いてこなかった。むしろ呆れてさえいる。この娘は他人の手助けがなければ生きていけないほど情けない人間なのだ。彼女は何をするにも不器用ですること成すこと全てがことごとく空回りし、本来なら便利な文明機器であるはずの家電用品ですら満足に使いこなせず、逆にどうしたらそんなにすぐに壊せるのだと首を傾げてしまうほどのドジっぷりを発揮する。見ているだけでハラハラするような人間が傍にいては放っておきたくても放っておけず、つい世話を焼いてしまうのである。
そんな人騒がせな名前とどういう因果か恋仲になり、現在高級住宅地にある高層マンションに住み彼女と同居している玉藻は、今日も朝早く起床して二人分の朝食を用意し、名前を起こしてまだ寝惚けている彼女の身支度を整えようと甲斐甲斐しく世話をしていたのだが、唐突に思ってもいなかったことを告げられては、きょとんと目を丸くして驚くしかない。手触りのいい腰まで伸びた長い黒髪に絡ませていた指の動きを止めて名前を見ると、いつもであれば今にも眠りに落ちてしまいそうになってうとうととしながら玉藻に身を任せているはずなのに、今日に限って彼女は酷く真剣な顔つきで目を伏せ、膝の上で組んだ両手にじっと視線を注いでいた。


「貴女が私に頼み事なんて珍しいですね。よほどのことがないと弱味なんて握らせないでしょうに…どういう風の吹き回しです?何か変な物でも食べたんじゃあるまいし、もしかして具合でも悪いんですか?」
「別に風邪など引いておらんし、心配せずとも至って健康体じゃ。儂は真面目に言っているのだぞ。からかうでない」
「ではどこに行きたいと言うんです?」
「…それは、ついてきてくれればわかる」


それ以上のことをこの場で語るつもりはないらしく、それきり名前は頑なに口を閉ざしてしまった。こうと一度決めたら梃子でも動かない強情な面がある彼女のことだ。いくら粘って辛抱強く待ったとしてもこれ以上の情報は彼女から得られないだろう。
大人しく従う他にないか、と嘆息した玉藻は、たまたま今日が仕事が休みの日でよかったなどと思いつつ、玄関の脇にある車の鍵を取りに向かったのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



童守町から少し離れた場所まで愛車を走らせて辿り着いたのは、小さな寺にある墓場だった。
強い日差しが照りつけるアスファルトの中を歩き、数々の墓石が並び立つ墓地を黙って進む名前の背中をぼんやりと眺めながら追う玉藻の額に自然と汗が浮かぶ。八月半ばの季節ではまだ残暑が厳しく、夏独特の茹だるような熱気が体にまとわりついて不快感を煽った。病院に勤務している時ではないから白衣ではなく半袖のシャツを着ているのだが、少しも清涼感を感じないのは腰まで伸びた長い髪のせいか。色素が薄く金色に輝く髪を靡かせて歩く玉藻は、少しでも暑さを和らげようと試みて髪を結わえ、ふぅと息をつく。眩暈を覚えるほどの暑さだというのに、玉藻の前を行く少女は平然とした顔で歩いているのだから信じられない。猛暑日と言っても差し支えないほどの体感気温なのに、彼女は暑くないのだろうか。彼女が常に身に纏っている黒のセーラー服は見ているだけで暑苦しい。夏真っ盛りのこの時期に冬服を着ている理由がわからない。長袖に厚手の生地で作られている冬用の制服と聞くだけですでにもうげんなりしてしまうのだが、それに加えて熱を吸収しやすい色の黒い布で織られている服を着るなんて、この娘は一人で我慢大会でも開いているんじゃないのかと一瞬本気で名前の正気を疑った。
この時期は盆の終わりだからだろうか、墓参りする人間達の姿をちらほら見かける。迷うことなく足を進めていく名前の目的もおそらく彼らと同じなのだろう。誰の墓参りとは言わなかったが、先を歩く彼女の手には水と柄杓が入った桶と色鮮やかな花々が握られている。
玉藻は何度か荷物を持とうかと彼女に申し出たがその度に断られ、手持ち無沙汰の状態のまま名前の後に続いて歩くしかなく、微妙な居心地の悪さを感じていた。大した量ではないから名前一人の手でも問題なく運べるだろうし、重くはないから疲れることもないだろう。だがそれでも中身はともかく外見だけは非力で可憐な少女に全て荷物を運ばせているという現状が何ともむず痒く、どうにも落ち着かない。頑固で融通が利かない性格のこの娘は気付きやしないだろうが、大の男が何も持たず手ぶら状態で少女に荷物全てを運ばせている図というのは、世間体的に見てあまり印象が良くないものである。正直、他の人間から冷ややかな視線を向けられて余計な注目を浴びたくない、というのが本音だったが、そんな玉藻の事情など自分には関係ないとばかりに名前は後ろにいる玉藻を振り返ることもせず、墓と墓との間にある小道をスタスタと歩いていく。
一体いつまで歩いていれば目的地に辿り着くのか――。玉藻の白い肌に浮かんだ汗が首へと流れ落ちる頃、ようやく名前は小さな墓石の前で足を止めた。長らく人の手が加えられていなかったのか、ぽつんと離れた場所に立つ人気のない所にひっそりと佇むその墓は、雑草が生い茂り荒れ放題で見るに耐え難い。
荷物を地面に置いた名前は、少し待ってくれ、と玉藻に一言断ってから掃除をし始めた。雑草を引き抜いて苔まみれだった墓石を磨き、新しく持ってきた卒塔婆を立てかけて花を生ける。周囲を一通り綺麗に掃き清めれば、見違えるほどにさっぱり片付いた墓がそこに現れた。
削られた跡が残る墓石の表面には埋められている骨の主の家名らしき文字が刻まれている。読もうにも、薄くなってしまっているから読むことは難しい。その部分を指先で撫でた名前は静かに目を伏せ、ポツリと呟いた。


