病院という場所はいつ来ても落ち着かない所である。消毒液の臭いや足音が響く廊下、忙しなく動く看護婦達――そういったものに何となく苦手意識を持つ名前は、定期健診を終えた後、診察結果を待つように告げた玉藻の制止を振り切って中庭に飛び出していた。「病院は嫌いじゃ」と顔を顰めた名前を呆れたような視線で見てきた玉藻に「貴女、もういい歳でしょう。いつまでも子供みたいなことを言って…」とため息をつかれたが、彼は全然わかっちゃいない。あのまま病室にいたらきっと息苦しくて窒息死してしまうだろう。澄み切った青空が広がる中庭に辿り着いた名前は肺の隅々まで酸素が行き渡るように大きく深呼吸し、生き返ったような感覚を覚えた。手入れが行き届いた中庭には青々と生い茂る木々や芝生が敷き詰められていて、息を吸うと清々しい空気が入り込んでくる。
季節ごとの鮮やかな花が咲き誇るこの中庭は名前のお気に入りの場所だった。梅雨の時期の今は淡いピンク色や水色に色付いた紫陽花が花開いている。先日雨が降ったから葉に少し雨露が残っているが、それもまた日の光に反射して美しい。
やはり花を見ていると心が癒される。淡い色彩を帯びた瞳を細めた名前が肩の力を抜くと同時に口の端を緩めて、雫で濡れる紫陽花にそっと手を伸ばそうとすると、ふいに制服の裾をくいっと引かれた。


「お姉ちゃん、初めて見る人だね」


幼い声に振り返ると、まだ歳の頃は五・六歳ほどと見られる幼い顔立ちをした少女が笑顔を浮かべて名前の背後にいつのまにか立っていた。寝間着姿でいる所を見ると、どうやらこの子は入院している患者らしい。人見知りしない性格なのか、物怖じせず名前を見上げてくる少女の無垢な瞳は興味津々といった様子でキラキラと輝いている。
おお、と目を数回瞬かせた名前は少女の視線に合わせるように膝を折り、二つのお団子に結い上げられている髪型を崩さぬように細心の注意を払いながら、彼女の頭にそっと手を置いた。


「うむ。儂は月に一度しかここに来ぬからの、見かけないのも無理はない。そちは結構馴染んでるようだが、長く入院しておるのか?」
「そうだよ。難しい手術をしなきゃならないからずっとここにいるの。…でも、成功するかわからないんだって。玉藻先生が言ってた」
「そうか、そちの主治医は玉藻なのか…」


ポツリと呟く少女を見て名前は痛ましげに目を細めた。
現代医学の知識に乏しい名前でも手術というものがどんなものなのかぐらいは知っている。名前がまだ若かった時分には信じられないことだが、外科手術というものは麻酔をして神経の伝達を遮断したり意識を失わせた上でメスで皮膚を切開して患部を切除するという治療法らしい。脳や腹を裂けば大量出血するだろうにそれでよく死なないな、と目を丸くすれば、名前に質問攻めにされていた玉藻は、近年の医療技術の発展の賜物ですよ、と苦笑した。どうやら名前が知らないだけで外科手術は一般的にかなり浸透しているらしい。
最近やけにあの男が気難しい顔をしていると思ったがこのせいか、と名前はふと思い返した。この少女を執刀する外科医が玉藻だとしたら全てつじつまが合う。遠い目をして物憂げなため息をついたり、ぼうっと意識を飛ばして人の話を聞いていなかったり、挙句の果てには名前の存在自体に気付かなかったりと、どこか気の抜けている様子を見せることが多かった最近の玉藻は嫌味なほど完璧であるいつもの彼らしくなかった。
もしや、失敗することを怖れているのか。先程彼女が言った通りだとすれば、かなり高いリスクを伴う難しい手術に違いない。成功率がかなり低く彼女の生命にまで危険が及ぶ手術なら、執刀するかしないかの選択が重要で、彼がなかなか決断出来ないのもわかる。ほとんど成功することがないとわかっているのにあえてそれに挑戦する医者など数えるほどしかいるまい。患者を生かすのが医者の務めなのだ。奇跡とも言える成功率に賭けるのは勇気か無謀か、名前には判断しかねる問題だった。

