脱け殻

いちばんになりたい。

主にとってのいちばんになりたい。
真っ先に必要とされる存在になりたい。
絶対に手放されることのない、たった一振りになりたい。

へし切長谷部の願いは、ずっと変わらない。
そのためなら、自分にできることはなんだって厭わない。

体を得た今、『いらない』とこの手を離されること以上に、こわいものなんて無いのだ。

主に見放される痛みを想像する。
体も心も、張り裂けそうだ。そんな思いをするくらいなら、いっそ自分ごと消えてしまったほうが、ずっとマシだと思った。



…顔に光が差して、眩しい。

んう、となまえが瞼を持ち上げる。
じーんじーんと夏を焦がすような蝉の声が聞こえる。陽の明るさに、まぶしくぼやけた視界。
庭を駆けるような、短刀たちの声がする。廊下を渡る、いくつもの足音を耳が聞き分けて気がつく。…寝過ぎてしまった。

「…いま何時…?」
「朝の10時を回ったところです。」
誰にともなく呟いた、返事を期待していない一人言に、すとん、と歯切れのよい返答が返ってきて驚いた。
枕元に、へし切長谷部が座っていた。

「長谷部…?起こしてくれたらよかったのに。」
言いながら、なまえは今日の近侍が長谷部だったことを思い出していた。
「いえ、主が眠っていた分の仕事は俺が手伝いますので。」好きなだけ眠っていてくれて構わない。言外にそう含んだ、甘い甘い返答。

長谷部は相変わらず甘いなあ、と思いながら、なまえは体を起こした。
他の本丸の長谷部のことを直接知らないけれど、主に忠実なのはへし切長谷部という刀の根幹になっている、と審神者の間ではそう信じられていた。

しかし彼…、この本丸の長谷部の甘さには、なにかをずくずくと溶かしてしまいそうな危うさがあった。
それは少しずつ滲み出して、音の聞こえないまま、知らず溺れてしまうような静かな狂気だ。

なまえは妙なところで几帳面で、律儀だ。
本丸に居る刀剣男士のレベルはほぼ横並びにしている。新しい刀がきたら出陣回数を調節し、できるだけ同じ練度まで育てる。

近侍の仕事も、内番と同じように交代制で全員に順序が回ってくるようにしていた。

「ずっとそこで待ってたの…?」
寝顔を見られていたという気まずさから、なまえがおずおずと尋ねる。
長谷部は、なまえの想いを知ってか知らずか、笑顔で答える。
「いいえ。今しがた来たばかりです。」
「そっか…。お迎えありがとう。」

はい。と従順に頷く長谷部はあまりにも自然に、嘘をついていた。

かれこれ夜明け前から、長谷部はなまえの寝顔を見つめていたのだ。
彼女の寝顔は、ずうっと見ていても、見飽きるということがない。その事実を、じっくりと噛み締め味わいながら、長谷部はずっとここにいた。

穏やかな表情の奥で、彼女を彼女たらしめている何か、を長谷部は愛してしまった。

もっと欲しい。主が欲しい。
恋しさをとうに過ぎた、その感情は飢えのようだった。
向けられる笑顔や、隠れて流された涙も。それがなまえのものならば、何もかも欲しくてたまらない。

口元に掌をかざして、彼女の湿った寝息を感じて、肌が粟立ったのも秘密。
無防備に力の抜けた唇に指を差し入れて、それをそっと舐めとったのも秘密。
長谷部は話せないことの数だけ、取り繕うのが上手になった。

へし切長谷部は主へ忠誠を誓っている。
主従以外の感情は、あってはならないと思っていた。

愛している。
そんな言葉では到底足りないほどのこの欲を、誰より長谷部自身が嫌悪している。

一人きりで蓋をして、隠した感情は見えないところで膨れ上がり、爛れてはじめていた。

…あるじ。

横並びの平等が、ああ、憎くて、憎くて仕方ない。
主のことをもっとも敬愛しているのは、俺に違いないのに。

…主、主、あるじ。
足りない、足りない。彼女のことを独り占めできたら、どれほど良いだろう。
そう思えば思うほど、自分が酷く汚らわしいと感じる。

長谷部がなまえを呼ぶ声は、陽の光を浴びることなく胸の内を引っ掻き回した。

なぜ、特別は与えられない。
足りない。
決して満たされることはない底抜けの欲は、暗く重たいひずみになって、彼自身を飲み込んでゆく。
夏の暑い日差しの片隅で、仄暗い影がぼう、と立ち上がる。



