「父上」

ソファに座る男に近づいて、足元に座る。そこが俺の定位置だ。

「ティーダ」

父が俺の名前を呼んで、口元に笑みを浮かべた。どうやら今日は機嫌が良いらしい。

「秩序の奴二人、倒したッスよ。尻尾のついた奴と、黒尽くめの奴。でも途中で勇者が来たから、消滅はさせられなかった」
「イミテーションは使わなかったのか?」
「壊れたら可哀そうだったから」

地面に座り込んで、目の前で揺れる父のつま先を見つめる。
俺たちは親子と言う割には全く似ていない。顔も、声も、肌の色さえ。
俺にとって父は絶対だった。目が覚めて、何も覚えていなかった俺に、父は「息子よ」と呼びかけてくれた。だから俺は父の息子なのだろうと思う。この世界で、俺には父以外に信じるものがない。父以外の存在に意味があるとも思えない。俺たちの主人だという混沌の神さえ、父の前では塵同然だ。

「よくやったな」

そう言って父の白く細い繊細な指が、俺の髪を梳く。これ以上ないご褒美に俺は嬉しくなって、犬のように父の膝に額を擦り付けた。父は、俺が犬のような仕草をするのを好む。それを悪趣味だと、道化師と魔女は笑った。どうでもいいことだ。父が喜ぶのなら、俺はなんだってするだろう。
薄暗いパンデモニウム城の中で、父の回りだけが仄かに明るい。いつだったか光源を聞いたら、父は一言「虫だ」と言った。淡く光る虫、そんな虫がいるのかと感心したら、父はとても楽しそうに笑ったから、俺は嬉しくなって父にすり寄った。その時も父は同じように髪を梳いてくれた。

「ああそういえば」

ふと、昼間のことを思い出す。尻尾付きと黒尽くめを地面に転がして、さあトドメを刺そうという所で現れた勇者。その後ろにいた黒髪の大柄な男。

「勇者と一緒にいた男が、俺を見て驚いてた」
「男?」
「黒髪で、傷だらけで、上半身が裸の男。俺の名前知ってたな」
「ほう…、それでどうしたのだ?」
「そのまま帰ってきた。勇者には俺勝てないし」
「そうか」

そしてまた、父は楽しそうに笑って俺の髪を梳いた。どうやら今日はとても機嫌が良いようだ。こんなことは珍しいから、今のうちに存分に甘えておこうと、父の膝に頭を乗せる。鎧に覆われた膝は固いけど、ひんやりとして気持ちいい。

あの男、俺の名前を呼んだ。「ティーダ、テメェここで何してんだ」そう言って、寄ってきた。誰だろう、俺の知り合いなのだろうか。体中に傷があって、そのどれもが塞がっていた。歴戦の勇士とか、そんなんなのだろうか。
秩序は全員、偉大な戦士なのだという。世界を救った、伝説になってもおかしくない存在。そんな奴が俺を知っているのは不思議だった。だって俺は混沌だ。混沌は悪なのだと、父は言った。少なくとも、秩序の奴らからは悪に見えるのだと。あれらと我らでは信じるものが違う。そう言って、父は酷く冷めた目で秩序の奴らを眺めていた。
それがなぜ、あの男は俺を知っていたんだろう。懐かしげに俺を見て、嬉しそうに寄って来ようとしたんだろう。その傷だらけの手が俺の肩に触れようとして、あまりの恐怖に俺は身を引いた。意味が分からなかった。会ったことのない男に親しげに名前を呼ばれることも、その男に震えそうなほど恐怖を感じることも。慌てて飛び退いてもう一度見たあの男は、心底不可解だ、とでもいうような顔で俺を見ていた。そしてもう一度俺に向かってこようとして、男はさっきまで俺がいた場所に転がってるお仲間を見つけた。
怒鳴られたのは、初めてだ。「テメェなにやってんだクソガキ!」そう言って、男が今度は明確な怒りを目に浮かべて俺を睨む。それがどうしようもなく怖かった。何故だかは分からない、でも、俺はどうしてもその男にだけは怒られたくなかった。
だから、逃げ出した。慌てて空間を繋げて、父のいるパンデモニウム城に逃げ込んだ。消滅はさせられなかったけど、秩序の戦士を二人痛めつけた。きっと2週間は満足に動けないだろう。これだけの成果があれば父は褒めてくれる。必死に自分に言い訳をして、言い訳をする理由も分からないのに、俺は男から逃げたのだ。無理やり作った歪みに飛び込む瞬間、男がもう一度俺の名前を呼んでいたけど、聞こえなかったふりをした。それを聞いたら、もう二度と父の許に帰れないような気がして。

