ヨモギ、トウガラシ、トカゲのしっぽ、イモリの目玉にローズマリー、月の光の結晶と乙女の涙。仕上げにカエルの油を少々。そんなものをポイポイと投げ入れて、アルティミシアは黒い大鍋をゆっくりと掻き混ぜた。火にかけられた大鍋の中身は意外にも透き通ったエメラルドグリーンで、一体何がどうなっているのかは知らないが仄かに光っている。怪しい事この上ない。
そんな様子を、俺はアルティミシアの横で作業台に頬杖をついてぼんやり眺めていた。背凭れの無い丸い椅子は今にも壊れそうにギシギシと危なっかしい音をたてている。高さが合わないせいで、やけに作業台が低く感じる。その代わり鍋の中はよく見えるから、構わないのだけれど。

「なぁ、それ食えるんスか?」
「試してみますか?」
「ご遠慮するッス〜」
「それが賢明でしょうね」

鼻で笑って、アルティミシアはまた作業に戻る。それをまた俺は丸椅子をギシギシ言わせつつ、頬杖をついたまま眺めた。
薄暗い地下室は湿っていて、決して居心地がいいとは言えない。でもアルティミシアがへんてこな物を煮込むのは必ずこの地下室だった。一度、明るい場所でやった方がいいんじゃないのと言ったら、似合わないでしょうと素っ気なく返された。あんなナリをして、いやあんなナリをしているからこそと言うべきか、アルティミシアは雰囲気を大事にする性質らしい。確かに明るいキッチンよりは肌寒くて陰鬱な地下室の方が良く似合う。
アルティミシアがまた、今度は赤く輝く石を鍋に入れた。みるみるうちに鍋の中のエメラルドグリーンは色を変えて、深い紫になる。

「なに入れたんスか?」
「竜の吐息のかけらです」
「ふーん」

どうやって取るの、それ。気になるけど聞かない。どうせ教えてくれないし、教えてくれても理解できない。身を乗り出し一気に怪しさを増した鍋を覗き込んで、アルティミシアが掻き混ぜることで出来る渦を目で追った。

「なんに使うんスか、これ」
「さて、何に使いましょうね」
「どんなことができんの?」
「どんなことだって出来ますよ」

アルティミシアはこうやって、俺を子ども扱いばかりする。それがちょっと不満だけれど、策略の相談とかされても俺はてんで分からないので仕方ないのかもしれない。

「秩序やっつけるのもできる?」
「もちろん」
「ふーん」

ふふふ、と笑って、またアルティミシアは鍋を掻き混ぜる。おどろおどろしい鍋の中身は、見た目に反して無臭だ。エメラルドグリーンだった時は確かにハーブの香りがしたのに。
ギシギシと椅子を鳴らしながら、上機嫌のアルティミシアを眺める。手に持った木の匙がやけに不釣り合いだ。匙が回されるのに合わせて、深紫が渦巻きを描く。渦巻きの部分が水色に光って、すぐにキラキラと散って行った。その部分は綺麗だけれど、深緑はやっぱりおどろおどろしい。
きっと悪い魔女が王子様にこれを飲ませて、カエルに変えちゃうんだ。優しい優しいお姫様がキスで魔法を解いてくれるまで、王子様は水辺で寂しく鳴くばかり。可哀そうな王子様。

「これ、王子様に飲ませるのは止めた方がいいッスよ」
「あら、何故?」
「俺あんまりカエル好きじゃないッス」
「お伽噺ですね。でも残念、これはカエルに変える薬ではないの」
「そうなの?」
「ええ、それに私はお姫様が好きではないもの」
「ふぅん?」

魔女がお姫様を嫌いなのは、当たり前じゃないのか。だからお伽噺ではいつも嫌がらせをするんだろう。そんな俺の疑問に気付いたのか、アルティミシアは鍋に視線を落したまま微笑んだ。

「お伽噺の魔女はお姫様が好きで仕方がないのよ」
「どこが?」
「だって、必ず倒されてあげるでしょう」
「アルティミシアだって秩序の…陰気なヤツに倒されたんだろ?」

アルティミシアの喉の奥から、愉快でたまらないという笑い声が漏れる。底意地の悪そうな、低い笑い声だ。深紫の液体はぐつぐつと煮えていて、それも相まってお伽噺から出てきたように悪い魔女そのままの姿だった。

「過去では負けました。しかし未来では、勝ったのは私ですよ」
「つまり…最終的にはアルティミシアの勝ちってこと?」
「賢い子ね」

未来だの過去だの、俺にはよく分からない話だ。子ども扱いに片眉を上げて不快感を示すと、アルティミシアはそれすらも愉快だと言うように笑った。
机にべったりと頬を付けて、鍋の底を舐める炎を眺める。椅子が高すぎるから、ちょっと腰が痛い。鍋の底をチロチロと炙る炎は紫色だ。鍋の中身よりは明るいけれど、十分に怪しい色。神秘的と、言うのかもしれない。でも紫の炎なんて聞いたことが無い。青い炎より熱いのだろうか。それとも赤い炎より冷たいのだろうか。見詰めていたら、炎が一瞬笑い顔のような形を作ったきがして、ギクリと肩が強張る。もしかして、生きているのだろうか。