近侍ノート、というものがある。
近侍が交代制になってから、業務を引き継ぐためにと刀剣男士たちが始めたものだ。

ぱらり、頁をめくる白手袋。

『今日は、主さまとおさんぽをしました。ぼくは、主さまと手をつないで歩くのが好きです。主さまと手をつないでいたら、いつもの庭が、ちがうところのように思えます。ぼくたちが植えたあさがおが、つぼみをつけました。きれいにさいたら、また主さまと見に行きたいです。』

平仮名の多い文章のとなりに、赤い筆跡がある。

『つぼみ、たくさんついてたね。一緒に見られるのを楽しみにしています。』

主の字だ、愛おしい。
主のものだというだけで、文字すら愛おしく思うのだから、恋というのは恐ろしい。

長谷部は目を閉じる。
なまえと手を繋いで、庭を散歩するところを想像した。

朝顔の蕾が膨らんで、眠りから覚めるように、ひらいている。それに気付いたなまえが、嬉しそうに微笑んで、胸が締め付けられる。苦しくて目を逸らした長谷部が、はた、と気づいた時には、なまえは別の誰かと手を繋いで前を歩いている。その背中を見て、長谷部は絶望し、朝顔の花をぐしゃぐしゃにむしり取ってしまう。

指先に力が入り、なぞっていたページにくしゃりと皺が寄った。

幸せな想像が、うまく出来ない。
誰より側にいたいのに、どうして、頭の中でさえ、いつもいつも、自分は置いてけぼりになるのだろう。

すっかり冷えてしまった瞳が、文字をたどる。
たどるたび、咀嚼するように思い描いたなまえの姿が、長谷部を痛めつけた。

主はどうしたら俺を必要としてくれるのだろう?という思いは、幾重にも重ねた油絵の具のようにどろどろにこびり付いて、いつしか、主はどうしたら俺以外を必要としなくなるのか?という恐ろしい問いにすり替わっていた。

じりじりと蝉が鳴く。
美しい思い出の音色は、苛立ちに飲み込まれて、もう、遥か遠い幻のようだ。



おかしな一日だった。
すっかり日が暮れた自室で、なまえはひとり首を傾げる。

おかしな、というとすこし語弊があるかもしれない。言い換えれば、すべて長谷部に見透かされているような一日だった。
たとえば水を飲みたいな、と思う頃に水が運ばれてきたし、集中力がきれた頃には、冷たいおしぼりを渡された。

長谷部はもともとよく気がつく性格だということは、なまえも理解していたが、もはや気がつくというのを通り越して、行動を先読みされているのでは、と感じるほどだった。

私はそんなに分かりやすいのだろうか、ならばそろそろお風呂上がりのアイスでも持ってきて欲しい頃だ。と思考が逸れた。
そうして何気なく落とした視線の先に、近侍ノートがあった。

そういえば、長谷部はもう書き終えたのだろうか、ならば一筆添えようと、ぱらり。ページを捲って、そこにあった文字列に、なまえの動きが止まる。

『主、もう他の誰にも邪魔されずに、主を愛でることが出来るのかと思うと、幸せでどうにかなってしまいそうです。』

長谷部の字だ。たくさん筆を取り、よく書き込まれた、物差しで測ったような精密な文字。

…悪い冗談だと思った。
あまりにも平和で、静かな夜のなかにあって、この文章はまるで異質だった。
ばらばらと崩れる意味を、何度も読み直してようやく理解した頃、なまえの顔はすっかり青ざめていた。