「どうした?」

父が、髪を梳いていた手を頬に移して聞く。俺の頬を撫でる優しくて繊細な手から、あんなに意地悪な罠が出てくるなんて信じられない。そう零したら、道化師は忌々しそうに「お似合いだと思いますけどねぇ」と吐き捨てた。

「あの男のこと、考えてたんスよ」
「気になるのか?」

益々嬉しそうに、父が言う。何故かは分からないが、あの男の話題は父を喜ばせるらしい。俺には分からないことだらけだ。

「あいつ、俺のことクソガキって言った」
「お前はこんなにも良い息子だというのに」

自分で言うと悲しくなるが、俺は不出来な息子だと思う。混沌の誰よりも弱いし、父の言うことの半分も理解できない。ピンチに陥るのはいつも俺だ。その度に父や他の混沌の仲間に助けに来てもらって、迷惑をかけている。
そんな俺なのに、父は自慢の息子だと言ってくれる。自慢で、優秀で、最高の息子だと。俺以上の息子なんかどこにもいないと言ってくれる。だから俺は、父が好きだった。俺を愛してくれる、認めてくれる父が、大好きだった。

「クソガキなんて、初めて言われた」
「我が息子をクソガキ呼ばわりとは、愚かな男だ。待っていろ、直々に制裁を与えてやる」
「うん」

父の膝に乗った頭をもう一度擦り付けて、今俺が入ってきた入り口の方を見る。何故か、今にもあの男が怒り狂って入ってくるような気がして。怖いな、と思った。



*****



怖いものなんて何も無かった。この世で一番強い父が、俺にはいる。いつも輝いていて、尊厳に満ちていて、人を従えることが似合う父。皆より一段高い所に座っていて、俺が泣くと頭を撫でてくれる、優しい父。だから何も怖くなんて無かった。秩序の二人を相手にたった一人で戦ったって、光の戦士が来たって、恐怖なんて感じたことはない。
でも、すごく怖い。ただあの傷だらけの男に怒られるのだけが、怖い。真っ赤な目で俺を睨み付けて、黒い髪を逆立てて、大きな手を握りしめて言うんだ。「お前にはガッカリだ」って。そんなことアイツに言われたら、俺は涙が止まらなくなるのに。嫌われたくない。俺を否定してほしく無いんだ、あの男にだけは。

ぼんやりとベッドの中で考えながら、寝返りを打つ。あの日から、上手く眠れない。目を閉じるとあの男がやってきて、俺に語りかけるからだ。もちろん混沌の真ん中にあの男がいるはずは無くて、全部俺の妄想なのだけれど、それでもやたらとリアリティのある妄想なものだから、俺は暗闇で目を瞑ることすら怖くなってしまった。
妄想の中のあの男は最初、どうでもいいくだらない話をする。明日の天気はどうだとか、夕飯のシチューがどうだとか。そのうち水の話をし始めて、海の話に辿り着く。すると俺の大事にしているボールを引っ張り出してきて、クルクルと指の上で回しながら言うのだ。「なぁ、撃てるようになったのか?」当然、俺は何のことだか分からない。そうこうしている内に俺は眠たくなってきて、トロトロと意識が沈み始める。
男は必ず言う。
「寝るのか?」
俺は答える。
「寝るよ」
男はニヤリと笑う。
「夢を見るのか?」
俺は答える。
「きっとね」
男は、もう楽しくて楽しくてしょうがないと言うように高らかに笑い声を上げる。
「でもお前自身が…」
その先は聞き取れない。ボロボロ落ちる涙にそれどころでは無くなって、そういえば何を言っていたのだろうと思い出すのは、決まって翌日。太陽が昇ってからだ。

