めざめると、隣に彼女の姿はなかった。
 彼は立って行き、狭い船室の窓をあけようとして、途中で気を変えて扉に手をかけた。
 甲板のむこうで暗い海が滔々と、夜明け前の薄靄の下にかすんでいる。
 風は南から吹いていた。
 ふくらんだ白い帆が、大きな音をたてている。主檣のうえの旗も潮風に洒われて白くひるがえり、暗さに慣れた目に沁みるように映えた。
 船はひたすらに涯をめざして進んでいる。海の果てる岸辺を。バイアシオンではない、別の大陸を。
 竜王の咆吼によって始まった動乱の日々は、竜王の滅亡によって終焉を迎えた。
 あの決着から、まだ二月ほどしか経っていないというのに、今となってはまるで、夢の中の出来事であったように遠い。
 ――生身の人間が、いにしえの聖竜を屠り、なお生きている。
 言葉にすると、本当に夢物語であったように現実味が薄れた。どんな大法螺吹きでも考えついたことすらないだろう荒唐無稽さである。
 それでもそれは、まぎれもない、厳然たる、事実なのだ。
 いったい、あれは奇跡だったのだろうか。
 どちらにせよ、彼らの功罪を知る者は、いま、この船には誰ひとりいない。
 ふたりきりで行く。誰も知らない、知る者もない場所へ。
 奇跡といえば、こちらのほうが、彼にとってはよほど奇跡に近いように思える。
 世界を暴いてしまった「無限のソウル」は、彼とともに、大陸を出ることを選んだ。
 バイアシオン中をめぐった長い旅のあいだ、彼女を慕った者は、文字通り山のようにいた。
 心服する者、一途に慕う者……ひとかたならぬ絆で結ばれているようだった者たちもいた。下心が透けて見える者もいないとは言い難かったが、彼女が問題にしないのであるから、当然、彼が口をさしはさむ筋合いなどどこにもない。彼女は自分の一存で、どのような道をも選べたのだ。
 しかし、娘は誰のもとへも行かなかった。
 彼と一緒に、いちど故郷の村へ戻ってみるという娘に、仲間たちはくちぐちに祝福の言葉を告げたが、当の娘はきょとんとした顔で彼の顔を見上げるばかりで、――彼も、何も答えてやることはできなかった。
 ミイスの村への道程のあいだ、彼女はあまり喋らなかった。水辺や木陰で足をやすめるたび、どこか遠くの悲しみを聞くように、じっとしていた。それでいて、彼が近寄ると、無理に笑顔をつくってみせるのだった。
 その理由がわかったのは、かつて業火に滅ぼされ、今では草むす廃墟となった、彼女の故郷に着いてからだ。
 出迎える者ももちろんなく、なにひとつとして記憶と同じ姿をとどめることのない無常の風景に、色々と思うことがあるだろうと、少し距離を置いて、ひとり村の中を歩いてまわっていた自分のもとに、――真っ青な顔をして駆けてきた娘。
 不安そうな瞳が彼の姿をみとめ、安堵の涙を浮かべるのを目にした瞬間、自分の中でなにかの弦が切れたのを、はっきりと、憶えている。
(兄さんみたいに、いなくなってしまうのかと思った)
 そのとき、彼の前にいたのは、世界を救った英雄でも、勇者でもない、ただ、ひとりの娘だった。
 ファナティックの気まぐれに指をさされ、望む望まざるにかかわらず、伝説を生きることになってしまった娘。
(お前さえ、一緒にいれば――)
 彼が多大な決意とともにさしのべた手を、彼女はこともなげに取った。そして、泣きそうな顔をしていたことなど忘れたように、大輪の花の咲いたように、笑った。
 その時、はじめて握った。彼女の白い手。剣を取ることもある小さな手。
 兄に習ったという剣術は、彼にとってはほんの遊び程度にしか見えなかった。――だからその身が傷つかないよう、彼がいつも護っていた。
 しかし、偉大なるソウルゆえの天稟か、やがて術士として立った彼女は数多の精霊に愛された。その力を自在に操るすべを身につけ、似合わぬ剣を握ることも少なくなり、そして、いつしか彼の庇護を必要としなくなった。