「あまりじっと見ていると、魂を取られてしまいますよ」
「えっ」
「ほら、姿勢を正しなさい」
「この炎なんなんスか? 魂取られるって?」

尋ねても、アルティミシアは笑うだけだ。からかわれたのかもしれない。でもアルティミシアの言うことだし、俺は魔女っていうのをよく知らないし、怖くなったから炎から目を逸らしてそっと背筋を伸ばした。

アルティミシアはいつに無く上機嫌で、鍋と怪しげな材料の並べられた棚とを往復する足取りも軽い。ついには真っ赤な口紅に彩られたその唇から、女の人にしては少々低めなあの声で、歌まで零れ落ちた。聞いたことの無い言葉と旋律だけど、どこか懐かしくて優しい。ゆったりしたそれを目を瞑って聞くと、遠い遠い昔の優しい記憶が蘇ってくるような気がする。俺は過去のことなんて、大して覚えてないんだけど。
同じメロディを何度か繰り返して、歌は静かに終わった。ゆっくりと目を開けると、アルティミシアは僅かに微笑んで木の匙で大鍋を静かに掻き混ぜている。何故かさっきよりも、その温かみのある造形をした木の匙が似合っているような気がした。

「今の、なんて歌?」

こちらを見ないままアルティミシアは笑みを深めて、傍らにある乾燥した葉を鍋に入れる。

「今日は質問ばかりですね」

俺は何だか恥ずかしくなって、机の上に置いた両腕に顔を埋めた。さっき姿勢の悪さを注意されたばかりだけど、構ってられない。そのまま、目だけでアルティミシアの後を追う。顔が熱い気がした。

「虹の向こうには、願い事が何でも叶う世界があるのですよ」
「虹?」
「ええ。子供の頃に夢見たような、幸せな国が」

そこでようやく、俺はアルティミシアが歌の意味を教えてくれているのだと気付いた。アルティミシアの好みとは思えない、子供っぽい歌だ。

「皇帝はそこ目指せばいいのに」
「そうですね」
「どんなとこなんスか?」
「さあ」

また、アルティミシアが今度は瓶に詰まった粉を鍋に落とす。一瞬赤い光を放って、鍋の中身は明るい紫に変わった。さっきよりも炎に似た色になった。でもぼこぼこと泡立って、不気味さが増している。本当に、何に使うんだろう。鍋の外に零れた僅かな粉を、紫の炎が長い舌で舐めとったようにも見えたけど、きっと見間違いに決まってる。

「ああ、でも、死者の国があるとも聞きますね」
「ん?」
「虹の向こうに、ですよ。生を終えた命が、安寧を得るのだと」
「…へぇ」

アルティミシアは含み笑いをして、再び大鍋を掻き混ぜる。木の匙が作る渦を眺めながら、俺は考えた。いつの間にか渦巻きは光を発さなくなっている。
虹の向こうには、死者の国があるとアルティミシアは言う。何の根拠もないお伽噺だろう。でももしも、それが本当なら。死者の国があるのなら。虹の向こうにはあの子がいるのだろうか。それなら、虹の向こうが幸せな国だというのも頷ける。
俺が今いる場所こそ、虹の向こうの死者の国なのだろう。いつの間にか、いや、きっと空気にとけたあの時に、俺は虹を越えたのだ。もう一度超えれば、俺は彼女のいる夢のようなあの場所に帰れるのだろうか。それこそお伽噺だ。

「夢を見ているの?」

冷たい手が、さらりと俺の前髪を撫でて離れて行く。そしてまた鍋を掻き混ぜる。
尖った指先は不便じゃないのかな。あれで生活をするなんて、俺には考えられない。

「夢を見られてるんだ」
「難しいことを言うのね」

俺の事情なんか、きっと俺よりもよく知っているくせに。アルティミシアはそんな素振りは全く見せない。素知らぬ顔をして、俺を子供みたいに甘やかす。いつだって蠱惑的な笑みを浮かべて、まるで優しいふりをする。
ふと、さっきのお伽噺が気になった。魔女はいつだって、最初は優しいふりをする。

「本当はさ、お姫様のこと好きだった?」

アルティミシアの手の動きが一瞬だけ止まる。すぐさま動きは再開されたけれど、渦巻きは反対回りになっていた。

「何故そう思ったの?」
「べつに。そうかなって」
「そうですね」

黒い石が鍋に入る。煙が少し出て、ハッカのような臭いがした。

「もしかしたら、好きだったのかもしれませんね。夢見がちで、勇ましいあの子が」
「お姫様になりたかった?」

今度こそ完全に、アルティミシアは手を止めた。俯いた横顔は、まるで別人のようだ。どこか遠くを見るような、何かに祈っているような。
そのまま木の匙を置いて、ゆっくりとこちらに近付く。尖った指先は俺の頬を辿って、一瞬だけ首に触れた。

