えーんえん、えーんえん、と子供が泣いている。空に向かって、この世に自分以外誰もいないと言わんばかりに。世界の果てまで届きそうな泣き声に、しかし俺以外に気付いた者はいないようだった。
王になる子供だ。王になる筈の子供。誰もが王になる日を夢見た子供。俺が、王にしてやりたかった子供。二段飛ばしで駆け上がって、頂点にいる父親を踏み越えて、そして誰より高い所に行く子供。それが誰もいない荒野で、一人大声で泣いている。
俺の中にある、愛や希望や幸福といったものを全て掻き集めて形にしたら、きっとこの子供の形になる筈だ。実際にそれらが目一杯詰まった、俺の子供。誰からも愛され、誰からも祝福され、誰からも求められて然るべき子供。だってそうだろう、そうじゃなきゃあおかしいだろう。
なのになんで、そんな所で泣いてる。



「おい、なんで泣いてる」

俺の声に反応して下ろされた目は、未だぼろぼろと滴を落としている。ジッと見つめてくる瞳は、涙でふやけてぼんやりとしている。泣きすぎたのか、頬が真っ赤だ。ガキの頃からそうだ、こいつは泣くとすぐに顔が真っ赤になった。ごしごしと、明らかに戦闘の為ではない筋肉の付いた腕が顔を擦る。そんなに乱暴にしたら腫れてしまう。そう思っても、拒絶を恐れる臆病な足は、ガキの近くに寄ってはくれなかった。怒鳴るだろうか、怒るだろうか。いつものように、「あんたには関係ない」と言って。

「だれ?」
「は?」

予想外なガキの言葉に、拍子抜けして口が開く。幼い仕草で辺りを見回して、そしてやはり俺が自分に話しかけているのだと確認すると、ガキ、いや、ティーダはもう一度小声で「だれ」と呟いた。

「俺が分かんねぇのか」

確認する為に問う。ティーダは止まらない涙を拭うのを諦め、両手を下してコクリと頷いた。
酷く安心した。自分でも笑ってしまうくらいに。息子に忘れられて安心する日が来るなんて、思いもしなかった。自分でも思っていた以上に、俺は息子の拒絶が堪えていたみたいだった。

「秩序の人?」
「ああ、お前もだろ?」
「俺、混沌」

こんなにも、自信無さげに話す奴だったろうか、俺の息子は。ほんの小さい頃だって、自信満々に大声を張り上げていたのに。俯きがちにボソボソと、呟くように話す息子に気を取られて、俺は大事なことを聞き逃した。

「あ?」
「俺、混沌だから…話してると怒られるッスよ」

今度こそ、開いた口が塞がらなくなる。混沌だと、悪を象徴する一人だとこの子供は言ったのか。何でだ。何でそんなことになってしまった。子供の顔を凝視したまま喋らなくなった俺をどう思ったのか、ティーダは裏切られたような、置いて行かれたような顔を一瞬する。そして次の瞬間にはそんな自分を恥じ入るように俯いて視線を彷徨わせると、一歩、後ろに下がった。
これはいけない、と思った。まだティーダが幼い頃、何度も見た表情だ。母が振り返って、そのまま隣を通り過ぎた瞬間にいつもしていた顔。昔はその意味を知らなかった。その後いつも、ティーダが俺を睨むからだ。それに気を取られて、考えようともしなかった。だが今なら分かる。あれは、期待して裏切られて、期待した自分を恥じる顔だ。優しさを期待した自分を恥じるほど、この子供は優しさを与えられずに大きくなった。この俺の息子だというのに、愛を与えられなかった子供。

「なんで混沌にいるんだ」

ようやく絞り出した一言は、息子を安心させることも喜ばせることも出来ない、クソみたいな言葉だった。

「知らない」
「知らないってこたぁねぇだろう」
「…なんか、悪いこと企んだんじゃないかな」
「なんで」
「だって、みんなそうだから」

そんな訳ない。そんな訳がない。だって消えただろう、お前は。正義の象徴として秩序に呼ばれた俺なんかより、もっと尊いことを成し遂げて。それを褒められる暇さえ無く、すぐさま空気に融けて消えただろう。そんなお前が、いつ混沌の悪魔たちと並ぶほど魂を悪に染めたというんだ。