――せめて儂の命の半分でも分けてやることが出来たらいいのに。

人の生死に関わる時、いつも名前はやりきれない思いに襲われる。運命とは残酷なもので、生き長らえるべき人間ほど儚い人生を終えるような気がするのだ。中身の空っぽな人生を意味もなく歩んでいる自分などより、よほどこの子供の方が限りない未来を謳歌して天寿を全うすべきであるというのに、天はそれを許してくれないらしい。本来なら死ぬべき人間が生き、生きるべき人間が死に行こうとしている。出来ることなら名前は自分の先の見えない寿命を彼女に譲り渡してやりたかった。
しかしそれは不可能なことだと既に承知している。目の前に命が尽きようとしている幼子がいるというのに何も出来ない自分がとても無力でちっぽけな存在に思えて、今まで自分は何の為に生きてきたのだと悔しさに唇を引き結ぶ。本当に自分はただの人間でしかないから、単に長く生きることしか出来ないのだ。
もし儂が人間ではなくて人魚であったなら、速魚のように己の血肉を与えてやればこの子を助けてやれたかもしれぬ――ふとそう思った名前は己の浅慮な考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴した。たしかに人魚の肉は不老不死の力を与えてくれるから、きっとこの少女の病気もたちどころに癒してくれるだろうが、永遠の時を生きなければならない不幸な人間を増やしてしまうことになる。私利私欲に走る愚か者はよく永遠の命を欲するが、死ねぬ体を持って幸せだと感じたことがない名前は、不老不死になることは不幸だと思っている。もちろん死にかけていた自分を助けてくれた速魚には感謝しているし、今まで何百年も生きてきたからこそ得られたものも数多くあったが、それでも人は与えられた分だけの限りある寿命を全うして天に召されるべきだと思う。死ねぬ苦しみを知っているからこそ、自分のような人間をこれ以上増やしたくなかった。


「…何をしておるのじゃ?」


小さな唇をきゅっと噛み締めていた名前は、少女が紫陽花の葉の上を這っていたかたつむりを取って箱に入れているのにふと気付き、首を傾げた。
プラスチック製の箱の中には数枚の葉っぱと共に何匹かのかたつむりが既に入っている。集めておるのか?と尋ねれば、うん、と笑顔で答えた少女が箱を突き出してきたものだから、名前はぎょっとして慌てて身を引いた。犬や猫といった毛がふさふさの哺乳類は大好きなのだが、毛のない動物はどうも苦手なのだ。


「あのね、玉藻先生に聞いたんだけど、かたつむりをたくさん集めると願いが叶うんだって。お姉ちゃんもいる?」
「い、いや、儂は遠慮しておく」


叶えたい望みが特に思い浮かばなかったというのもあるけれど、少女の申し出を断った一番の理由は、箱に入っているとはいえ大量のかたつむりを傍に置いておくのが無理だからである。どうしてもヌメヌメした粘着質な液体を纏うあの生物を生理的に受け付けることが出来ない。
密かに冷や汗を浮かべた名前が勢いよく手を振って断ると、少女は残念そうにシュンと肩を落としたものだったから、この時ばかりは名前の胸が刺すようにズキンと痛んでわずかな罪悪感が生まれた。名前からすればまだ生まれたばかりの赤子同然の子供に対して、なんて大人げない態度を取ってしまったのだろうか。嘘でもいいから頷いてやるのが大人というものだろう。しかもこの子は余命あとわずかだというのに――…。

――だから、かたつむりを集めておるのか。

ハッと気付いた名前は数匹のかたつむりが入った箱を大事そうに抱える少女を見つめた。
成功率が低い手術をしなければ治らぬ病にかかっている彼女が、ほんの少しの奇跡を信じて、まじないのような信憑性の薄いものに頼りたくなるのも無理はない。
ぎゅっと拳を握り締めた名前は、少女の頭にポンと手を置いて口元に淡い笑みを浮かべた。


「大丈夫じゃ。もし手術することになってもどんと構えておれ。きっとうまくいく。顔だけの男に見えるが玉藻の腕は確かじゃからの」
「うん」
「それと一ついいことを教えてやろう。ここだけの話、儂の主治医も玉藻なのじゃが、聞いて驚くなかれ。かれこれ儂はもう何百年も生きておる。ほれ、この通りどこそこピンピンしておるじゃろ?だからそちも絶対に長生きする」
「え、本当!?お姉ちゃんっておばあちゃんだったの…?」
「じゃがたぶん誰も信じぬからの、儂とそちだけの秘密で頼むぞ」
「うん!」