 それでも彼女は、彼の隣にいた。
 一万の夜と一万の昼のなかの、たった数年間にすぎない。
 だが、それがどれほど短い間だろうと、時は一瞬も眠ってはいなかった。
 まるで今この船が辷りゆく、広い海原のようだ。人の心がさまざまに移ろい、分別がさまざまに移ろおうと、時はなにひとつ斟酌することなく、ひとしく彼らを運び去ろうとするだけなのだ。そしていつか、旅立ちの朝には思ってもみなかったような場所へ、たどりついている。
 それもまた、奇跡のうちに入るのだろうか。
 波の音が聞こえる。彼女への感情が声高くどよめいてさざなみを立てるときの、心の音に似ている。
 彼の長い黒髪のひとふさを、風が持ち上げた。空の色が、羽毛の刷毛で撫でたように、ほのかに変わりつつある。
 額にかかった髪をかきあげると、視界の隅に小さな人影が映った。草色の簡素な服、肩につかぬほどで切りそろえられた鳶色の髪。その双肩に世界の命運を負っていたとは信じられぬ、細い影。
 目をそむけていたその感情の名を、いまではもう知っていた。
 あふれ出しそうなその思いに、しかし烈しさはなく、ただ温もりだけが、ゆっくりと穏やかに、そして確実に、彼の心を圧し浸してゆくのだった。――けれど、やはりその中には一抹の、棘のように鋭い、焼けつくような、欲望が突き刺さっていた。
 暗い空と海の境に、白い光が射す。
 彼は顔をあげ、ふたたび甲板を歩き出した。
 夜の藍色に染めあげられていた海原に、彼方からうまれたばかりの光が満ちはじめる。波はさわぎ、水面は幾億の砕かれた鏡のように耀う。
 風は、やまない。
 今では彼女の顔が見えていた。透き通るような肌、意志の強そうな眉、まだ彼に気づいていない、琥珀色の無垢な目。この世でいちばん強い女。
 そのとき、娘が彼に気づいた。彼の姿を目に留め、向けたその顔が微笑に輝く。鳶色の髪を潮風になびかせ、駆け寄ってくる。
「セラ、」
 そばに来ると、頭ひとつぶん、小さい。
 彼の顔を無防備に見上げながら、もう朝ごはん? などと、相変わらず呑気なことを言っている。
 ほとんど憎らしいような気持ちになりながら、彼は静かに首を振った。
「なあんだ」
 朗らかに笑いながら、彼女は彼の腕に触れてきた。いつかのように、こともなげに、罪もなげに。
 波のようなさざめきが、ふたたび胸のうちを浸してゆく。
「朝日、きれいね、」
 見あげてくる瞳が、あまりにも澄んでいて、なぜか苦しくなった彼は、返事をするかわりに、小さな体を抱きしめてやった。
 娘の細い肩は一瞬おののいたが、すぐに、ごく自然に彼の胸に頭をあずけてくる。そのことに安堵した、次の瞬間には、どうしようもない愛しさだけが募った。
 やがて空はしらじらと明けそめ、海鳥は啼いて新しい日の航海を嘉した。南から吹く風はやむことなく紺碧の水面と戯れ、涯へゆく船は金と銀の波をかきわけて進んだ。
 娘を腕に抱いたまま目をやった彼方には、ただ真っすぐな水平線だけが、淡くかすんで横たわっていた。




To the Infinite
20090531







 全国のセラ*ミイス主スキーの皆さん、お喜びください。
 あの腹神様がセラの生誕をお祝いする為に戻って来てくださいましたよ!
 この細やかな描写、全体を漂う叙情的空気、セラのエンディングから滑らかに続くシチュエーション、兎に角、惚れ惚れしてしまいますね。
 「世界を救った英雄」がセラの前では一人の「娘」である、という小さく平凡にすら思われる事柄が、しかし二人にとってどれほどの奇跡であることか、想うだけでわたしのこの薄っぺらな胸は一杯でございます。
 セラの愛の優しさと深さと熱さがもう堪りませんね、祝福あれ!

 弓さん、素敵な作品をありがとうございました!




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