真っ白な手が空から伸びてきて、俺を包む。全身を覆い隠した温かな体温の中で、俺は目を閉じる。そして気付く。これは手じゃない、海だ。目を開いたら白色はもうどこにも無くて、真っ青な視界の中、光の帯が踊る。少し水を蹴れば、どこまでも進んでゆける。
夢だ。これは夢だ。
だって異世界の海は、どこまでも冷たくて黒い。暖かかった故郷の海とも、故郷を作り出していた世界の海とも違う。命を持たない海だ。
水面を目指して泳ぐ。光の帯が視界を埋め尽くして、ザバリと自ら顔を上げた瞬間。俺は覚醒した。

「ティーダ! 良かった、目が覚めたのね」

優しい女の声がする。誰だっけ、母さんだったかな、いや母さんはもっとずっと昔に居なくなってしまった。じゃあ誰だ。
ひゅう、と息が漏れて、初めて全身がひどく熱を持っていることに気が付いた。

「まだ熱が下がらないわ。薬を飲める?」
「…アーロンは?」
「え?」
「アーロン、どこ」

体調が悪い時傍に付いていてくれたのは、父でも、母でもない。不機嫌な顔をした後見人だ。それより以前は、一人ぼっちだった。
重い瞼をこじ開けて、辺りを見回す。覗き込む女性と、こちらを伺っている幾人かの男たち。でもその中に赤いコートを纏う姿は無くて、俺は無償にガッカリした。彼らは誰だろう。ハウスキーパーだっただろうか、それともチームの雇った医者だろうか。アーロンはキッチンにでも行ってるのかもしれない。もぞもぞと毛布の顔を埋める。思い出せない人達に囲まれているのは居心地が悪い。

「ティーダ、薬を飲んで」

女の人が柔らかい声で言うけれど、顔を上げる気にはならない。もう一度トロトロと夢の世界に沈んでいって、目が覚めたら真っ先に赤いコートが目に入ることだけを祈った。



*****



ザワザワと声がする。低く荒れた、男の声だ。アーロンの落ち着いたものとは違う。チームの誰かが見舞いに来たのかもしれない。そっと目を開けると、傷だらけの背中が目に入った。大きな背中だ。背中の持ち主は俺が起きたのに気付かないまま、誰かと言葉を交わしている。

「でもよぉ、俺がいたって」
「それでも頼む、付いていてやってくれないか」

もう一つ、若い男の声。そして遠ざかっていく足音。傷だらけの男は溜め息を吐いて、ぐるりと俺の方を見た。誰だっけ、見覚えがある気がする。パチリと目が合って、真っ赤な瞳が見開かれた。アーロンと同じ、赤い色。

「おい、ガキ、気がついたのか?」
「………」
「熱出すなんて、それでも俺様の…」
「アーロンは?」
「は?」

見回しても、やっぱりどこにもアーロンはいなかった。ジワリと目に涙が溜まる。枕に目を擦り付けて、頭まで毛布を被った。アーロンはどこに行ったんだろう、もう戻ってこないのだろうか。俺が嫌いになって。
そのまま暫くグズグズと鼻を鳴らしていたら、不意に何か大きなものが毛布の上から俺の頭を掴んだ。もしかして、撫でているつもりだろうか。きっと隣に座っていたあの男なのだろう、不器用に俺の頭の形に沿って手を動かす。
俺の予想を裏付けるように、ガサついた声が俺の名前を呼んだ。

「ティーダ、おいクソガキ」
「………」
「おい、そんなにアーロンがいいのか」
「………」
「なぁ、返事しろって。アーロンなんていつも仏頂面じゃねぇか」

毛布から腕だけ出して、男の手を払う。アーロンの悪口は許せない。男は小さく舌打ちをして、今度は両手で俺を毛布ごと抱き上げた。

「ひっ」
「なんだその声、情けねぇな」

少しだけからかいを含んだ声がすぐ近くで聞こえて、自分が胡坐をかいた男の膝に抱きかかえられているのだと知った。男の傷だらけの胸板に頭を預けているせいで、ドクドクという力強い鼓動が耳元で聞こえる。それになんだか安心して、もっと良く聞こえるように頬を寄せた。