自分の言葉がただの気休めにしかならぬことを知っていながら、それでも名前は少女を勇気付けたかった。
名前が五体満足で怪我一つ負わない健康体なのは、人魚の肉を食べたからだ。偶然に偶然が重なって起こりえた速魚との奇跡の出会いを、名前は今でも忘れることなく鮮明に覚えている。


「(あれから何百年経ったのか――…)」


今より遥か昔、数百年前のこと。
小さな領地を持つ城主の一人娘として生まれた名前は、時代の流れに逆らえず戦火に巻き込まれ、落城寸前の城から数名の侍女を伴って逃げ出していた。城主である名前の父は大変な人格者であり、彼の治世は平和そのものであったが、賢君は戦上手とは言えなかった。物資に乏しい自国では飛ぶ鳥を落とす勢いで近隣諸国を次々に侵略していく隣国の暴走を止める力がなく、野心に満ちた隣国の城主の企み通り、ついに隣国に攻め込まれた自国は抵抗する間もなく敗北を喫していた。
総大将として出陣した父は首を跳ね飛ばされた。城主の妻として城の守りを固めていた母は、父が討たれ死んだと知ると城内に火を放って燃え盛る炎の中に消えていった。大半の家臣は討たれ、生き残った者も散り散りになってしまい行方が知れない。逃げ出した可能性も否定出来ないが、それでも敵方として現れるよりマシだと思った。父を主君として敬ってくれていた者達に裏切られたら、誰を信じていいかわからなくなる。
自分だけが不幸なのではない。戦で大切な者と死に分かれるのは珍しいことではなく、世の倣い。この合戦で、名前のように親やあるいは子供、夫や妻を亡くした者もいるだろう。――そう理解していても、泣きたくて泣きたくて仕方がなかった。
だが今は女々しく泣いている場合ではない。ヒクッと喉を引き攣らせた名前は目尻に浮かぶ涙を堪え、焼け焦げてボロボロになった着物を必死にかき集めて、背後に迫る追手から逃れようと森の中を疾走していた。共に逃げてきたはずの侍女達は、一人、また一人と、後ろから放たれる矢に倒れ、周囲に自分以外の誰もいないことに気付いた名前はついに生き残った最後の一人になった。それでも名前は走り続ける。お家再興の唯一の希望、と名前を生き残った家臣達が命を張って逃がしてくれたのだ。彼らの為に、そして無念の死を遂げた者達の為に、ここで敵方に捕まるわけにはいかなかった。
だが女の足ではいずれは追いつかれるだろうし、それに何より、名前は矢傷を背中に負っていた。逃げる際に受けた傷である。一応手当てをしてあるとはいえ、熱を持った傷口は走るごとに容赦ない痛みを名前に与えてくる。その傷のせいか意識が徐々に朦朧としてきて、今や息も絶え絶えになった名前は、ついに足をもつれさせてその場に崩れ落ちた。
卑下な笑みを浮かべた敵が名前の周囲を取り囲んだ。がっしりとした甲冑を身に纏い騎乗している男達に懐刀一つで刃向かっても、敵討ちどころか、かすり傷すら満足に負わせられまい。悔しさに眉を顰めてキリと唇を噛み締めた名前は、これまでかと覚悟を決めて静かに目を閉じた。これでも武家の娘である。いつでも自害する覚悟は持っていた。家名や己の誇りもある。敵に捕まり辱めを受けるわけにはいかぬ、と名前はゆっくり目蓋を持ち上げてスッと腰を上げた。
幸か不幸か、名前の後ろには切り立った崖があり、その下には荒れ狂う波が立つ深い海が広がっていた。崖の淵ギリギリまでじりじりと後ずさっていく名前を見て男達がぎょっと目を丸くしたが、今更制止しようとしても遅かった。ニヤリと口角を吊り上げた名前は怖れる様子もなく身を翻して崖から飛び降りる。慌てて崖下を覗き込んだ敵が見たものは激しく荒れ狂う海だけで、波に飲み込まれたはずの名前の姿を見つけることは叶わなかったのだった。
体の芯まで凍ってしまうような冷たい海に沈んでいく名前は、ここで死ぬのも良い、と指先から力を抜いた。父も母も死んだというのにどうして生きていけというのだ。今生に未練はない。それにこの傷では助からないだろうと、名前は赤く染まっていく周囲の水を見て、背中の矢傷が想像以上に酷いことを知った。感覚が麻痺して既に痛みはなくなっているものの、開いた傷口からは大量に血が流れ出ている。体温は奪われ、脈は次第に弱々しくなっていき、呼吸が止まる。これが『死ぬ』ということなのだろう。苦しさに一度だけガポリと大きな泡を吐いた名前は遠退いていく意識に逆らえず、フッと気を失った。
だが、死んだとばかり思っていた名前は生きていた。奇跡的に崖の岩陰に打ち上げられたおかげで溺れ死なずに済んだのだ。あれほど死んでも構わないと思っていたのに生きていたとは――と、ひゅうひゅうとか細い呼吸を繰り返す名前は自分の生き汚さに思わず自嘲の笑みを零したが、己の命が消えかかっていることにも気付いていた。偶然陸に打ち上げられただけであって傷が治ったわけではない。このままじっと横たわっていれば衰弱死するのは目に見えていた。しかし名前にはもう立ち上がる気力すら残っておらず、重くなっていく目蓋を再び閉じようとした。

