「よいこ、よいこね。あなたが泣く必要なんて、どこにも無いのよ」

女の人はそう言って、そう、女の人だ。母に似ていた。全ての母だ。狂う前、彼女は誰より慈愛に満ちていた。彼女はそう言って、俺が泣く代わりのように涙を一粒落とした。

「ごめんなさい、終わらせてあげたかったわ。あなたが泣く必要なんて無いの」

俺の頭を撫でる、細く長い指。彼女の膝を枕にして横たわる俺は、その指をただ受け入れる。気持ちが良かった。このまま何時までもこうしていられたらと思うのに、白む空がこの時間の終わりが近いと知らせる。もうすぐ朝がくる。全てが死んで、全てが生まれる。

「私が終わらせてあげられたら良かったのに、あなたが泣く必要なんて無かったのに」

知っている。彼女が終わらせようとしたことも、それが出来なかった理由も、全部全部知っている。だって彼女は俺たちの女神で、そして俺たちこそが女神が夢見たものだった。

「失いたく無かったの」

知ってるよ。紛いものでも、作り物でも、彼女は俺たちに恋焦がれていた。そこに行けたらと、帰れたらと心から願っていた。どんなに沢山のものを犠牲にしたって、消し去る決意なんか出来るはずなかった。
だから俺を待ってたんだろう。知ってるよ。

「あなたも、あの街も、何もかも」

優しい女神さま。長い長い年月で疲れきってしまった、俺たちの女神さま。全部全部知っているから、悲しまないでほしい。
俺は泣いてなんかいないよ。俺がどれだけ望まれていたのか知ってるから、もう泣かないよ。

「よいこ、よいこね。あなたは本当によいこ。私の最愛のこ」

太陽が昇って、新しい世界が始まる。女神さまの優しい声を最後に、俺は深い深い海に落ちていった。
あとはもう、どこまでも青い海の底。



妙な感じだ。女神を殺した俺が、今度は別の女神に仕えている。 女神のために戦い、女神のために血を流し、女神の為に日々を生き抜いている。妙な感じだ。ここの女神は美しく、自分では決して戦ったりしない。俺たちの女神さまとは正反対だ。きっと、狂う事もないのだろう。
女神の忠実なる駒である俺たちには二つ名が付いていて、それは大抵その者の本質を表していた。例えば旅人は、どんなに打ち解けたってきっといつかは風のように去っていくだろうし、兵士は何と言い訳した所で、自らの生涯に戦いを選ぶ程度には戦闘を好み、使命としている。盗賊も、獅子も、義士も、彼らの生き方全てがその二つ名に凝縮されているのだ。
そして少年。その名に相応しく、まだ子供だ。どこまでも純粋で、残酷。世界に解けない謎なんて無いと信じている。だからほら、彼の持ち出した疑問に、純粋さなどとうに失った、世界の不条理さをよく知った大人たちが硬直しているのに気付かない。俺も純粋な子供のふりをして、にっこりと笑ってみせた。

「ねぇ、なんでティーダは夢想なの? そんなガラじゃないのに」

いやいやどうして、誰が付けたか知らないが、最初聞いた時は感心したものだ。なかなかよく出来ている。その言葉は俺を表すのにピッタリだ。だが少し、意味深すぎることが玉に瑕か。だってほら、今も邪推した大人たちが黙ったまま耳を澄ませている。この名は間違いなく、俺の本質であり誇りだというのに。

「そうッスか? 俺、結構気に入ってるんスけどね」
「ええ、何で? 夢想なんて儚げなの、ティーダには似合わないよ!」
「儚い? カッコイイだろ」
「そうかなぁ」

俺は焚火に木の枝を一本投げ入れて、オニオンナイトに笑ってみせた。まだ少年は知らないのだ。剣だとか杖だとかばかりが力を持ってると思っている。いつだって奇跡は人の願いから生まれるのに。

