水から上がった彼の目の下には、濃い隈がくっきりとついていた。もうどれ程眠っていないのだろう。どこか虚ろな表情は、深い疲労が彼を苛んでいるのだと伝えてきた。敵が目の前に立っているというのに気付きもしないという事実が、それを裏付けている。
のろのろと岸に近付く彼は俯いたままで、こちらを見ない。あと3メートル、という所まで近付いてようやく、彼は僕の足を視界に入れた。ぼんやりと眺め、数拍おいた後にその顔が上がる。視線は足の先から順番に鎧に覆われた足、武器を纏った腰、胸へと上り、最後に僕の顔を認めて止まった。
正面から向き合った顔にギョッとする。遠くから見たより何倍も隈は濃く、そして顔色は悪い。以前見掛けた時に比べ、少し痩せたんじゃないだろうか。今にも倒れるのではないかと心配になるほどその姿は病的だった。

「…よお」

あまりの反応の無さに少し心配になったが、どうやら彼は僕をちゃんと知っていたらしい。少し、安心する。僕たちは自己紹介なんてする程平和的な世界にいるわけじゃない。
彼は目を細めヘラリと笑ってみせる。無表情だった顔に笑みが乗ると、ますます不健康そうに見えた。

「オニオンナイト、だっけ。どした、顔色悪いぞ」

そうして、敵同士であることなど頓着せず、彼はザバザバと水を掻き分け近付いてくる。君の方がよっぽど顔色が悪い、今にも消えてしまいそうだなどと言えるはずも無く、僕は黙っていた。

「座ったら?用事、あるんじゃねぇの」
「…うん」

何とか搾り出した一言に、彼、ティーダはまた疲れきった顔で笑った。

岸辺に座ったティーダの横に腰掛ける。何があってもいいように、横に置いた剣に手はかけたままだ。ティーダの手元に武器が無いことが、少し気になった。
散々考えた末にここに来たはずなのに、今更躊躇いが生まれた。やはりやめようか、という考えが頭を過ぎる。だって、どう見ても疲れきっている。大体敵にこんなことを頼む事自体が間違っている気がしなくもないし、と誰にともなく言い訳をつのっていた時だった。隣から僅かな歌声が、聞こえてきた。
驚いて見れば、ぼんやりと水面を眺めていたティーダの喉からその歌は漏れている。そういえば、彼はいつでも歌っていると仲間の一人が言っていた。そして、絶対に一人で近付くなとも。しかしこうして隣にいるとそんな危険人物には到底見えない。仲間たちと歳が近いというのも、根拠の無い安心感に拍車をかけていた。

「なに、その歌。聞いたこと無い言葉だけど」
「祈りの歌だよ。永遠に夢が続きますようにっていう」
「ふぅん」

返答は、思ったよりもしっかりとした声で返ってきた。ほら、ちょっと変だけど、普通の人じゃないか。ある日突然しつこいくらいティーダには近付くなと言い出したフリオニールを思い出す。何があったのかは知らないが、僕は敵を怖がったりなんかしない。

「お願いがあってきたんだ」
「いいよ」

即座に返された承諾に、瞠目する。まだ何も言っていないのに。もし僕が、それこそ死んでくれなんて言ったらどうするつもりなんだろう。
僕の困惑に気付いたのか、笑みを深めたティーダがそっと呟いた。

「何でも叶えてやるよ。希望に溢れた、小さな騎士。正義の味方にお願いしてもらえるなんて光栄だ」

何てことの無い、優しい言葉だ。でも僕は、その言葉に背筋が寒くなった。だって僕を正義の味方とするなら、彼は悪の組織にいるのだ。僕の言葉を喜ぶ理由は、彼には無い。
それでもここで押し黙るのは何故か負けたような気がして、僕は言葉を紡いだ。こんなことで怯むような僕ではないのだと、ちっぽけなプライドが主張した。

「泳ぎをさ、教えて欲しいんだ。泳げたか泳げなかったか覚えてなくて」
「いいっスよ。でもこの世界じゃ泳ぐ必要なんか無いだろ?」
「ジェクトが馬鹿にするんだ。君、ジェクトの息子で泳ぐの同じくらい上手いらしいし」
「なるほど」