「…久しぶりじゃの。随分と来るのが遅くなってしまってすまなかった。いやいや、忘れていたわけではないぞ。ただ、面と向かって会う勇気が出なくてな…。命日にも会いにこないような鬼のような女で悪いのう」


墓に向かって親しげに語りかける名前の姿に嫌な胸のざわめきを覚えて、玉藻は顔を顰めた。
墓石の下に埋まっている骨が誰なのか、名前にとってどんな関係の人間だったのか、聞きたいのに聞きたくない。しかしこのまま真実を聞かずにはいられない。耳を塞いでしまった方が自分にとっては好都合なのかもしれないが、痛みを感じることになったとしても、目の前にある現実から目を逸らすよりマシだと思った。自分にも彼女にも、お互いにそれぞれ決して消えない過去というものがある。それと向き合うことから逃げ続けるのは相手を否定することと同意義だ。
これは乗り越えなければならない名前の過去だ。玉藻にはある確信があった。


「その方は貴女の…?」


玉藻が小さな声で問えば、しゃがみ込んだままの名前は振り返ることなく微かに頷いた。


「一番最後の夫じゃ。死に別れてもう五十年にもなる。…時が経つのは早いもんじゃのう。まるで昨日のことのように思い出せるわ」


何故だろうか、声は震えておらず湿り気も帯びていないというのに、玉藻には彼女が泣いているように感じた。
ふふふ、と笑う名前の顔は長い黒髪に遮られてしまって見ることが出来ない。数歩ほど彼女から離れた後方に立つ玉藻からは少女の後ろ姿を黙って見つめることしか叶わない。強く押せば折れてしまいそうなほど細く華奢な肩だ。
名前だって玉藻からの視線にはとうに気付いているだろうに全く反応を示さず、無防備な背中を晒すだけだ。ただ手持ち無沙汰だったのか、墓前に添えた花を指先に絡ませて弄っていた。
白い花弁が風に吹かれ飛ばされた後、はらはらと地面に散り落ちる。


「この男は馬鹿がつくほど真面目で誠実なだけが取り柄なような平凡な人間での、毎日毎日飽きることなく儂にこの花を贈り続けてくれたのじゃ。骨ばったゴツゴツした手で――傍から見れば大の男が背を丸めて花を摘む姿なんぞ滑稽で、笑われてもおかしくなかったのにのう。ああ、花など自分には似合わんという自覚はあったか。恥ずかしそうに照れておった」