なんで俺の息子ばかりが、こんな目に合うんだ。

目の前が赤く染まった気がした。だってそうだろう。誰よりも幸せになるようにと、賢く、強く、美しくあるようにと願った俺の息子だ。その願いに応えて、一つの世界を救ってみせた息子だ。あの死の螺旋が渦巻いていた世界の全てがこいつを誇っているはずだ。誇り、崇め、敬って然るべき存在だ。なのになんで、涙を拭われることもなくたった一人、こんな荒野で。

「なぁ、泣くなよ。お前は悪いことなんか何にもしちゃいねぇ」

だから頼む、泣いてくれるな。みっとも無く震える声で懇願しても、息子はキョトンとするばかりでいつもの憎まれ口さえ聞いてくれない。大嫌いな父親の醜態を見て笑うことも無く、見知らぬ男の突然の行動に狼狽えている。ポロリポロリと落ちる涙が、地面に小さな染みを作っては消えていく。綺麗だ、まるで、死にゆく人から零れ落ちた幻光虫のようで。

「なんで、あんたが泣きそうになんの」

滴で頬を濡らしたまま、息子が眉を寄せて俺を見る。ああ知っている、この顔は知っている。見たことの無い生き物に、興味をそそられた顔だ。あの飛沫に消えた理想郷で、幼いコイツが浮かべたのを何回か、片手が余るほどの回数だが見たことがある。その視線が向く先が、スフィアの中でボールを追う俺自身だったことが、密かな自慢だったのだ。憧れを込めて見やるその場所に、いつか息子自身を連れて行くのが俺の存在意義なのだと、真剣に思っていた。今でもそう思っている。
涙なんか、子供の時から一度だって流したことは無い。そんな俺の溜まりに溜まった廃棄処分寸前の涙は、全て息子に流れ込んだのだろう。だからきっと、こんなによく泣くのだ。どんなに泣きそうになったところで、乾ききった俺の瞳は潤みさえしない。代わりに、息子の瞳はいつだって潤んで、俺の分まで涙を零す。それでいい。俺の目から流れても、息子のものほど綺麗には輝かなかっただろうから。

「泣きゃあしねえさ」
「でも」
「お前が泣いてるから、俺は泣かねぇよ」

眉を寄せたまま、まだ興味を失わないまま、ティーダが一歩を踏み出す。
誰も優しくしてくれないから、優しい人が好きなのだ、この子供は。不意に理解した。それがどんな意図を持った優しさだろうが、裏に何が隠されていようが、優しくしてもらえるならばこの子供は誰にだって興味を示すだろう。そう魂を形作ったのは俺だ。振り払った手が、聞き流した言葉が、通り過ぎた足音が、この子供の魂を作った。歪に削った。
ただ、王にしてやりたかった。誰よりも高い所の見晴らしの良さを、教えてやりたかった。でも頂点で他の全てを見下ろして笑うはずの息子は、こんな暗い場所で呼ぶ名前も分からないまま泣いている。

「俺が泣きやんだら、泣く?」
「泣かねぇな」

もう一歩、ティーダが俺に近付いた。

「お前が流した方が、涙だって幸せだろうさ」

不思議そうに足を止めて、ティーダがまじまじと俺を見た。今度はこちらから一歩、近付いてみる。後退することは無く、縮まった距離と俺の足、俺の顔を見比べてティーダは沈黙した。青い青い瞳が俺を観察するようにじっくりと眺める。
俺たちの姿を見て、親子だと分かるものが一体どれほどいるだろう。誰一人分からなくても無理がない程、俺たちは似ていない。肌の色も、目の色も、体つきもまるで違う。唯一似ていた髪の色は、息子が嫌がったのか金に染められてしまっている。肉食獣に例えられたこの瞳がせめて同じ色だったなら、こうして向かい合った時息子は目の前にいるのが父親だと気付いたのだろうか。

