「おはようございます、お坊ちゃま」
「…ああ」
彼女の微笑みは、寝起きの僕にはいつも眩しい。
カーテンを明け、窓を開け、寝起きの紅茶を入れる彼女。
彼女の香りと紅茶の香りが、鼻を擽る。
今日は朝一から取引先回りがある為五時起きだ。
外はまだ暗い。
僕はパジャマなのに対し、彼女はきっちりとメイド服を着て、髪もきっちりと纏めている。
彼女は頭を下げ、ティーセットのワゴンを引いて部屋を出て行く。
寝ぼけ眼で彼女の淹れた紅茶を飲みながら、彼女の後ろ姿を見送った。
目が覚めてきて、彼女が用意したスーツに着替えて洗面を済ます。
その頃には、彼女が朝食を乗せたワゴンを引いて部屋に入って来る。
髪をセットし、時計をつけ、お決まりの朝食、シリアルを食べる。
勿論、飲み物は彼女の淹れた紅茶だ。
メールのチェックをしながら数分で朝食を済ませ、ジャケットを羽織って、彼女から鞄を受け取って、屋敷を出る。
「行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
「ああ」
「今日は遅くなる」
「畏まりました」
彼女は毎日、玄関のドアの外まで見送ってくれる。
僕が見えなくなるまで頭を下げて、決して上げる事はない。
何一つ不自由ない生活。
朝起きれば彼女がいて、夜寝る時まで彼女がいる。
しかし、時折フと思う。
彼女は完璧に僕に合わせて仕事をしているけれど、休憩をとる時間や寝る時間があるのだろうか。
給料はその分支払われていると思うが、休憩をとったりする時間は正直決められていない。
業務に合わせて、臨機応変にとる事になっている筈だ。
彼女は、きちんと休めているだろうか。
「……おい」
「はい」
「彼女はきちんと休憩をとっているのか」
「彼女、ですか?」
運転席のノットは、不思議そうに聞く。
「彼女だ、僕のメイドの」
「ああ、」
ノットはポンと手を叩く。
おい、ハンドルから手を離すな!
「キヨの事ですね」
こいつも、彼女の事をキヨと呼ぶのか。
しかし、屋敷の中で働く彼女を、屋敷に滅多に入らないこいつが何故知っている?
いや、知っているのは当たり前か。
しかし、名前を呼ぶ程親しげなのは何故だ?
「……そうだ」
「珍しいですね、坊ちゃんが他人に興味を示すなんて」
「黙れ」
低くそう言えば、ノットは「あー怖い怖い」と笑った。
「それで、彼女がどうしたんです?」
「だから、彼女が屋敷にいない時がないが、きちんと休みをとっているのかと聞いてるんだ」
「大丈夫だと思いますよ」
ノットはよどみなく答えた。
「どうして分かる」
「坊ちゃんが屋敷にいらっしゃる時、彼女がいるのは当然です。彼女は、坊ちゃんの帰宅時間も予定も、全て把握していますから」
「は?」
何故、彼女が?
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ。私が坊ちゃんの予定を彼女にメールで送っているんです」
「は?」
そんな事、聞いていない。
「彼女が坊ちゃんの専属メイドになって直ぐ、彼女に頼まれまして」
「彼女が?」
「はい。坊ちゃんの予定を全て把握したいから、と。私もその方が、坊ちゃんが不自由な思いをされなくて良いかと」
それで彼女は、僕が朝起きた時も夜寝る時も、いつもいたのだ。
「ですから、坊ちゃんが留守にしている間に休みをとっていると思いますよ」
「……そうか」
それなら、良いんだが。
「彼女に、聞いてみてはいかがですか?」
「何をだ」
「ですから、"きちんと休みをとっているのか"と」
そうだ、彼女に直接聞けば良いのだ。
けれど、あれ以来彼女とまともに会話をしていない。
彼女は仕事を済ませると直ぐに部屋を出て行ってしまうものだから、なかなか話しかけるタイミングが掴めない。
「何だ」
ノットが、先程からクスクス笑っている。
「いえ、坊ちゃんがお悩みになるなんて珍しいなと思いまして」
「…馬鹿にしているのか」
「とんでもありません」
ノットは大袈裟に手を振る。
だから、ハンドルから手を離すな!
「この間の会議でも、悩む事なく直ぐに結論を出されたじゃないですか」
「あれは悩む程の事じゃないだろう」
「悩む程の事だと思いますよ」
ノットはそう言うが、僕はそうは思わない。
僕は確かに悩む事をあまりしない。
悩んだとしても、それは微々たる時間だろう。
自分の、会社の利益になるのか、それとも損益になるのか。
そのどちらかだ。
言われてみて気が付いたが、確かに、僕が他人を気にかけるなんて、今までなかったように思う。
というか、最初から意識しない事が当たり前で、それが僕という人間だった。
「坊ちゃん、」
「何だ」
「"善は急げ"という言葉をご存知ですか?」
「知らん。何だそれは」
「日本のことわざですよ」
"日本"と聞いて、僕の耳が反応する。
「"良い事は躊躇わず直ぐ行え"という意味だそうですよ」
「……だから何だ」
「ですから、どうぞ」
そう言ってノットは振り返り、僕に携帯電話を差し出した。
前を見ろ!前を!
「何だ」
「今から彼女に聞いて見てはいかがですか?」
「は?何言って――」
その時、携帯から何か聞こえた。
《はい、キヨでございます》
彼女の声である。
僕はパニックになってノットを呼ぶが、奴は笑うだけで前を向いたままだ。
肝心な時にこっちを向けよ!
「――キ、キヨか……?」
携帯を耳に当てて、恐る恐る聞いてみる。
《お坊ちゃまですか?》
そして、聞こえた彼女の声。
たった一言で、声の主が僕だと分かって貰えて、込み上げる何かを抑えて携帯を握る。
「ああ」
《どうかされましたか?》
「あ、いや…聞きたい事があって」
《はい、何でしょう》
「――休憩を…ちゃんととっているのか」
言葉が足りなかったか?
言葉を付け足そうと口を開く。
が、
《はい。充分にいただいております》
彼女は理解したらしく、答えてくれた。
そして、
《お心遣い、ありがとうございます》
きっと彼女は、電話の向こうでにっこり笑っているのだろう。
想像して、胸がトクリと音を立てる。
《……お坊ちゃま?》
ああ、今日も一日頑張れそうだ。
03 嬉しい理由はね
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