白詰草――俗に言う四葉のクローバーの花言葉は『幸運』『約束』、そして『私のものになって』。
男がその花に込められた言葉の意味を知っているとは思えず、ヤツにしてみれば道端に生えていた草花を戯れに摘んで持ち帰っていただけなのかもしれんがな、と名前は苦笑した。
言っている言葉自体は酷いものだが、心底愛おしそうに過去の思い出を語るその声音に棘はなく、親しい者へ向けるものだとわかる。辛辣な口ぶりは愛情の裏返しだ。言葉の上でこそ「平凡」だの「儂が尻を叩かなければ何も出来ない情けない男」だのと罵っているが、会話の合間に零す呆れ交じりのため息には確かな愛情が感じ取れた。「どうしようもないお人よしで騙されやすく、頼り甲斐がない男じゃった」と楽しそうに語る彼女の栗色の瞳は、玉藻が今まで見たことがないほど酷く甘いものであったから。
花が咲き綻ぶようにふわりと微笑んだ彼女の姿があまりにも柔らかく優しげで――それを見た瞬間、心の奥底に沈殿していた黒く濁った感情がどろりと溶け出し、吐き気を覚えた玉藻は思わず息を止めて胸元を掴んだ。ついさっきも己を苛んだ苦々しい感覚が再び胸の奥で渦巻いている。

ああこれは嫉妬だ、と嫌悪感しか呼び起こさないそれに眉を顰めた。素直に認めるのは癪で出来るならなかったことにしたいと願う事実だけれど、名前の何番目かわからぬ夫に焼いているのだという自覚はあった。過去の人間を懐かしみ愛おしげに目を細めて語る名前が気に入らない。もはやこの世にいない故人に対抗意識を燃やして嫉妬心を抱くなど、どれだけ己は器が小さい男なのだと嘆きたくもなるのだが、靄がかる醜い感情を一旦自覚してしまったが最後、心の片隅に宿った小さな炎を無視することはもう出来ない。
自分は人間の娘に恋をしている。その事実を自覚してから認めるまで随分と時間を必要としたが、おそらく彼女を一目見た時からずっと。

最初は何の冗談かと思った。仮にも妖怪の中でも最高位に近い力を持つ妖孤である自分が、無力なくせに欲深いただの人間に心を傾けることなどありえないと否定していた。彼女に対して抱いている感情が何なのかすらわからなかったのだ。
名前を見ていると胸の中に具体的な言葉では言い表せぬ感情が渦巻いて、微妙な心地悪さと燻り残る熱が入り混じった感覚に苛まれる。他の人間を見ても彼女に抱くような不穏な感情は湧かないというのに、どうしてか、楽しげに笑う名前を見ているだけで胸の奥底にちりちりと焼きつく小さな炎が揺らめいた。
理由もなく彼女を厭い嫌っているから楽しそうに笑う姿が気にくわないのか。別に彼女自身が玉藻の不快感を煽るような言動や立ち振る舞いをしたわけでもなく、玉藻が嫌うような醜く卑しい性根が腐った人間ではないから、彼女を嫌う理由はこれといって見当たらない。そもそも名前とは鵺野と彼女のようにお互いのことをよく知る間柄でもなかった。
しかしいつまでたっても名前に訳もなく苛立つのは変わらないままだった。むしろ時を重ねるごとに酷さを増すばかりだ。自分でも持て余す感情を覚えるのは何も名前が笑顔でいる時ばかりではなく、名前が鵺野や彼の生徒達と親しげに話している時もあったし、その身の特異体質故に面倒事に巻き込まれやすい彼女が妖怪に攫われてしまった時だってあった。なんて間抜けで非力で愚かな人間なのだろうと、玉藻は彼女が妖怪に食われてしまいそうになる光景を目の当たりにして、本当に馬鹿だと呆れた。人魚の肉を喰らい不老不死の寿命を得た彼女の体を狙う不逞の輩など人間にも妖怪にも山ほど存在しているというのに、格好の餌食であるその当の本人に全く危機感がないのだから頭が痛くなる。ふらふらと出歩き隙だらけでいるようでは襲って下さいと宣伝して回っているようなものだ。人魚の肉を喰らった者は少々頭が弱くなるという副作用があるらしいとよく聞くが、噂は本当だったのだなと知れた。せっかく優れた霊能力者である鵺野鳴介と昔からの古い知り合いなのであれば、四六時中彼の傍を離れず、身に迫る危険から守ってもらえばいいというのに。
――ああでも、何故かそれも気に入らない。今時珍しく呆れるほど生徒思いの熱血教師で人望に厚く、黙っていればそれなりに整った風貌をしていて精悍な顔つきである鵺野は、人間味に溢れて他者に好まれる性格をしている。名前が彼に魅力を感じて好意を持っても不思議ではなく、彼女が彼に守られている光景を想像するだけで玉藻の眉間に自然と深い皺が刻まれた。
心に小波立つ、暗く濁った感情。砂糖を煮詰めすぎて苦く焦げたような、あるいは熟れすぎた果実が腐り落ちるような、甘ったるく胸やけを起こす臭いに頭がくらくらする。
貴女をあらゆるものから守りたい。貴女に誰よりも好かれたい。貴女には私だけを見てほしいし、私だけに微笑んでもらいたい。貴女を誰にも渡したくない。貴女にだけ――…。狐火よりも激しく燃え盛るその感情に名を付けるとしたら、それはまさしく『恋』であった。

少し前の自分とは違い、今の玉藻はすでに人間が言う『愛』というものが何なのかを理解し始めている。
名前に恋して以来、実に様々な感情が自分の中にあったのだと彼女に気付かされた。生温い羊水に優しく包み込まれるような甘い逢瀬だけが愛なのではない。時に愛は隠された本性を丸裸にするほど汚く醜いものでおぞましいものに成り果てる。胸の奥深くの柔らかい場所に突き刺さり、チクチクとした棘が刺さる痛みを伴いながら身を苛める毒へと変貌するのだ。真綿で首を締め上げられるような、少しずつ酸素を奪われて窒息死してしまうような耐え難い苦しみが続くと、いっそ一思いに息の根を止めてくれた方がよほど楽になれるのではないかと思う。そういった綺麗なものも汚いものも全部ひっくるめて唯一無二にまで昇華させた一つの存在を心から望むこと。それが愛というものではないだろうか。
人間同士が交わす『愛』について悩み、それをずっと探し続けた玉藻が求めていた答えは、すでに己の手中に転がっていた。

恋や愛は楽しいことばかりではない。ふとした瞬間に苛まれる感情を持て余して、やり場のない想いをどこへ消し去っていいかもわからず――だが不思議なことに、人はそれでも恋をするのだ。どんなに辛くても苦しくてもたった一人と決めた相手と心を通わせ、生涯の伴侶にと求める。
もし玉藻が以前のように愛を知らない妖孤のままであったなら、それを理解出来ないと嘲笑って終わったのかもしれないが、一人の人間の少女に恋した今ならわかる。自分はこの少女を愛しているのだ。どうしようもなく馬鹿で間抜けで他人の手を借りねば生きていけないくらい情けないただの小娘なのに、彼女の傍にいる男に嫉妬するほど彼女に恋焦がれている。手放したくない。己の物にしたい。自分と同じような思いを彼女にも抱いてほしい。そんな身勝手な感情を向けてしまうのも、高潔な妖孤であったはずの自分が俗世に落ちて随分と人間くさくなってしまったのも、全ては彼女に恋をしたせいだ。
それもまた悪くないと思ってしまうのだから、もう手遅れだ。恋に溺れるとはよく言ったもので、一人の少女への想いに囚われて深い思考の底へ引きずり込まれてしまった今、それを知らなかった頃の自分へはもう二度と戻れないのだろう。胸が痛くて息苦しくて、このままでは窒息死してしまうかもしれない、と玉藻は自嘲気味に口の端を吊り上げて笑った。愛などという愚かな幻想に振り回されているこの身は貪欲に酸素を求めて喘いでいる。


「(それでもここへは来たくなかった。貴女の過去の話など聞きたくなかった。幸せそうに他の男の話をする貴女を見て私が面白く思うはずがないのに…一体彼女は何を考えているんでしょうか。私が嫉妬などしない大きい器を持つ男だとでも思ってるんですかね)」


もしそうだとしたら名前はとても大きな勘違いをしている。玉藻は彼女の保護者である鵺野に対しても嫉妬するような度量の狭い男だし、本音を言えば他の男に目を向けるのだって許せない。過去の思い出を語るなんて問題外だ。たとえそれが既に死んで黄泉へと旅立っている過去の人間であったとしても。
玉藻に背を向けて静かに手を合わせている名前からは、今玉藻がどんな顔をしているか推し量る術もない。険しい表情を浮かべているなんて知りもしないだろう。良くも悪くも、この少女は自他問わず痛みに鈍感な娘だから。致命的に察しが悪い人間に玉藻から漂っている不穏な空気を感じ取れという方が無理難題な話なのだとわかっているから、もはや彼女に何も期待していない。常識に囚われず自由奔放に生きるのが名前らしいのだ。今更自分が彼女へ向ける感情を汲み取れとは思わなかった。
そもそもどこか浮き世離れして隠居生活を楽しんでいるような節がある彼女は、好いた惚れたといった恋愛事には無頓着なのではないかと玉藻は思っている。確かに昔はそれなりに恋をしていたかもしれないが、今は幼い少女の殻を被った枯れた老人だ。好きだ嫌いだの面倒くさい、と丸投げしてしまっているからこそ、玉藻とは体だけの不毛な関係が続いているのだろう。
愛を知らない以前まではそれでいいと思ったし不満はなかった。むしろ後腐れのない乾いた関係の方が後々面倒なことにならなくて済むとまで考え、名前のことはただ長らく一緒にいても苦痛ではない奇特な人間とだけしか思っていなかったのだが――愛を知ってしまった今は、もう。