「そんなにアーロンがいいのか」

さっきの問いをもう一度、さっきより幾分か優しい声音で男が問う。ぼんやりと微睡みそうな頭では理解するのに数瞬かかったが、男は黙って俺が答えるのを待っていた。

「アーロンが、お粥作ってくれるんだ。林檎も剥いてくれて、それで早く良くなるようにって歌を歌ってくれるから」
「歌くらい、俺だって歌ってやる」
「アーロンじゃなきゃやだ」

あの低い声で、すぐに良くなると言われるとそれだけで治ったような気がするのだ。大きな手が、長い指がぎこちなくも優しく俺の頭を撫でて、その時だけはどんな我が儘でも聞いてくれる。俺は熱を出すのが嫌いでは無かった。ブリッツは出来なくなるけど、その代わりに、俺は一人じゃないのだと実感できるから。

「俺で我慢しろよ」
「…やだ」
「何でだよ」
「アーロンじゃなきゃやだ」

毛布を握りしめて、男の言葉を否定する。男は溜め息を吐いて、俺の頭に顎を乗せた。重い、アーロンなら絶対にこんなことはしない。アーロンは優しい、怖いけど、優しい。

「何でお前はそんなにアイツが好きかね」

男の手が宥めるように俺の背中を撫でる。頭を撫でた時よりは優しい手つきだが、やっぱり乱暴だ。

「アーロンしか、いないもん」

男の手がピタリと止まった。頭に容赦なく掛けられていた重さが少し減る。

「俺、アーロンしかいないもん。おかえりって言うの、アーロンだけだ」

だから俺は、アーロンでなければ嫌なのだ。


男は暫く黙りこくって、俺がうとうとし始めたころ、また唐突に口を開いた。低く掠れた声は何だか勢いが無くて、この男らしくないなと思う。誰かもよく分からない男だが、でも多分俺の知っている人なのだろう。熱を出すとお前は俺ばかり呼ぶから困る、といつかアーロンが言っていた。見舞いに来たコーチに、あんたなんか知らないアーロンじゃないと泣き喚いたことがあるそうだ。俺は覚えていない。

「お袋はどうした」
「…死んだけど」

男の質問を、少し怪訝に思う。こんなに俺に馴れ馴れしいのに、それを知らないのだろうか。

「親父もいないよ」
「そうか」
「親父は、ブリッツ上手かったんスよ。あんたも名前くらい知ってるだろ」

知らない筈は無い。俺の近くにいる人間は皆、俺の中に親父の欠片を探そうと、いつでも必死なのだから。ドクドクという男の心臓の音が、僅かに強くなった気がした。だから俺は、きっとこの男も親父のファンなのだろうと思った。親父を神様のように崇めて、俺がそうなるように望んでいるのだろう。

「…親父、ジェクトシュートっていうの、撃つだろ」
「あ?」
「練習したんだ。何回も親父のスフィア見ながら。俺多分生で見たことあるんだろうけど、覚えてないから」

ポツポツと話す俺に、男はまた俺の頭に顎を下して聞く姿勢になった。寡黙なのだろうかとも思ったが、さっきまで散々喋っていたから違うだろう。この男が尊敬している俺の親父の話になって、興味をひかれたのだろう。でもきっと俺は、男が喜ぶような話はしてやれない。

「親父のことなら、記者の人とか、ファンクラブの人に聞いた方がいいよ。俺、親父といたの7歳までだからあんま知らないんだ」
「………」
「その後はアーロンがずっと一緒にいてくれたから…なぁアーロンまだ帰って来ない?」
「…ああ、まだだな」
「そっか」

ふぅと息をつく。熱い息が漏れて少し震えたら、温めるように男が抱きしめてくれた。抱き締められるより、アーロンがやってくれるみたいにお腹をポンポン叩かれる方が好きなのだが、我慢した。それは後でアーロンにやってもらうからいいんだ。
ふと男が体を捻って、俺のより随分太い逞しい腕で何かを取った。もう片方の手で俺の手を握ったままだった毛布から外し、それを渡す。並々と液体の注がれたコップだ。まだ温かく、湯気を上げている。

