short | ナノ

あなたが好きです。
――大好きだよ

――大好きだから


「りょーこー!」

一緒に部室に行こう!


杏樹はいつものように稜子を誘う。
『首くくりの物語』の一件で記憶を失くした彼女は、いつものように応える。
それは本当に『いつものよう』なのか。
そんなことは彼女たちには関係がなかった。
特に杏樹は、この日常さえ壊れなければそれでいいとさえ思っていた。
ただ平凡にいたいだけだ。
普通に。
空目や武巳や俊也や亜紀やあやめや初灯や――稜子と、一緒に居たいだけだ。

「そういえばね杏樹ちゃん、魔王さまがねー……」

それなのに。
どうしてこうも、邪魔をされるのだろう。
杏樹が望む日常は、そこまで難しいものなのだろうか。
手を伸ばしても、届くはずのない。そんなかけ離れた願いなのだろうか。
大多数の人間には、望まずともそこにそんな日々があるというのに。
自分たちの場合は望んでも、平凡は訪れない。

「――稜子、」

きっと、今。
今、このときに言っておかないと、もう、言うことすら叶わないかもしれない。

わたしたちは大丈夫だと、心のどこかで思っている。
『異界』の『怪異』に巻き込まれて、自分が自分でなくなることはないと、そう確信しているのだ。
根拠のない、確信だ。
それはとてつもなく不安定で、どこからそんな感情が生まれてきたのかさえわたしは、わからずに、無性に怖くなる。

すぐそこに、『異界』は迫っている。

「好きだよ。大好き」

すると稜子は、目をぱちくりさせて瞬く。
学校の廊下。
行き交う生徒たちの喧騒。
それが一瞬、止まったように感じた。
動いているのはわたしと稜子の二人だけ。

「私も。大好きだよ、杏樹ちゃん」

再び時が動き出したころには、ふんわりと笑顔を浮かべた彼女が居た。

――嗚呼、
その微笑みすらも、かいま見ることができなくなるのか。

わたしはその、幸せそうな笑顔を守りたいと思った。
普通だった、普通でいることがなによりの少女の幸福だったにも関わらず。
こちら側に来てしまった稜子の、

そして。

空目や武巳、俊也や亜紀、初灯の――穏やかな日々を護りたい。

これだけは。
この思いだけは、誰にも、何にも譲れない。

何度だって、わたしは。


( 大好きです。ずっと、忘れない )


▼ この度、がんにより亡くなられた声優、川上とも子さんに捧げます。※この夢主は、Missing連載『君だけの物語』の女主です。 2011/06/11(2012/12/27move)
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