その時だ――速魚に出会ったのは。

『大丈夫ですか?』と心配そうに名前を覗き込む少女を霞む視界の中で見てみれば、彼女の下半身は人間の足ではなく、鱗で覆われていてまるで魚のようだった。本来の名前であれば人外の娘の姿に驚いて叫び声を上げていたかもしれないが、今は痛みや疲れで彼女に返事をすることも出来ず、名前は浅い呼吸を繰り返しながら癖のある長い黒髪を持つ少女を見つめた。大きな瞳と愛らしい顔立ちをした彼女が妖怪の類だとはとても思えない。本当に彼女は人間ではないのか、死にかけて気が変になった自分の脳が生んだ幻ではないのか。そうだ、これはきっと傷の熱のせいで幻覚を見ているに違いない、と思った名前に紛れもない現実をつきつけるかのように、自分の名前を告げた少女は言った。『私は速魚。人魚だからあなたを助けることができるの』と。
速魚のたどたどしい説明によれば、どうやら人魚の血には治癒能力があるらしく、一滴飲めば瀕死の重傷でもたちどころに治ってしまうらしい。眉唾ものだ、と名前は全く信じなかった。突然現れた得体の知れない妖怪に助けてやると言われても信じることは出来ないし、そもそも何故彼女が何の関わりもない自分を助けてくれるのか、その道理がわからない。底なしのお人よしなのか、それとも何か裏に意図があるのか。速魚を信じられない以上、血を飲むつもりもない。いくら助かると言われても警戒心を解かなかった名前は決して首を縦には振らなかった。
だが、意地になって頑なに速魚の申し出を拒絶したことが逆効果になったのか、むっと目尻を吊り上げた速魚に『聞き分けのない人ね、えーい!』と口に指を無理矢理突っ込まれ、名前は否応なしに血を飲まされたのだった。その際に歯で彼女の肉をほんの少し抉ってしまったのか、傷が治るどころか知らぬ間に不老不死になってしまい、数百年間変わらぬ姿のまま生き続けて今に至る――というわけである。


「名前?」


突然呼ばれた声にハッと我に返ると、ついさっきまで話していた少女の姿はそこにはなく、代わりに長身の男が立っていた。金糸雀色の長い髪を風に靡かせ、血のような深紅の瞳で名前をじっと見下ろしてくるのは、名前の主治医である玉藻である。
名前は人離れした美貌を持つ彼の正体が妖狐だとすでに知っている。仮初の姿の整った外見が人を惑わす為のものと知っているから今更彼に見つめられようが何も感じないし、そもそも胸がときめくような思春期はとうに過ぎ去っている。長年生きてきた弊害からか変な方向へ性格が捻じ曲がってしまったのか、顔がいい男は大抵性根が悪いのよな、と妙な偏見を抱いている名前は口をへの字に曲げて腕を組み、おそらく名前を探しに来たのであろう玉藻を見上げた。
皺や汚れ一つない白衣を纏った玉藻は疲労の色を隠さずに深いため息をつく。


「やっと見つけましたよ。また貴女はこんな所まで逃げて…」


毎回貴女を探し回るこっちの身にもなって下さい、と形の良い眉を顰めた玉藻は苦々しげに告げたのだが、周囲をきょろきょろと見回す名前の耳には少しも届いていなかった。


「…あの童」


ついさっきまで話していた少女は、少し意識を逸らしている間にこの場から立ち去り、中庭から少し離れた場所まで移動して紫陽花の葉を熱心に見ていた。まだかたつむりを探しているのかもしれない。
すっかり小さくなった少女の背中を見つけた名前が玉藻の言葉を遮るようにポツリと呟くと、その視線を追った玉藻は少女の姿に気付いて、ああ、と声を上げる。