「――ここへは別れを告げる為に来た」


ぎゅっと拳を握り締めた玉藻が軽く唇を噛んでいると、ふと唐突に名前が口を開いたものだから、玉藻は驚いて目を瞬かせた。


「それは…一体どういう…?」


妖怪の中でも知能が高い妖孤で更にその妖孤の中でも聡い玉藻であっても、まだ人の心の機敏な動きまでは正確に捉えることが出来ないし、目の前の少女に至っては何を考えているかわからない時がある。正に今がその時だ。
玉藻が怪訝そうに眉を顰めると、その気配が伝わったのだろうか、苦笑した名前は「機嫌が悪いとわかりやすいのう、お主は」と肩を竦めながら立ち上がった。


「儂は今まで随分と中途半端であった。臆病者で卑怯であったからもう二度と傷つきたくなくて、もう二度と恋はせん、と…誰かに恋することはないと誓っておった。誰かを恋しく思えば思うほど、喪って失うことになった時、深く苦しむことになる。苦しいのは嫌いだ。寂しいのも嫌いだ。皆、儂を一人残して去っていく。…儂は置いていかれるのが怖い」
「―――――…」


それは不老不死の身になってしまった人間にしかわからない、永遠の苦しみなのかもしれない。いくら自分の半身とも思える存在を見つけて愛しても、いつか必ず生には終焉が訪れる。名前のように運命が歪められていなければ、人間にも妖怪にもどんな生き物にも死は平等に与えられるのだ。もちろん玉藻にも。違うのは、与えられる時間が長いか短いかの差だけである。
玉藻が何も言わず黙ったままでも構わないのか、名前は墓石に視線を注いだまま話し続けた。その凛と大人びた横顔はいつもの彼女とはかけ離れていて、何者をも拒むような整然とした表情がそこにあった。それに悲しさが入り混じっていると思うのは、玉藻の気のせいなのだろうか。微かに儚さを感じさせる空気を纏う彼女はどこか達観したような空虚な目をしていて、いつもとは違う意味で危うくて目が離せない。
思わず名前に向かって手を伸ばしかけたが、振り返った彼女は「大丈夫だ」とでもいうように首を振って緩く笑う。


「だからここへはずっと来ていなかった。否、来れなかった。こんな儂の姿を見たらこの男に叱られてしまうからのう」
「…叱る?どうしてです?」
「死ぬ間際に『自由に生きてほしい』などと言い残しおったのじゃ。自分のことなど忘れて他の男の元で幸せに生きろ、と――そういう約束だった。そう言われて忘れられるはずもないのにな。まったく酷い男だと思わんか?」


自分だけ言いたいことを言って満足して死んで行けて大層幸せだったろうが、残された儂の気持ちはどうしてくれるのじゃ、この薄情者め、と眉を吊り上げた名前は小さく口を尖らせて憤慨しながら息を吐いた。


「だから儂も少々嫌がらせをしてやることにした」
「え?」


突然腕を引かれた玉藻は、訳もわからない状態のまま名前にがしっと強く抱きつかれた。
ふふん、と胸を張った名前は目を眇める。


「見ておるか。どうじゃ、儂は今とっても幸せじゃ。お主の言ったように違う男を見つけてやったぞ。だから…」


だから、と俯いても続いた声はほんの少しだけ小さくなっていた。


「もう安心して眠ってよい。心配性なお主のことじゃ、今まで散々心配させて迷惑をかけてすまなかったな。だが、もう良いのだ。どうか安らかに眠ってくれ」


――この墓は名前自身の墓標だったのか。
小さな頭を見下ろした玉藻は彼女の肩を抱きながら思う。確かにこの墓の主はかつて名前と婚姻していた男なのだろうが、彼女がここに来た理由は彼を弔う為ともう一つ、未練がましく抱いていた彼への想いを捨てる為であったのかもしれない。
名前が『この男と共に生きる』と墓前に告げた言葉は彼女なりの愛の告白のように玉藻には聞こえた。


