どうか夢の中では穏やかであれ 起き上がって、戦わなきゃいけないはずなのに、体が動かない。右手の中にある大鎌が冷たい。まるで自分の武器ではないかのような感覚だった。 掌に神経が通っていない錯覚を覚える。もう武器を握る力も残されていないらしい。 目にしなくても、自らの身体から血の気が失われていくのがわかった。 怪我をしていない場所なんて、むしろ存在しないのではないか。 無様に地面に這いつくばり、背後から刻々と迫る死の恐怖に、動作にならない足掻きをするしかない。 エルダー級。その一段下の階級の血界の眷属だった。 だからといって油断していたつもりは毛頭ない。 今回の作戦は大掛かりなもので、他のメンバーはそれぞれ別の眷属や堕落王が召喚した化け物と戦っていた。だから彼らを頼ることはできなかったし、仮に今みたいに眷属に遭遇しても、現在の自分の実力なら勝てると確信していた。――まあ、それが敗因だったわけだが。 情けないな、と口の中だけでつぶやいた。 対峙した血界の眷属は、読心術の使い手だった。それも飛び抜けて高精度の。 凍らせて心の奥にしまいこんだ感情を引きずり出されて、激しく動揺した。 恋慕。嫉妬。悲哀。切望。なにもかも。 単純な揺さぶりに嵌るほど、心が弱かったとは。自分の醜態に自嘲すら出てこなかった。 * 死の気配がひた、と背に触れた。 死にたくない。 ――死にたく、なかったんだけどなあ。 思わず乾いた笑みが零れる。 ――でも、死ぬよねえ。 そうやって、諦めてしまった方が楽だ。 自分が一番苦しいとき、助けに来てくれるのはいつもザップで。 しかし戦況的にも救援は望めまい。 救いの手を差し伸べてくれたお礼をまだ、何も返せていないことが心残りだった。 それから。 否、それでも、やっぱり。 壊された氷のかけらは、ちくちくと心を蝕んだ。 心の外側が少し傷つくと、それはさらに容赦なく突き刺さる。 溢れ出る血液は、恐ろしく透明で、氷水の如き絶世の輝きを放ってとめどなく流れてゆく。 ……やっぱり、自分は。 灼熱の炎より、絶対零度の氷に強く、焦がれた。 一陣の風が吹く。 世界が一瞬にして姿を変えた。 北極か南極かと見紛うほどの冷気と、そそり立ついくつもの円錐型の氷柱。 広い背中。はばたくジャケット。ちらと見えた横顔は、スカーフェイス。 そんな都合のいいことが、起こるなんて、信じない。 信じてしまったら、自分は自分でいられなくなる。 どうか、期待させないで。どうか、お願いだから、 「杏樹ッ!大丈夫かい?!」 そう言って、切羽詰まった様子で自分を助け起こした人を見て、まだ彼は、自分を大切に思ってくれているのだと。 触れなくなって久しいその体温を感じて。まだ彼は、自分に触れてくれるのだと。 嬉しかった。 それがたとえ、妹としてでも。 妹としてでも? ……そんなこと、これっぽっちも思っていないのに。 ぽろりと一粒、涙が落ちた。 「ごめんなさい、スティーブン。わたし、もう『いい妹』でいられない」 じわじわと紅が広がる服に、ぽたぽたと新たに染みが増える。 泣いたらだめだと理解しているのに、どうやったって止まらない。視界に映る愛しい人は、すっかり滲んでしまって、どんな顔をしているのかわからなかった。 「――わたしね。わたし、あなたに嫌われてもいい。突き放されても構わない。それでもね、この気持ちを否定されるのが、一番つらくて、苦しくて。だから、なかったことにしようって、思ったんだけど、」 彼が何かを言っている。すぐ近くにいるはずなのに、声が聞こえない。 「無理、だった。ごめんね、わたし、やっぱりあなたのことが、スティーブンのことが、大好き」 ああ、寒い。 ひどく寒い。 愛おしいこの冷たさを、ずっと感じていたい。 けれどどこからかじわじわと疲労と睡魔が襲い来て、瞼を閉じさせようとする。 今この瞳を閉ざしてしまえば、もう二度と彼に会えなくなる気がした。 そうやって意地になって拒んでいたら、彼がそっと、掌を包み込んでくれるものだから。胸の中は柔らかなあたたかさで満ちる。 心の氷塊が溶ける音を聞きながら、ゆっくりと瞼は落ちていった。 ▼ この戦闘の真相(反転)→アリギュラがフェムトに無理を言って、エルダー一個下級の眷属に擬態して、杏樹とスティーブンの恋路を成就させようとした。そのためにこの大きな事件を引き起こしたし、この場のお膳立ても完璧にしていた。だからこそのスティーブンが助けに来るという王道展開。それにしてもやりすぎではというツッコミは、自称恋の伝道師であるアリギュラには通用しない() 2015/07/21(2017/09/11up) ←back |