わだつみの呼ぶ声
太宰さんが海に行きたい、と言うので、海までやってきた。
それにしても彼が俥の運転をするような人だと思わなかった(というか免許証を持ってないと思ってた)ので、わたしが運転するものだとばかり思っていたから、ポケットから出した鍵を人差指でくるくると回して、「じゃあ私の俥で行こうか」と微笑まれたときにはびっくりしましたマル
「初夏の海はまだ少し冷たいですね」
たった二人の静かな砂浜の波打ち際にしゃがんで、時折押し寄せる海の水に触れる。
隣でわたしと同じようにしゃがみ込んでいる太宰さんは「そうだねえ」と相槌を打つ傍ら、ぺしぺしと水を叩き戯れていた。
「ところで今日はなんで急に海に行きたいだなんて……」
太宰さんの突拍子のなさは今に始まったことではないけれど、と。
そこまで考えて、はたとある可能性に気づく。
逃がすまい、という気持ちも込め慌てて太宰さんのコートを掴んだ。
「ま、まさか海で入水する心づもりで?!」
「やだなあ、杏樹。さすがの私も海で自殺はしないよ。……不幸にもこのあたりには崖がないようだしね」
否定しつつも歪みない笑顔を浮かべる太宰さんに、もう反論する気力も失せてしまった。
しかしどれだけ極度の自殺マニアであろうと、どうしても構ってしまうというか、放っておけないというか、なんというか……。
母性本能を試されているのだろうかと思うときがある。
自ずと下りた沈黙が漂う中、潮の匂いと波が岸に打ち寄せる音が相まって、心が凪いで穏やかな気持ちになった。
「海って、きらきらしてて綺麗だよね。まるで杏樹の瞳みたいだ」
ふふ、と太宰さんは優しく微笑む。
どこの恋愛ドラマのワンシーンだ!
その臭い台詞に、言われたこちらが恥ずかしくなる。
ふい、と赤くなった顔を逸らせば「そんなことしても可愛いだけだよ」とくすくす笑われた。
「海は、わたしの目と比べ物にならないほど綺麗なんですよ」
気恥ずかしさから絞り出した言葉は、言い訳のように聞こえたかもしれなかったけれど、その判別がつく前に波の音に溶けて消えてしまった。
▼ 2013/08/29(2013/09/08up)
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