そう言ってまた笑ったティーダの瞳は暗く、奥が覗け無い。その時初めて、僕はフリオニールの忠告をちゃんと聞いておくべきだっただろうかと考えた。いくら敵意が低く積極的に戦闘に参加しないからといって、敵に頼み事なんてするべきじゃ無かったかもしれない。

「じゃ、やろっか」
「あ、う、うん」

唐突に立ち上がったティーダによって、僕の意識は引き戻された。今上がったばかりの水の中へ、ティーダは躊躇いもせずに入っていく。慌てて後を追おうとした僕を、振り返ったティーダが制した。

「鎧、脱いどけよ。沈んじゃうぞ」
「でも…」
「ん?」

敵の前で無防備になるのは、と言いかけて、ティーダの格好に気が付く。上半身は裸で、武器も持っていない。無防備にも程がある格好だ。加えて、ティーダはカオスにいるくせにコスモスに友好的だ。今までティーダに攻撃されたという仲間はおろか、戦ったという仲間さえいない。僕が以前鉢合わせした時も、にこやかに笑ってカオスのいない道を教えてくれたくらいだ。あっさりと頼み事を聞いてくれた事も考えると、ここで僕と戦う意思は全く無いのだろう。
ならまぁいいか、と言われた通り武器と防具を外す。素直に鎧を脱ぎ始めた僕を見て、膝まで水に浸かったままティーダは優しく笑った。



*****



両手をティーダに引かれ、バシャバシャと水を蹴る。水に顔をつけることは出来たけれど浮き方が分からない僕の為に、ティーダは根気よく練習に付き合ってくれた。

「ほら、力抜いて。上手い上手い」

胸まである水の中を、ティーダがゆっくり後ろに進む。同時に僕も前進していく。胸までの高さといってもティーダの胸までであって、僕の足はきっと届かないだろう。ここで手を離されたらという恐怖が、僕の体を硬くし、命綱とも言える繋いだ手をより強く握らせていた。

「大丈夫、絶対離したりしないから」

小さい子供を宥めるような声で、ティーダが言う。普段なら子供扱いするなと怒る所だが、今はそれどころじゃない。
一向に上達しない僕の様子に、ティーダは「一旦休憩」と苦笑した。その途端にティーダの両腕が僕の手から離れ、その変わりに胴を力強く支える。自分以外の力で支えられてようやく、僕は全身から力を抜くことができた。そんな僕を見て、またティーダが苦笑した。

最初と同じように二人で隣り合い岸辺に座る。僕はぐったりと疲れきっており、そしてティーダはやっぱりあの聞いたことのない歌を歌っていた。小さな声だが、他に音の無いここではよく聞こえる。水の中がこんなに疲れるなんて知らなかった。隣のティーダを見上げるが、最初と同じく顔色が悪いのを除けば特に疲れたという様子は無い。僕が来る前から水に潜っていたのに、一体どういう体力をしてるのだろうか。

「…何で疲れてないの?」

沈黙に耐え兼ねて、ティーダに疑問を投げかける。ぼんやりと歌っていたティーダは口を閉じ、こちらに視線を向けた。

「オニオンナイトは力入れすぎなんスよ。もっと慣れて水中で力抜けるようになったら、それ程疲れなくなる」
「そうかな」
「そうそう」

そう言って伸ばされた手を、僕は拒絶しなかった。僕のものより一回りは大きい手が、優しく髪を梳く。その手付きに、ティーダとは全く似ていない彼の父親が思い出された。ジェクトほど優しいという言葉が似合わない男はいない。此の間だって、撫でるとは言い難い強さで頭を掻き回された。

「ティーダは優しいね」
「え?」
「ジェクトと違ってさ。ジェクトはあんなに乱暴なのに」

僕の言葉に一瞬目を見開いて、ティーダは笑みを深めた。相変わらず、瞳の奥は見えない。でも長時間一緒にいたことで、僕はすっかりその瞳に慣れてしまっていた。

「ジェクトが嫌いなのか?」
「まさか!どちらかと言えばまぁ…好き、かなぁ。あの乱暴な所とからかってくる所を直してくれればね」
「そっか」

こんなに優しいのに、何故フリオニールは近付くななどと言ったのだろうか。ある日ライトニングに連れられ帰ってきてから、フリオニールはティーダの危険性を説くようになった。ティーダは危険だ、絶対に近付いてはいけない。そう僕とティナに何度も言い聞かせたけれど、理由は絶対に教えてくれなかった。
フリオニールは心配性すぎるんだ。再びぼんやり前方を眺めながら歌い始めたティーダを眺め、思う。いつもより少し低い声で歌うティーダの声が耳に心地良い。近付いたってティーダは全然危険じゃないし、ジェクトなんかよりずっと大人で優しい。