「だって夢想じゃあ、いつかティーダが消えちゃうみたいだよ」
「なんだ、心配してくれたのか?」
「そんなんじゃないけど!」

オニオンナイトはそう言って、ぷいと顔を逸らした。彼がたまに垣間見せる年相応なところが、俺はとても気に入っていた。
今夜は俺が寝ずの番だ。オニオンナイトはそろそろ寝る時間。続きが気になって仕方ない大人たちもいるみたいだし、寝物語に聞かせてやろう。女神が焦がれた夢の話を。

「聞いたら寝ろよ」
「僕子供じゃないよ!」
「そうだった」

笑った俺に、オニオンナイトは待ち切れないとでも言うように袖を引いて話をせがんだ。
俺はニヤリと笑ってみせる。傲慢に、自信を溢れさせて、全ての頂点に立つものこそ己なのだと確信をもって。俺には誇りが詰まっている。この体は、願いと誇りで出来ている。

「世界中が俺を夢見てたんだ」
「世界中?」
「おう、俺ほど待ち焦がれられた存在は他にいないね。世界の隅々まで、俺が来るのを願ってた」
「えぇ、本当に?」

疑わしげに、オニオンナイトが俺を見る。しかしその瞳の奥は、思ってもみない英雄譚にキラキラと輝いていた。子供から大人までが待ちわびたヒーローなんて、いかにもこの年頃の少年が好きそうじゃないか。

「本当ッスよ。嘘なわけないだろ? 女神さまだって、祈り子さまだって、俺だけを待ってたんだ」
「女神様がいたの?」
「女神じゃ世界を救えなかった。女神さまは優しいだろ?」
「うん」
「だから、女神さまは俺が来るのを、多分誰より待ってたッスよ」

そして俺に決断させたことを、多分誰より悔いているよ。夢の世界の崩壊は、女神が払うべき代償だったからだ。あの夢を生み出したエボン=ジュの、娘であるユウナレスカが。決して、夢そのものである俺がしなければいけない決断では無かったはずだ。その点に関してだけは、もしかしたら俺は女神を、祈り子を恨んでいるのかもしれない。
オニオンナイトは続きを急かすように、身を乗り出した。胡座をかいた俺の膝に手をついて、俺の顔を覗き込む。

「祈り子って?」
「あー、なんて言うかな、神さまみたいなもんかな。そのてっぺんに女神さまがいるんだ」
「神様と女神様が力を合わせても世界を救えなかったの?」

いつの間にか、遠巻きにしていた仲間たちが近くにやって来て、俺たちの話を聞いている。今まで不自然なほど元の世界の話を振られなかったが、本当は聞いてみたかったのだろう。ここに集うのは勇者ばかりで、勇者は英雄譚を好むものだから。

「あの世界には、大きな大きなモンスターがいたんだ。カオスよりも、この聖域よりもずっと大きい」

敢えて俺の世界とは言わなかった。何人かは気付いたかもしれない。それでも、やはり俺の世界は生まれ育ったあの完璧な場所なのだ。紛い物でも、ただの夢でも、自分で消し去ったのだとしても、あの世界があったからこそ俺はここにいる。

「それが災厄をもたらしてた」
「倒せないの?」
「勿論倒せる。でも倒しても、また新しいのがすぐ生まれる」

湯浴みも済ませたオニオンナイトの髪は、フワフワと柔らかい。それをくしゃりと撫でて俺は話を続けた。

「神さまじゃあ倒せないんスよ。でも、多分女神さまなら、倒せたんじゃないかな」
「じゃあなんで」
「女神さまはお優しくて…いや、違うかな。女神さまはモンスターが好きだったんだよ。モンスターが守ってるものとか、モンスターを生み出した人とか、モンスターの正体とか、全部」

そう、結局彼女は、故郷も父親も恋人も、捨てることが出来なかった。それらがとっくに自分が愛したものとは別のものに変わっていると知っていても、消し去ることは出来なかった。そして結局、それらを守ろうとして彼女は狂ってしまった。
可哀想な女神さま。長い長い孤独で、彼女は疲れきっていた。

「ティーダはなんで倒せたの?」

オニオンナイトの言葉に、俺はもう一度ニヤリと笑ってみせた。
世界中が俺を夢見る。俺の存在を願い、待ちわびる。そして俺の登場に歓喜するのだ。その快感は、俺しか知らない。

