ささやかな愛がいきつくところで 公安局刑事課一係、シェパードoneこと波崎杏樹監視官。コードネーム番号が狡噛と宜野座の執行官への降格により繰り上がったことに対して、胸中を占めるのは複雑な思いだった。 深読みすれば、いずれば自分も――と運命が迫ってきているかのようにも受け取れた。しかし犯罪係数に関して、杏樹は特別危機感を覚えていなかった。なぜなら、彼女の犯罪係数には標本事件以後激しい変化が見られなかったからだ。 元々荒事に耐性があった分、一度強烈な出来事を経験してしまったので、犯罪係数が「開き直った」のだと、杏樹は考えている。 蛇足を並べておいて恐縮だが、結果として杏樹の犯罪係数は常にクリアカラーのため、こうして住居を執行官宿舎に設けることを承認してもらえているのだ。 彼女の住まい。それは以前、狡噛慎也が使用していた部屋だった。 * この部屋へ越してきて、早一年半になる。 杏樹は時の流れをひしひしと感じていた。 冷蔵庫を新調したり、台所用品を増やしたりしたが、殺風景な部屋はできるだけ狡噛が住んでいたころと変わらないままにしてある。標本事件の資料も、変わらず棚に仕舞われている。 時折思い出したように杏樹はそのファイルを手に取り、ぺらぺらとページをめくる。 今夜もそうだった。 すべてはこの事件からはじまったのだ。 ――この事件にさえ巻き込まれなければ、狡噛はまだここにいたのだ。 資料を見ると、どうしても感傷的になってしまう。だめだなあ、と自嘲気味に溜息をつく。静かな部屋では、それすらもやけに大きく聞こえた。 杏樹がこの場所へ住居を移したのには、いなくなった狡噛を近くに感じていたかったから、という恋人的な理由のほかに、もう一つ理由がある。 それは、室内の標本事件の捜査資料を誰にも触れられたくなかった、という理由だ。 部屋に残された大量の資料は、槙島なき今ではただの紙クズと化している。それでもこのファイルたちは、狡噛が積み重ねてきた人生そのものなのである。歩んできた足跡だと言ってもいい。少なくとも、杏樹はそう感じていた。 読んでいたファイルを閉じて、そっと表紙を撫でる。愛おしげに。もう二度と戻らない日常を懐かしむように。 「会いたい、なあ」 掌に食い込むほど強く、ファイルを抱きしめる。 小さく、小さく言葉を漏らしたその声は、悲痛と寂寞に震えていた。 視界が歪み、蒼穹の瞳から床にぽたりと雫が落ちた。 そうしている間にも、狡噛のいない時間は静かに刻まれていく。 一年半。どこにいるかもわからない最愛の人を想うには、長すぎる時間だった。心から身を委ねられる止まり木を失った状態の彼女には、精神的な疲弊が膨らみつつあった。それでもいつか再び出会えることだけを信じて、杏樹は今を生きていた。 * コンコン、と扉を叩く音がした。 杏樹は慌てて涙を部屋着の袖で拭き、ファイルを元の位置に戻すと、入口まで小走りで向かう。扉の横に設置されたディスプレイで相手を確認し、素早くロックを解除した。 「こんばんは、ゆず」 「ああ。夜遅くにすまない、杏樹」 波崎ゆずと波崎杏樹。 苗字が同じで二人とも金髪碧眼、さらに顔立ちも似ている。刑事課内でも幾度か兄弟か親戚ではと尋ねられたことがあったが、事実は全くことなる。 しかし、あえてこの場では説明はしないことにする。 「今日は、本当に申し訳なかった」 居間に通され、ソファに腰を下ろした途端、開口一番にゆずは頭を下げた。 何のことか言わずともわかる。昼間のメンタルケア施設立てこもり事件のことだ。彼は同じ三係のメンバーを止められなかったことを悔いているのだ。 それをわざわざ謝りに来るとは、本当に律儀である。いや、相手が杏樹だからこそ、なのかもしれないが。 「ううん。気にしないで。鹿矛囲に関する一連の事件の解決を、今以上に頑張ることにしたから、もう大丈夫だよ」 笑みを浮かべて返す杏樹を見て、ゆずは釈然としない顔をするも、すぐに「今度同じようなことがあったら必ず縢と一緒に止めるよ」と表情を引き締めて決意を口にした。そして「それだけ言いたかったんだ」と杏樹に笑いかける。 「それじゃあ、さっき来たばっかりだけど、夜も遅いし俺はお暇するよ」 ゆずが立ち上がり、杏樹も共に出入口まで見送りに行く。部屋から出る直前、杏樹は「あまり根を詰めすぎないようにな」とゆずに念を押される。 そのとき自分の頭を撫でてくれた掌は、狡噛と同じように大きくて、でもどこかが違っていて。また涙が溢れそうになった。 ▼ 2014/12/21(2015/02/24up) ←back |