「なぁ、あんた誰」
「俺か? 俺は…そうだな、世界一ダメなただの親父だ」

キョトンとした顔で、ティーダは俺を見た。涙に濡れる瞳が光を反射して、まるで水底から見上げた光の帯のように輝く。意味が分かっているのか、いや分かっているはずなど無いが、首を傾げた表情はまるで幼い子供のようで、もう戻れない日々を俺に強烈に思い出させた。
父さん、と呼ばれていた日も確かにあるのだ。息子がまだ歩くのも覚束ない頃の、ほんの一瞬。躊躇いも無く俺に手を伸ばして、その手が届くと何の根拠も無く信じていた頃。

「俺、ティーダッスよ」

唐突に、何かに納得したように息子が名乗った。知っている。俺が付けた名前だ。ザナルカンドの古い言葉で、一週間寝ないで考えた。

「俺は…ジェクトだ」

涙の痕を拭いもせずに返事を待つティーダに、思わず名乗った。ティーダは一瞬考えた後、俺の名前を口の中でモゴモゴと呟いて、はにかんだ様に笑った。視線を少し下げて、頬を僅かに染めて。見知らぬ男の名前を知ったのが、そんなに嬉しいものだろうか。じっと見詰める俺に視線を返して、もう一度ティーダは笑った。

「俺、多分その名前好きッスよ」
「…そうか」
「うん」

俺の愛想も何もない返事に満足したのか、ティーダが地面に手を差し伸べる。何かを掬うような動作をした一瞬、ティーダの手にはブリッツボールが出現していた。良く見慣れた特殊な形状をしたボールは、それが当然というように息子の腕の中に納まっている。
それをくるりと撫ぜて、そのままティーダは踵を返した。胸にボールをぎゅうと押し当てて、歩き始める。躊躇いの無い動作に反応が遅れて、慌てて引き止めるために声を上げた時には、折角縮めた距離は最初と同じくらいに開いてしまっていた。

「おい! どこ行くんだ!」
「えっ」

振り返ったティーダは首を傾げ、何かに思い至ったかのようにハッと一瞬息を飲み、伺うように俺を見た。その手にあったボールはまたいつの間にか消え、代わりに青い水泡を吐き出し続ける不思議な剣が握られている。下がった眉と泳ぐ視線に、息子が何を勘違いしたのかを悟って、俺は敵意が無いことを知らせるために空っぽの両手を振ってみせた。

「やり合おうってワケじゃねぇよ、剣しまえ」
「あ、うん」

また瞬きの間に剣は消え、ボールが現れる。そういえば、俺が息子にと親友に託した剣はどうなったのだろうか。水泡を吐き出す剣の方が息子の目の色とよく合っているが、少し寂しく思う。
安堵したように張りつめた顔を緩ませ、ティーダは落としかけていた腰を上げた。戦いたくないと、思っていてくれるのだろうか。そうならばこれ以上に嬉しいことはない。何度巡り会っても、何度世界を渡っても、剣を向け合う事を宿命づけられているのだ。例えそれが運命だとしても、息子と望んで傷つけあうわけがない。

「なぁ、俺と一緒に来ねぇか。お前なら女神サマだって歓迎するさ」

俺の言葉に、ティーダは目を大きく見開いた。じっと俺の顔を見て、そして可笑しくて仕方ないというように笑いだす。まだ涙の名残のある顔だが、笑ったというそれだけの事実で俺は妙に満足した。もう一度促すように、なぁ、と言う。混沌にいたって、良い事など何一つ無いだろう。それならば秩序に来てしまえばいい。だってきっと俺が秩序にさえいなかったら、こいつが来ていた筈なのだ。世界を救った勇者。誰よりも純粋で高潔な魂を持った、夢の救世主。
だがティーダは、心底可笑しいというように笑ったまま、俺を見て言った。

「ダメだよ、俺混沌だもん」

底冷えするような、暗く沈んだギラついた目で。

「秩序の奴らを殺すのが仕事だ」

そしてまた、背中を向ける。
だって泣いていただろう。戦いたくないと、傷付けたくないと。それでもお前は、仮初の仲間の所へ戻るのか。
遠ざかる背中を、俺はただぼんやりと眺めることしか出来なかった。

王になる子供。王になる筈の子供。誰もが王になる日を夢見た子供。俺が、王にしてやれなかった子供。王になる機会を奪った子供。
歪み削られた魂は、もう二度と丸くは戻らない。丸かったそれを傷付けたのは、俺だ。






2012/05/03 18:59
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -