アズカバンの囚人 | ナノ

▼ 05


「シリウス・ブラックが脱獄……?!」

ラピスは、思わず口に手を当てた。

ルーシーが持ってきた日刊予言者新聞に、一面に取り上げられていた記事。
シリウス・ブラックが、アズカバンを脱獄したのだ。

「そんな、まさか、」

アズカバンから脱獄者が出たこと等、一度もない。
しかも、よりにもよって、シリウス・ブラックが――

「お嬢様!」

突然立ち上がったラピスに、ルーシーは声を上げる。

「なりません!」
「でも、」
「なりません!」

ラピスの言葉を遮り、彼女は、もう一度大きな声で言った。

「その脚で、どうするおつもりなのですか?」

彼女の言葉に、ラピスは黙る。

「お嬢様は分かっていらっしゃらない」

彼女は、ラピスの目の前に来て、そして、見上げる。
その表情に、ラピスの心が揺れる。

「例のあの人の下僕である、シリウス・ブラックが狙っているのは、ポッター様だけではないのですよ」

「…お嬢様も、」と、彼女はぽつりと言った。

そうだ。
彼女の言う通りだ。
ヴォルデモートの下僕であるブラックは、私とハリーを狙っている。

「お願いです、お嬢様」

その声は震えていて、大きな瞳は潤んでいる。

「此処に、いて下さい」

思わず、彼女をきつく抱き締める。
彼女には、何でもお見通しだった。

「ごめんなさい、ルーシー」

私がハリーを心配するのと同じように、彼女が自身を心配してくれているのだ。
ハリーのことになると、いつも冷静でいられなくなってしまう。

「何処にも行かないわ、此処にいる」

こくり、と腕の中で彼女が頷く。

「でも、お願い、ルーシー」

身体を離して、彼女と向き合う。

「アルバスのところへ行って、ハリーの安否を確認してきてちょうだい」
「はい、直ぐにでも」

彼女はしっかりと頷いてくれた。

「気を付けて」
「はい」

ばちんと音を経てて、ルーシーは消えた。
既にアルバスが手を回しているだろう。
殺人犯が逃げたのだ、魔法省も何らかの措置を取っているに違いない。
ハリーはウィーズリー家にいるのだろうか。
それとも、マグルの家?
マグルの世界にシリウス・ブラックが紛れ込んだとして、マグルがシリウス・ブラックに対抗出来るとは思えない。

ラピスはもう一度新聞に目を向けた。
伸び放題のぼさぼさの黒髪に、蒼白の顔、落ち窪んだ灰色の瞳は、ぎらぎらと光っている。
ハリーと、私を殺すつもりなのだろうか。
怖くないと言ったら、嘘になる。
アズカバンから脱獄するなんてことは、前代未聞だ。
見たことはないが、あの吸魂鬼から逃げるなんてことを、常人が出来る筈がない。
一体、どんな手を使って――?
未だ、少し混乱している。

「……!」

突然、ばちんと、大きな音がして、顔を上げる。
玄関の方だ。
アルバスだろうか?
直ぐに、ハリーのことが頭を過ぎる。
しかし、その気配はアルバスのものではい。
――訪問者は、スネイプ教授だった。

「ごきげんよう」

彼はいつも通り無言で頷いた。
いつも通りの黒尽くめに、黒い鞄。
しかし、採血は三日前にしたばかりだ。
いつも決まった曜日に現れていた彼が、何故?

「採血、ですか?」
「否」

と、彼は言うが、彼は私の目の前まで来ると、袖を捲れと無言で指示し、採血をする時のように私の腕を消毒し始めた。

「栄養剤のようなものだ」
「そう…ですか」

彼が取り出したのは、血のように赤い液体。
栄養剤にしては、いまいちな見た目だ。

「あの……」
「校長の指示で作ったものだ」

アルバスの言ったことならば……。
しかし、私は栄養不足と言うわけではない筈だ。
ルーシーが用意してくれる食事は、充分過ぎる程に栄養管理が出来ている。
では、何故――"異端"、だから――?

一連の作業を終え、立ち上がると、彼は直ぐに歩き出すことはせず、ラピスの思いもよらぬことを聞いた。

「時に、脚の具合はどうかね?」

まさか、彼に脚のことを聞かれるとは。
少し言葉につまる。
一瞬の沈黙の後、ラピスは口を開いた。

「…未だ、痛みます」
「…そうか」
「あの、スネイプ教授」

踵を返した彼の背に、ラピスは声をかける。

「脚に少しでも変化があれば、知らせたまえ」

そう言って、彼は足を踏み出す。

「ハリーは、ハリーは無事なのでしょうか」

その言葉に、彼は足を止める。
そして、振り向かず、小さな声で、

「残念ながらな」

と呟くと、姿を消した。

「良かった……」

一人きりになった部屋で、ラピスは呟いた。
きっともう保護されているのだ。
良かった、ハリーは無事だった。

スネイプ教授が去っていったリビングのドアから、絆創膏を貼られた腕に視線を移す。
そして、血管をそろりとなぞってみる。
それから、固定された右脚に視線を移す。

「――嘘吐き」

私は、嘘を吐いた。
本当は、恐らく――脚は、完治している。
診察等受けなくとも、分かる。
何週間も前から、脚は、骨折をする前の状態に戻っていた。
夏休みに入ってから、日に日に痛みが消え、治っていくのが分かった。

――恐ろしかった。
骨折が、ましてや複雑骨折が、こんなに早く治るなんてことは、有り得ない。
自身の身体に、自身の"それ"に、恐怖を覚えた。
誰にも言うことが出来なかった。
だって、それは、まるで――。

――分かっているくせに。

どこからか、客観的に私を見ている私が囁いた。
恐ろしくて、口に出してしまうのが怖くて、どうしたら良いのか分からなくて。
きっと私は、周りの人達に嘘を吐いていく。
否、重ねていく。
――自分も、騙せてしまえば良いのに。
未だ治っていないと、自然に治るはずはないのだと、こんなことは有り得ないのだと、思いたいのに。
脚はこんなにも軽く、微塵も痛みを感じない。
ラピスは、ペンダントをきゅっと握る。

「――いたい、」

それでも痛いと感じるのは、何故?
それでも痛いと感じるのは、何処?


05 震える空気が頼りなく(分かりたくなんてないのに、)

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