「た―――」


不謹慎だと思いつつ歓喜に湧く激情に身を任せて、華奢な少女の体を引き寄せて強く抱き締める。それこそ息が詰まるほどにきつく、逃さないように。後ろ頭を掴んで胸元に埋めるように抱きすくめていると、元々身長差があるせいか、小さな名前の体は丸ごとすっぽりと腕の中に収まった。
強く掴めば壊れてしまうのではないかと不安に思うほど脆弱な人間の体を持っているにも関わらず、その内に秘めた心は玉藻が思っていたよりずっと強く、清廉な光を放つそれは多くの者を魅了する。玉藻が名前に惹かれたのは不老不死の身ではなく、彼女の魂の在り方そのものだった。


「覚悟して下さい。生憎と私は妖孤ですから短命な人間などとは違って随分と長生きしますよ。それこそこの先ずっと、何百年もね。…不老不死の貴女についていけるのは私くらいでしょう」
「玉藻…」
「貴女に最期を看取られるのも悪くない」


何百年後もの先、いつか寿命が尽きて倒れて死の淵に立たされたその時、自分の傍にいて手を握ってくれる者がいるとしたら彼女がいい。脆弱な人間らしい小さく柔らかな手に包まれて最期を迎えられたら、幸せな人生だったと満足して死ねるのではないかと思う。妖怪である自分に安らかな眠りなど到底望めるはずもなく、望むことさえ分不相応だと思うが、願うだけなら自由だろう。人生の終焉はこの娘と共に迎えたい。
いつか永遠の眠りにつくその時は…その『いつか』が訪れる時まで名前と共にいられるかわからないけれど、そうあれればいいと思う。そうしたら自分も『彼』と同じように最期に忘れ難い何かを残して逝けるだろうから。もしかしたら『彼』とは違って、自分は彼女のことを思いやる優しい言葉ではなく一生癒えぬ傷跡を残すかもしれないけれど。
だって私ばかりが貴女に苦しめられてるなんて、それって何だかずるいじゃないですか。貴女が私に人を愛するということを教えた。貴女が私に嫉妬という醜い感情を植えつけた。なら最後まで責任を持って私に付き合って、今まで貴女が私を苦しめた分同じように苦しめばいいんです。
――罪悪感など少しも感じないまま、玉藻は心の奥でくすりと薄く笑った。


「……………?」
「何でもありませんよ。そろそろ帰りましょう」


口付けていた手の甲から唇を離した玉藻は淡く微笑み、不思議そうに瞳を揺らして首を傾げる彼女を促した。
かなり長居していたのか、いくらか日差しが弱まった空を見上げれば、高く上っていたはずの日はかなり傾いていて影も多くなってきている。心地良い風が吹いて過ごしやすい気温まで下がったようだ。あと数刻もすれば夕暮れも近いのかもしれない。

花を贈ろう、と名前の手を引きながら玉藻は思った。かの夫君の真似ではないけれど、小さな蕾が可愛らしい白詰草を名前にあげようと思う。子供の戯れのように彼女の左手の薬指に白詰草を巻きつけ、そして甘ったるい愛の言葉を彼女の耳元で囁くのだ。貴女が愛おしい、貴女が欲しい、この世の誰よりも貴女を愛しています、だから私と生涯を共にする伴侶になって下さい――と彼女が根を上げるまで懇々と。
きっと名前は火がついたように顔を真っ赤にして「そんな恥ずかしいことを真顔で言うな!不埒者が!」と憤慨するだろうが、それが彼女なりの照れ隠しと知っている今、怖くも何ともない。普段強気な名前でも甘い睦言にはめっぽう弱いのだ。それに、この手の分野なら彼女より自分の方が長けている自信がある。根気強く言葉を重ねていけば、勘弁してくれと白旗を上げるのはきっと彼女の方だ。

『彼』が最後に残した願いはまもなく叶えられるだろう。
何しろ玉藻の生涯が終わるまではこの先ずっと――おそらく数百年間は、彼女の幸せは確約されたも同然のようなものなので。

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