「ティーダもジェクトのこと好きだろ?」

何の気無しに言った僕の言葉に、静かに響いていた歌声がピタリと止まる。ゆっくりとこちらを向いた彼を見て、忘れかけていた寒気がもう一度背中を走った。
闇のように暗い瞳は、夢に見そうだ。弛緩していた体が一気に硬直する。強張った僕の表情を認めると彼は顔全体に先程と同じどこまでも優しい笑みを広げ、口を開いた。

「ずっと昔の話だ」

その先は聞くべきでは無いと本能が警告をする。でも僕の体は凍り付いたように動かない。濡れた体が震える。

「俺はどんなに泣き叫んでも、助けなんて来ない事を知った」

僕の震えを体が冷えたからだと思ったのか、彼が僕の手を両手で包みこむ。ゾッとするほど冷たいその手を振り払いたいのに、その先に何が起こるのかが怖くて振り払うことが出来ない。ますます震える僕を見て、彼は笑みを深めた。

「少し前に、俺はどんなに祈ったって、願いなんて叶わない事を知った」

もうこれ以上聞きたくなくて目の前の口を塞いでやりたいのに、そんな恐ろしい事は出来ないと心が否定する。

「つい最近だ、俺はどんなに頑張ったって何も手に入らないことを知った」

そこで一旦言葉を止め、真っ暗な瞳は僕の目を覗き込む。

「…全部、ぜーんぶ、ジェクトが教えてくれたんだ」

吐息がかかるのではないかと思う程、顔が近い。

「なぁ、オニオンナイト。ジェクトと仲良くな。あの男が俺を、絶望に叩き落としたんだよ」

猫撫で声に、吐き気がする。フリオニールの言葉の意味を、ようやく僕は本当の意味で理解した。

憎悪の塊なのだ、この男は。
たった一人に向けられた憎悪。それがこの男を構成する全てだ。この男にとって、ジェクト以外の全ては道端に転がる石と大差が無い。優しいのでも、大人なのでも無く、部屋にいた虫を窓から外へ出してやる程度の気持ちで、この男は僕らに情けをかけていたのだろう。僕らなど戦う価値も無いのだ。
何故この男に近付いてしまったのだろうか。フリオニールの真摯な忠告を笑った自分が憎い。

目を逸らすことも出来ずに震える僕に何を思ったのか、手と同じく冷えきった唇がそっと僕の頬を掠めた。父親に比べて静かなその動きを、もう優しさだとは思えない。

「疲れただろ?早く帰って寝たほうがいい」

ようやく解放された手に、ホッと息をつく。そのスキに視線は手元に落とした。これ以上あの瞳を見詰めていたら、真っ暗な闇の中に引きずり込まれてしまいそうだ。

「おやすみ、オニオンナイト」

目の前の気配が立ち上がり、離れて行く。三歩程行った所で、またあの歌が再開された。聞いたことの無い言語で、夢の続きを願う歌。

ティーダは、あの男は、一体どんな夢の続きを願うのだろう。父親が苦しむ夢か、それともカオスの一員らしく世界が滅ぶ夢か。目の下を彩る濃い隈を思い出す。そんな残酷な夢じゃない、何かもっと、僕が想像も出来ないくらい悲しい夢の続きを願っているんじゃないかという気がした。それこそカオスに堕ちてしまうほど悲しくて美しい、二度と戻ってはこない夢を、眠らずに。

過ぎった考えを慌てて振り払う。ティーダ、彼、いや違う。そんな親しげな呼び方をしてはいけない。あの男、あの男は敵だ。考察も憶測も、同情も必要無い。もう忘れて二度と近付かないでいよう。そうしなければ、きっとあの瞳の奥にあった闇に飲み込まれてしまう。

そっと視線を上げる。気が付けば、歌はもう聞こえなくなっていた。





2011/09/05 23:59
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