会ったのなんて、あの一回きりだ。多くの言葉を聞いたわけでも無い。でも俺はあの男の癖だとか、話し方だとか、例えばおいクソガキと俺に呼び掛ける声の抑揚だとかを、とても良く知っていた。いや、想像しているだけなのかも知れない。でも俺の妄想の中で喋るあの男は、小さな仕草一つでさえもぴったりと当て嵌まっていた。もうこれ以上に男に相応しい仕草は無いくらいに。
体を折り曲げて、ベッドの中で出来るだけ小さくなる。あの男が俺を見つけないように。昨日も一昨日も、その前も結局俺は男に見つかって、零れる涙を止めるのも忘れて父の寝台に忍び込んだ。堂々たる父に相応しい、豪奢で巨大な寝台だ。そうっと入れば気付かれないだろうと思ったのに、どんなに静かに忍び込んでも父は必ず目を覚まして、俺を見ると手を招いた。途端に俺はさっきまで息すらも押し殺していたことなんかコロッと忘れて、父の胸元に頬をすり寄せる。そうすると涙はピタッと止まるので、俺も大概現金なものだ。
冷たい父の皮膚から僅かに聞こえる鼓動に耳を澄ませて、あの男が来たのだと言いつける。父はとても面白いことを聞いたかのように笑う。そして言う。「この父がいるだろう、息子よ。何を恐れることがある」同時に背中をさすってくれるから、俺は漸く絶対的な父の庇護の許で、あの男に脅かされない眠りを手に入れられる。
昨日も一昨日もその前も、父の眠りを妨げた。もう小さな子供ではないのだ。一人の混沌の戦士として、妄想なんかに怯えていてどうする。
今夜こそは、と決意を固めて、俺はギュッと体を丸めた。

何故、あの男は妄想の中で俺にひどい事を言うのだろう。いや、何も意地悪なことなど言われてはいない。でも、あの男の些細な一言一言が、俺の心臓を貫こうとする。真っ赤な目が、真っ黒な髪が、傷だらけの体が、俺を見下ろして飲み込んで跡形も残らないくらい噛み砕いてしまおうとする。そんな気がする。
あの男の言うことは、怖い事だ。俺を嘲り、貶め、辱める。あの男は怖い生き物だ。
本当の本当は、仲良くしたいのだ。あの男と。だって俺はあの男に嫌われるのが何より怖い。あの男にだけは軽蔑されたくい。笑って欲しい。優しく笑って、頭を撫でて欲しい。俺がそれらを要求するのは正当な権利なのだと、何故か確信を持って言える。でも同時に、俺にだけはそれらが与えられることは無いのだと、そう確信してもいる。だから、あの男は怖い生き物なのだ。きっとキラキラしたものを散々俺に見せつけて、届くところに置いたくせに手を伸ばしたら引っ込める。そして俺を見て笑うのだろう。俺はあの男が怖くて怖くて仕方がない。



*****



眠らずに迎えた朝は、頭が痛む。鈍い痛みに顔を顰めて、今日は一日父にくっ付いていようと決めた。
本当は、湖に泳ぎに行くつもりだった。でも睡眠不足のまま泳いだら、きっと溺れてしまう。そんな恰好の悪い所は晒したくなかった。魔女は過保護だ。俺が危ないことをすると、あの細くて白い指で俺の頬を抓る。全く痛みはないけれど、あのどこまでも冷たい瞳にほんの少し憐憫を混ぜて、憐れな子、と言われるのは余り好きではない。その後で出される甘いお菓子と紅茶は好きだけれど、魔女のおやつを食べていると決まって道化師が顔を出す。そしてやっぱり、魔女と良く似たどこまでも冷たい瞳にほんの少し哀憫を混ぜて、哀しい子、と頬を撫でてくる。まるで魔女が抓った痕を癒すように。
俺のことなんか、嫌いなくせに。俺のことなんか、父上のおまけとも思ってないくせに。自分より小さな存在に同情するふりをして、自分を慰めようとする。そんな生き物の集まりだ、ここは。ただ唯一、気高い父だけが荘厳な威厳を湛えて真っ直ぐ立っている。

「父上、今日はどこに行くの」
「なんだ、付いてくるか、息子よ」
「行く」

満足そうに笑って頷く父のマントの端を小さく掴んで、逸れないように同じ歪みに身を投じる。出来るだけ体を寄せて、父の言葉の一つも聞き漏らさないように気を付ける。
降り立った先は、いつもと変わらぬパンデモニウム城だった。

「用事?」
「ああ、大事な用だとも」

笑みを口に乗せる父は、今日もすこぶる上機嫌だ。最近はいつも機嫌が良いので、俺も毎日とても嬉しい。

「先日我が息子を冒涜した輩に仕置きをせねばな」

父が言うのと同時に、開いたままだった歪みの入り口から気配が3つ、降り立った。
あの男だ。直感する。あの男が来た。まだ姿は見えないけれど、俺は知っている。何を間違えたってこの気配だけは間違えない自信がある。
ぎゅうと父のマントを握る手に力を込めて、半歩、父の後ろに身を顰める。ジッと前方を睨み据えて、現れるであろう黒髪を予測する。チラリと父の顔を見上げれば、黄金の瞳は見たことが無いくらいに輝き、喜びを露わにしていた。父は、あの男が好きなのだろうか。

