人間は心から驚いたとき、最初何も行動できないものなのだと、そのとき身をもって実感した。
「み…か……」
俺は本能的に、なるべく足音を立てないよう静かに後ずさった。
…声音や仕草は、普段の美香と変わらなかった。
もっとも、その「普段」は 俺と二人でいるときを指しているのだが。
――というのも、少し前から気になっていたのだ。
美香の態度が、グループの四人でいるときと、俺と二人でいるときとでは違うこと。
でもそれはあくまで俺が感じたことであり、確信があったわけでもない。
美香自身、男女の分け隔てはせず、誰に対しても優しく接する性格だった。
それ故か男子に想いを告げられている場面にも、偶然ではあるが幾度か遭遇したことがある。
単なる自分の勘違いだったとしたら、俺も美香に申し訳ないし、美香にも不快な思いをさせてしまう。
だから、俺は彼女がアクションを起こすまで、何も探らないでおこうと決めたのが、つい先日。
「悪い、俺……」
「ううん、いいの」
なんだか目を合わせてはいけない気がして、すっと目線を下げる。
美香の言う「いいの」が、俺が告白に対して曖昧な返事で逃げてしまったことに対してなのか、
それとも告白を断られると予想してなのか、はたまた両方なのか…それを考える力は今の俺にはなかった。
美香は座って、と言い俺をベンチに座るように促した。
行儀よくスカートを整えてから座る彼女の様子を横目で窺い、なんとか冷静を装いながら俺も再びベンチに座った。
俺はとにかく美香から離れたい気持ちでいっぱいだったが、今ここで逃げてしまっても、どちらにせよ俺に残るのは恐怖だけ。
だったら男らしく想いを受け取り、じっくり考えて美香に返事をしよう。そのほうがお互い気持ち良い。
――そう決心して、美香のその言葉を待つ。
「卓郎、さっきの話なんだけどね」
少しだけ空白の時間が流れたあと、美香が静かに口を開く。
ちゃんと目を合わせて聞こう、そう思い美香の丸い瞳を見つめた刹那。
「…!」
「……卓郎?」
駄目だ。やっぱり目だけが別の生き物のように見える。
茶色がかった可愛らしい瞳が、まるで獲物を狙っている、腹を空かせた獣のそれのようだ。
ばっ、と顔ごと目を逸らす。
すると美香が、聞き取るのも難しい小さい声でぽつりと呟いた。
「ひどい」
「……ッ俺…」
「ひどい卓郎、どうして。どうしてちゃんと私を見てくれないの?
私が嫌いなの?そんなに私の顔が見たくないの?どうして、ね えってば」
「違う、嫌いじゃな…」
「だったら、ちゃんと見て」
咄嗟に否定すると、美香は俺の顔を両手で包み、無理やり自分の唇と合わせた。
突然のことに、息をするのを忘れてしまい、んぐっ と情けない声が漏れる。
「卓郎……好きよ」
そのままむせ返りそうになるほど、深く舌を入れられる。
もはやキスとは言えないほど、口を容赦なく塞がれ、見開いた目から生理的な涙がぽろ、と零れた。
「み……ッ」
「好き、卓郎 好きよ 好き、大好き」
美香は片方の手で俺の後頭部を押さえつけ、もう片方の手で俺の手首を、爪が食い込むほどにきつく握った。
「ふ……ッ」
「たく、ろ…」
「は……な、せ!!」
息苦しさと壮絶な嫌悪感で、目の前がくらっと霞む。握られていないほうの手で力任せに美香を突き飛ばす。
乱暴は好きではないのだが、こうでもしないと自分の命すら持っていかれそうだった。
ずきずきと、手首が痛む。細く深く突き立てられた爪の痕が、しばらくは消えそうになかった。
「美香、お前……」
「い…った……」
「ごめん…俺…!」
派手に地面とぶつかった美香が体を起こす。
俺はいくつもの恐怖にいっぺんに襲われ、訳がわからなくなっていた。
「も、もう暗くなるから……美香も早く帰れよ…ッ」
そうして美香を置いて、全速力で家まで逃げてしまった。起き上がった美香の顔を見ずに。
太陽が沈みかけた空では、鴉の群れが休むことなく鳴き続けていた。まるで彼女のようだった。
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