「あの子は私の患者です。彼女がどうかしましたか?」
「あの童の手術はお主が行うのじゃろう。成功率が低いと聞いたが…どうにかならんのか?」


一縷の望みをかけた名前であったが、どうにもなりませんね、とあっさりと切り捨てた玉藻は静かに首を振った。


「あの子を苦しめている元凶は病気ではなく、脳に住みついている妖怪です。しかもよりによって一番切除が難しい部位にいる。脳という器官はとても繊細で、少しの衝撃でも命取りになるから、成功率の低い外科手術するわけにもいかなければ、脳を傷つけずに退治するのも無理に等しい。私の武器はそんな細かい攻撃は出来ませんからね。彼女を救う有効な手段が見つからず、二の足を踏んでいるという状況です」
「そうなのか…」
「…彼女が気になりますか?」
「――ああ」


不可解だと言いたげな玉藻の探るような視線を受けて、名前は素直にこくりと頷いた。


「子供は好きじゃ。小さくて弱くて可愛い。か弱き存在は等しく守られ愛でられるべきだと思うておる。なのに、儂は何もしてやれぬ…」
「私のように医者というわけでもない貴女に何が出来るっていうんです。発展した現代医学でも優れた霊能力でも不可能なことはある。救えない命があっても仕方がないことではありませんか。ましてや貴女とあの子は他人だ。いくら貴女が子供好きとはいえ、どうしてそこまで関わりのない人間に思い入れるのです?」
「…さて、どうしてだろうな。儂にもようわからぬ。じゃが、それでもどうにかしたいと思ってしまうのが諦めの悪い人間なのじゃろ」
「それも一種の『愛』…ですか」
「愛なんて大層なものではないがのう」
「…やはり私には人間の愛は複雑すぎてよくわかりません。が、やれるだけのことはやってみますよ。彼女を助けられたらわかる『愛』もあるかもしれないのでね」
「うむ、頼んだ」


全知全能の神でも博愛精神に満ちた聖者でもないと自覚している名前は、苦悩の表情を浮かべて愛を解こうとする玉藻の姿を見て、困ったように苦笑した。人間の愛を知りたがっている玉藻には悪いが、名前があの少女に持っている感情は慈愛とか母性愛とかそんな大層なものではなく、死んでほしくないという単純な思いだけだ。その本音を包み隠さず言えば、きっとまた玉藻は『人間の感情というのは複雑で不可解だ』と深く悩んでしまうだろうから言わぬ方がいいのじゃろうな、と思った名前は決して口を開かずに玉藻を見上げていた。
口では人間など信用するに値しない愚劣な生き物だと言っている玉藻だが、たぶん心のどこかでは人間に幻想を抱いている部分もあると思う。だから妖怪には物珍しい『愛』について興味を抱いているし、醜い姿を見ればやっぱり人間は…と落胆するのだろう。新しい発見をする度に驚き不安定な感情を覚えて戸惑う彼の方が、下手に醜い人間よりよほど人間らしいと思う。でなければ少女を励ます為にまじないを教えてやるなんてこと、普通の妖怪はしないはずだ。
そちがしたその行動こそが愛じゃろう、と名前が言うと、言われて初めて気がついたかのようにハッとした表情を浮かべた玉藻は長いまつ毛を上下させて二・三回ほど瞬きを繰り返したかと思えば、わずかに頬を赤く高揚させて「違います」とそれを否定した。どうやら彼は人間じみた行動を取ってしまった自分に気付き、恥じているらしい。眉間に皺を寄せてそっぽを向く玉藻の姿を見て、素直じゃないのう、と名前は込み上げてくる笑いに耐え切れず肩を揺らす。


「照れるな照れるな」
「照れてません」


冷たく言い捨てて踵を返した玉藻であったが、荒々しく去っていく姿は彼の隠しきれない動揺そのままで、彼の正体が妖狐の中でも最高位に近い茶吉権現天狐とはとても見えない。だが名前はそんな感情を丸裸にした人間のような妖狐の彼が好ましいと思う。
いつか玉藻が人間の心を理解し誰かを愛せるようになったら、その時こそ彼は本当の意味で人間に近い妖怪になるのかもしれない。
玉藻が妖怪と人間の垣根を越える存在になる時を、名前は長い目で見守りながら待ち侘びている。

蝸牛

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