「言っただろ? 世界中が、俺を待ってたんだ。俺だけが世界を救える。俺はそういう存在なんスよ」

よく分からないとでも言いたげに、オニオンナイトは首を傾げてみせた。周りで聞いている仲間たちも不思議そうな顔をしている。だから俺は、オニオンナイトの肩を引き寄せてそっと耳に口を寄せた。素直で可愛い少年に、とっておきの秘密を教えてやるために。

「ホントは俺、人間じゃないんだ」
「ええっ!」
「シィッ」

辺りを見回したオニオンナイトが、慌てて両手で口を塞ぐ。内緒話に頬を紅潮させる少年をさらに引き寄せれば、オニオンナイトは小さな小さな声で俺に聞いた。

「ね、じゃあティーダは一体なんなの?」
「ヒーローだよ。世界中の人とか神さまが俺を夢見て助けてって願うと、俺が生まれるんだ。そんで、悪夢を終わらせる」
「本当に本当?」
「本当に本当に本当」

まるで御伽話のようだろう。正しく俺は、御伽話の住人なのだ。夢から抜け出た、夢を打ち滅ぼす存在。

「ねぇ、ねぇ、ジェクトは? ジェクトは幻想だよね。ジェクトもそうなの?」

興奮ぎみに、オニオンナイトが俺の服を握る。こんなに俺の秘密が喜んでもらえるとは、嬉しい限りだ。楽しくて楽しくて、思わず笑みが零れる。そんな俺の口元に耳を寄せて、オニオンナイトは俺の言葉を待っている。

「親父じゃ倒せなかったんスよ。だからほら、親父はマボロシだろ?」
「そっか、そうなんだ。うわぁ…」
「秘密だぞ」
「うん!」

抱いていた肩を放したら、オニオンナイトは俺の隣に戻り、知ってしまった秘密を反芻するかのように口元に手を当てて頬を緩めた。興味津々に聞き耳をたてていた他の仲間たちにはきっと聞こえなかっただろう。俺と、オニオンナイトだけの秘密だ。

「な、夢想ってカッコイイだろ」
「うん!」

最初とは打って変わって勢い良く頷いて、オニオンナイトはキラキラした目で俺を見た。もう一度くしゃくしゃと柔らかい髪をかき混ぜて、ベッドに行くよう促す。いつもならこんな子供扱いには憤慨するのに、今日は素直に頷いた。それ程までに、俺の話が気に入ったのだろう。確かに、騎士を名乗る少年の憧れそうな話ではある。
オニオンナイトは口に手を当てたままくふふと笑って、ジャンプするように立ち上がる。俺に手を振って、いつもならべったりと張り付いて離れないはずの彼のお姫様にも軽く挨拶をしただけで、飛ぶように去って行った。今夜は眠れないかもしれないな。浮き足立つような足取りでテントに向かうオニオンナイトの後ろ姿に苦笑した。もしかしたら、俺の夢を見てくれるかもしれない。
聞こえなかった話にやきもきしているのか、チラチラとこちらを伺う仲間たちには気付かないフリをして、また焚火に薪を投げ入れた。



この名前は俺の誇りで、自信で、同時に心の拠り所でもある。
人々が、祈り子が、最後の希望として俺を夢見た証拠だ。その期待に見事応えてみせたのだ、悲しむことも、悔やむことも何もない。全てが俺を夢見る。全てが俺を待ちわびる。全てが俺に歓喜する。
だから、もう泣かないでほしかった。謝ってもほしくない。彼女は、最初の召喚士であった女神さまは、安らかに恋人の隣で眠ってくれればいい。1000年の孤独と狂気を癒してくれればいい。
ただ、誇ってほしかった。彼女の壊せなかった故郷が生んだ英雄を。夢にまで想われるほど、愛されたこの俺を。きっと、あの大きな罪の象徴に、誰よりも苦しめられたであろう彼女にこそ。






2012/09/01 17:59
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