「そんなこと、聞くものではありませんよ」

奥の覗けない瞳は少しだけ細められていて、俺は質問したことを後悔した。言わなきゃよかった。俺は多分、彼女を傷付けた。魔女アルティミシアじゃなくて、アルティミシアという名前の一人の女の子を。

「…きっと、なりたかったのでしょうね。遥か昔すぎて、もう覚えていないけれど」

俺の後悔を見透かすように、アルティミシアが言う。魔女らしくない笑みを浮かべて、伏せられた目元には悲しみに似た何かを湛えて。こんなアルティミシア、見たくなかった。
紫の炎がまるでアルティミシアを慰めるように、僅かに揺らいで勢いを増す。だから俺は炎に代わって、そっとアルティミシアの手を取った。炎がその手を伸ばさないで揺れてみせるだけなのは、きっとアルティミシアを火傷させたくないからだ。俺はアルティミシアの肌を傷付けることなく彼女に触れることが出来る。それならこの手を取らない理由は無いように思えた。

「俺が、悪い魔法使いになるよ」
「あなたが?」
「アルティミシアをさらって、死者の国に閉じ込める。そこで王子様が助けに来るまで待ってればいい」

アルティミシアがあんまり悲しそうな顔で笑うものだから、俺は必死になって続けた。作業台の上に置かれた木の匙から垂れた液体を、また炎が舐めとる。

「虹の向こうから王子様が助けに来たら俺は負けるから、そしたら王子様と幸せになればいいんだ」
「それで貴方は、死者の国に一人ぼっちでどうするのですか?」
「俺はいいよ。最初から死者の国にいたんだから」

ああそうか。本当だ。俺は唐突に気付いた。アルティミシアが言いたかったのは、きっとこういうことだったのだ。悪い魔女や魔法使いは、本当はお姫様のことが大好きなのだ。だから、最後には倒されてやる。だって俺はアルティミシアのために、王子様に倒されてもいいと思っている。それでお姫様になったアルティミシアが王子様とずっと幸せに暮らせるなら。

「虹の向こうは、アルティミシアと王子様が暮らす幸せな国なんだ」

そしてあの子が生きる、幸せな国。全ての願いが叶う場所。あの子と生きたかった、俺の望む場所。
俺の言葉をアルティミシアがどう思ったかは、分からない。でも不快ではなかったんだと思う。さっき傷つけてしまった分、アルティミシアを慰めることが出来ただろうか。もう一度、普段なら恐ろしく感じるアルティミシアの低い笑い声が聞きたいと思った。

「本当に、愚かな子」

賢い子と俺を褒めたのと全く同じトーンで、アルティミシアが言う。しかし俺の前髪に触れた指先は、仄かに温度を持っているような気がした。

「なぁ、お姫様になりたい?」

さっきアルティミシアを傷付けた質問を、俺はもう一度した。今度はさっきみたいに何となくでは無い。きっと今ならアルティミシアは本当のことを言ってくれるだろうと思ったからだ。たった一言、うんと言ってくれたなら。ほんの僅かでも頷いてくれたなら、俺は本当にアルティミシアのために悪い魔法使いになってやろうと思った。
アルティミシアはどこか遠い目をして、俺ではない誰かを見ていた。俺はきっと、酷い顔をしていたんじゃないかと思う。自分でも信じられないくらい必死だったから。

ギシリと、古い丸椅子が俺の下で悲鳴を上げる。その音で、魔法が解ける。
一瞬切なげな顔をして、次の瞬間そこにいたのはもう、いつものアルティミシアだった。読めない瞳をした、どこまでも冷酷で狡猾な魔女だった。魔女は俺の手をそっと外して、その手で作業台の上に置かれた木の匙を取る。そして大鍋の前に戻ると、またあの不気味な液体を掻き混ぜる。大鍋の中身はいつの間にか、闇のような黒色になっていた。
そのアルティミシアの姿を見て、また俺も作業台に頬杖をつく。椅子をギシギシと鳴らして、退屈で堪らないという表情でアルティミシアの手元を眺める。魔法は解けてしまった。俺は悪い魔法使いではなくて無能な悪役だし、アルティミシアはお姫様では無くて黒幕の悪い魔女だ。

「本当に、愚かな子」

アルティミシアの低い呟きを聞きながら、そっと目を閉じる。最後に目に入った時、紫の炎がまた笑ったような気がした。最初とは違って、親しみの籠った優しい笑みだった。
明るいものも綺麗なものも何一つない地下室にまた、アルティミシアの歌声が響く。異国の言葉で歌われるそれは、この地下室で唯一、優しいものだった。






2012/12/28 01:58
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