「飲め。それ飲み終わったら薬だ」

甘い匂いのするそれにそっと口を付ける。俺が素直に飲んだのを見て、男が俺の頭を撫でた。

「ジェクトシュート…名前ダサいよな」
「かっこいいだろうが」
「雑誌で、親父がそう言ってんの読んだよ」

やっぱり親父のファンは皆そう思うんだな、と少し笑った。男はまた黙り込んで、何か考えているようだった。

「こないだの、親父の特番見た? 俺見てないんだ。録画はしたけど」
「いや、見てねぇ」
「親父のインタビューが放送されたんだって。今まで放送されたこと無い、俺が2歳くらいの時の。アレ見てさ、皆がジェクトさんって本当に家でも上半身裸なのかって聞くんだ。でも俺覚えてないし、写真もあんまり残ってないし」
「…何て答えたんだ」
「そうみたいッスねって答えた。俺が知ってる親父の事なんか、皆とあんまり違わないのにな」

俺を抱きしめる腕が強くなって、少し痛い。半分ほど残ったカップの中身が揺れるのを、じっと見た。

「もうすぐジェクト記念カップがあるから、雑誌もテレビも親父のことばっかりだ」
「ジェクト記念カップ?」
「親父が居なくなって10年経つだろ。だからさ、毎日取材の人とかに何か親父のエピソードをって聞かれるんだけど、俺が知ってる親父の事なんて意地悪だったことくらいだ。好きな食べ物も、色も、得意な技も、全部雑誌とテレビで知ったんだ」
「………」
「だからゴメンな、あんたも親父の事知りたいんだろうけど、俺雑誌に載ってること以上は知らないんスよ」
「…そうか」

沢山喋ったら、疲れた。残ったカップの中身を一息に飲み干したら、男はそのカップをそっと奪ってまた新たに水の入ったコップを俺に渡した。一緒に取り出した粉末が、多分薬なのだろう。粉より錠剤の方が好きなのに。アーロンは何も言わなくても錠剤にしてくれるのに。

「母さんは、何が好きだったのかな。親父の事は色んな所に書いてあるから知ってるけど、母さんのことは知らないんだ」

粉薬を口に入れ、水で流し込む。苦い。こんなことならさっきの甘い飲み物を残しておけば良かった。
男が水の入ったコップを受け取って、脇に置く。温かいものを飲んだからか、薬を飲んだからか、強烈な眠気が襲ってきた。男の腕の中は温かくて、それが余計に眠くなる。男があやす様に腕の中の俺を小さく揺らす。鼓動に合わせて揺れる揺り籠は、なんだか酷く懐かしい気がした。
低い低い声で男が歌い出す。いつもアーロンが歌ってくれる子守唄だ。不思議な、異国の言葉で歌われるそれが、優しく俺を包む。

「なぁ、アーロンまだ?」

俺の質問に、男は答えなかった。代わりに繰り返しもう一度、歌が始まる。
何処かから足音が近づいてくる。重い、固い足音だ。きっとアーロンが帰ってきたんだ。パサリと布を捲る音がして、近付く人影。

「…様子はどうだ」

あれ、アーロンいつから赤いコート止めて黒いジャケットにしたの、赤い方が似合うのに。言葉にする前に、意識は闇に呑まれた。



真っ白な手が、俺から熱を奪う。
海の中を真っ直ぐに進む。
光の帯に飛び込んで目を開けると、俺はいつものテントの中にいた。アーロンはいない。だってアーロンはもう死んでしまった。最初から死んでしまっていた。
じゃああの親父のファンの男は誰だったのだろう、最後に帰ってきたアーロンはどこに行ったのだろう。目を覚ました俺に安堵の笑みを零すティナに笑い返して、今見た不思議で温かい幸せな夢に思いを馳せた。






2012/05/03 18:58
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