『ずっと、怖かった。俺のこの醜い思いを主に知られてしまったら、俺はもう主の側には居られなくなる。それが恐ろしくてたまらなかった。』

なまえは震えだした下唇を、無意識に噛んで、息を押し殺した。なぜだか、声を出してはいけない気がした。

長谷部の整えられた筆跡が崩れていく。
あどけなさと、荒々しさをそのまま筆先にのせたように。

警笛のような、耳鳴りがはじまる。
どくどくと、心臓が脈打つ。

『主に知られてはいけないと、隠していましたが、もう耐えられません。どうか、無礼をお許しください。』

叩きつける雨のような、文字の羅列。
血飛沫のように、跳ねた筆跡。

『お許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しください』

頭の中で洪水のように文字が氾濫する。
飲み込まれて、溺れてしまう思考。

「…主。」

背後で、声が聞こえた。長谷部の声だ。

肩を竦めたら、耳鳴りが、大きく膨れて頭を圧迫する。ぴいいいいいいいいいいというハレーション。うそだ、逃げろ、こわい、それは何ひとつ叶えられずに、体に力が入らない。

足が畳の上を滑る音、部屋の空気が流れて、長谷部が動いたことが分かった。

ここに居てはいけない。
誰かを呼ばないと。
分かっているのに、なまえは、手も、足も、喉さえ、動かせないでいる。

一歩、また一歩、近づく足音。
立ち上がることも、振り向くことさえできないなまえの後ろから長谷部の腕が回る。
「…あるじ。」
甘い甘い、毒のような声だ。
はあ、はあ、はあ、という呼吸の音が、耳元で聞こえる。

腕ごと、長谷部の胸に閉じ込められて、なまえは身動きが取れない。
縋るような仕草に、抵抗できるだけの気力が削がれてしまう。

長谷部は後ろから、なまえの首もとに顔をうずめた。
…主が腕の中に居る。
愛してやまない香りを、長谷部は肺いっぱいに吸い込んだ。ここでしか呼吸のできない魚にでもなってしまったようだ。
狂おしいほどに、生きている。と思った。

自分のものになる代わりに、彼女はこの世から消える。
嬉しくて、悲しくて、思い出したようにぼろぼろと目から涙が落ちた。

季節の移り変わりを慈しみながら、歳をとる彼女を見ることは叶わない。他の奴が居ても構わなかったのかもしれない。

どうして、俺は耐えられなかったのだろう。

なまえの髪に、ひた、と長谷部の涙が落ち、沁みてゆく。苦しそうな嗚咽。怯えているのは、長谷部も同じだった。

なまえの頭から耳鳴りが去って、辺りの物音の一切が消えていることに気づく。

短刀たちの笑い声や、誰かの足音、蝉の声さえも。それらはもう二度と、彼女の鼓膜を揺らすことはない。

熱を持った長谷部の息が、涙が、なまえの首筋、肩にかかる髪をやわく湿らせている。

「…どうして?」
口に出した、なまえの目からも涙が出た。
緩やかに回された腕を振り払ったところでどこへも逃げられないのだろう。雨粒で溺れるような、途方も無い絶望を思い知った。

足掻いても、もがいても、何処にもいけない。泡の中に居るような、くぐもった静寂。

ここはもう、なまえのよく知る本丸ではないようだった。
唐突に失った何もかもが、すべて、戻らない過去になる。

「…なまえさま。」
自分の居場所を確かめるように、長谷部がはじめて口にした主の名前は、情け無く滲んでいる。

長谷部は、顕現して最初に筆を持ったときのことを思い出した。
内番表に掛ける名札を、書いた時の事だ。

"うん、上手上手。"
不慣れな身体で書いた字は、おっかなびっくり震えていてお世辞にも綺麗とは言いがたかった。
書き直しを申し出た長谷部に、なまえは笑って言ったのだ。
"長谷部らしくて、良いんじゃない。"
律儀さと、不器用さが同居している『へし切長谷部』らしい字だった。

なまえの朗らかな言葉。たったそれだけで、不恰好なその名札も悪くないと思えた。彼女の言葉一つで、長谷部は下手くそな文字しか書けない自分を許せたのだった。

もう、あの名札を使うことも無い。

…許されたかった。
彼女を愛することを、ゆるしてほしかった。

「…貴女のことが、愛おしくて、…っ」

いちばんになりたい。
もう叶えることが出来ないその願いが、今となっては滑稽にさえ思えた。

長谷部の喉奥から、くつくつと笑いがこみ上げる。涙は依然として流れている、泣き笑いの顔は道化師の面のようだった。

この状況を見ろ。
長谷部は自分に問い直した。

やはり誰もかなわなかったではないか!
主のことが大切ならば、俺より先に奪ってしまえばよかったものを。他にかまけているからこうなったのだ。
可笑しい。可笑しくてたまらない。

よかった…これでよかった。
頼りない奴らに、主を、なまえを、渡さなくてよかった。
そうだ、よかったんだ。
主が、なまえがここに居る。
それだけで、良い。

腕の中の柔らかい体を掻き抱いた。
愛しい主。可愛らしい主。俺だけのもの。

小さな顎を掴んで、目を合わせた。
息を飲んで震えるなまえの、なんといたわしい。
思わず、ほう、とため息が溢れた。
彼女のこんな顔も、初めて見た。
これからもなまえのすべてを見ることができるのは俺だけ。そう思ったら、歓喜に胸が震えた。

「はあ、…っ、嬉しくて、たまりません。主、あるじ。」

熱に浮かされてゆく長谷部とは対象に、なまえの頭は冷えていく。

「あるじ、…なまえさま。」
「……。」
なまえは長谷部の目を見返して、彼の心がもう、救いようのない変貌を遂げていることを悟った。

「………どうして何も言ってくださらないんです?」

言うってなにを…?
なまえから掛けるべき言葉なんて、無かった。
どんな言葉も、もう彼女の知っているへし切長谷部には、届かないのに。
誰よりも努力家で、褒められると誇らしげに笑う、あの長谷部はもう、どこにもいない。

「…声が聞きたいです。」
「………。」

…聞きたい、聞きたい。聞きたい!
俺を呼ぶあの声が聞きたい。脳の裏を撫でるような、なまえの声が聞きたい。

「…俺の言っていることがわからないんですか?」

落ちた沈黙は真夏の夜にふさわしい濃紺。墨を零した夜の海のように、ひどく重い。

ふい、と逸らされたなまえの目が合図だった。

長谷部の顔から表情が消えて、だん!と体が床に叩きつけられる。
肺に息が詰まって、う、ともがいた瞬間、矢継ぎ早に指を二本、口の中へ突っ込まれた。

「声の出し方を忘れてしまったんですね?…かわいそうな主、俺が思い出させて差し上げます。」

手袋をしたままの指が、舌を押し込む。なまえが「うえ、」と呻いたら、長谷部が嬉しそうに笑む。
ああ、はしたなく口を開ける主、苦しそうな顔。愛しい、いとおしい。

どれほどなまえが苦しもうとも、ここには自分以外居ない。なまえのことを独り占めして居るというこの状況に、長谷部はどうしようもなく興奮する。

苦痛も、歓びも、俺が与えて差し上げなければ。
主が俺に、与えてくれたように。

暴れる腕を押し付けるようにして、長谷部の体がなまえの上に覆い被さる。
隙間なく、ぴたりと、くっついた身体。なまえの跳ねる心臓や、呼吸に迫り上がる胸の動きを身体中で感じて、長谷部は天にも昇る心地だった。

耳の軟骨をねぶるように唇が這う。はあ、と流し込まれた息が頭を曇らせる。
ここには誰もいない。もう、この人以外居ない世界で、生きるしかないのだ。

「ほら、主、呼んでください?」
二本の指で、舌を弄ばれる。

そそがれるあまい声は、楽になりたい、その欲を煽るようになまえの腰をぞくりと震わせた。

「このかわいい舌で、俺の名前を言ってください。…ねぇ、なまえさま。」
どろり、どろり、蜜のかかった声に強請られる。息が苦しい、頭が回らない。

…早く狂ってしまえれば、きっと楽になれる。
ずるり、口から指が引き抜かれて、両腕で顔を掴まれ、目が合う。

見上げた藤色の瞳は、変わらないまま、美しくて。
なまえはその瞳に祈るように、彼を呼んだ。
「…はせべ、長谷部。」

聞こえている?
届いている?

長谷部の目が、柔らかく、ゆったりと目が細められた。
震えるまつげの先からぽたり、返事をするように涙が落ちて、なまえの涙に混ざった。

「…主、泣いているのですか?」

目尻を流れた涙を拭うように、こめかみへと長谷部の唇が触れる。
慈しみ尊ぶ、優しい、優しい仕草。

それを最後に見届けて、なまえは、静かに目を瞑った。

羊水のような世界の中で、流れる涙だけが、あたたかな色彩を放っていた。

朝顔の花を見る事は、もう叶わない。




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