ザワザワとした声がパンデモニウムの不気味な天井に響いて、角から数人のつま先が覗いた。秩序の戦士たちが気付いて構えるよりも、父が罠を敷く方が早かった。
地面に敷かれた陣を見て、秩序の戦士が足を止める。

「ティーダ」

赤い瞳が真っ直ぐに俺を射抜くものだから、目を逸らすことも出来ずにいたせいで、俺は父の言葉に反応を返すのが一瞬遅れた。さっきまで一言も聞き漏らすまいとしていたのに、とんだ失態だ。慌てて父を見上げて初めて、自分が父のマントを両手で抱きしめるように握っていたと気付いた。でも離せない。あの男が俺を怒るかもしれないから。父が咎めないのを良いことに、俺はますます光沢のあるマントを胸に押し当てた。

「あの男で間違いないか、お前を苛めたのは」
「あ、う、うん。そうッス…」

確かにそうなのに、はっきりと言い切れるのに、言葉は勝手に尻すぼみになる。一瞬視線をやってみれば、あの男はまだ鋭く俺を睨み付けていた。
やっぱり嫌いなのだろうか、俺のことが。だって俺は混沌で、あの男は秩序だから。理由なんてそれで十分だ。
半歩下がって、父の背中に身を顰める。

「よくも私の息子を苛めてくれたな、秩序の戦士よ」
「あぁ!?」

父の言葉に、あの男が強く反応した。怒鳴るように上げられた声には怒りが滲んでいて、俺はそれを見ないよう、父のマントを尚更きつく抱き締め、目を瞑る。

「誰が、誰の息子だって?」
「ティーダが、私の、息子だ。ジェクト」

ジェクトというのか、あの男の名前は。格好いいな、と思った。あの男に良く似合う名前だ。父の背中から少しだけ顔を出して、ジェクトを覗き見る。怖い顔をしている、肩をいからせ、眉を吊り上げて、大剣を握った手がぶるぶると震えている。でもその怒りが向けられているのは俺じゃなくて父だ。そう思うと、少し落ち着いてジェクトを眺めることが出来た。
わなわなと唇をおののかせて、何度か開閉した後ジェクトが口を開く。

「ティーダは、俺の…」

その先は分からなかった。ジェクトが一歩踏み出した先で、父の罠が炸裂したからだ。



*****



ゼェゼェと荒い息を付く秩序の戦士たちの前で、父は汗一つかかずに笑った。最初の場所から一歩も動いていない父と、満身創痍の秩序の戦士たち。力の差は歴然だった。父一人で秩序なんて滅ぼしてしまえるんじゃないだろうか。

「さて、これに懲りたら私の息子に手を出すのは止めてもらおうか」
「クソッ」

今日はトドメは刺さないらしい。父はとても頭がいいから、きっとこれも計算の内なのだ。その計画の一端でもいい、手伝えたらいいのにな、と思った。俺は混沌では最弱だから、あまり大きな仕事は任されない。

「行くぞ、ティーダ」
「あ、待って、父上」

踵を返した父の後ろを追おうと、慌てて俺も振り返る。でも、視線が。背中を向けてても分かるほど強い視線が俺を貫いて、思わず立ち止まった。父はもう歪みを作り出す為に手を翳している。早くしなければ、置いて行かれてしまう。そう思っているのに、俺の足は勝手に振り返った。
男が、ジェクトが、俺を睨んでいる。怒っている。俺をその強い瞳で、射抜いている。血を零す両手が俺に向かって伸ばされて、俺は思わず一歩、ジェクトに向かって踏み出した。そこで止まる。
だって怒っている。紛れもなく俺に、ジェクトは怒って睨んでいる。両手が震えた。今になって戦闘になったからと父のマントから手を離したのを後悔した。

「ティーダ」

後ろから、父が俺の名前を呼んだ。待っていてくれているのだ。必死にジェクトの顔から視線を外して、父の方へ振り返った。父はとても楽しそうな顔をして、俺を手招いている。

「待って、父上待って」
「待っているとも、息子よ。さあおいで」

差し伸べられた手を取って、歪みに飛び込む一瞬。振り返った先で、地面に膝を付いたままジェクトはまだ俺を睨んでいた。

きっと当分の間、父の機嫌は良いだろう。だって噛み締めたジェクトの唇から流れる血を見て、父はとても嬉しそうに笑ったから。きっと父は、ジェクトに意地悪をするのが好きなのだ。
でも俺は。俺はジェクトが嫌いではない。ただ、怖いな、と思った。今夜もジェクトは俺を見つけるのだろうか。






2012/05/03 19:00
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