short | ナノ

前章



――それはまだ、世界が平和だと云えたころのある日の出来事。





「杏樹」

「ひっ!」


自分たちの教室。
今は夕暮れ時で、そこは鮮やかな橙色に染まっていた。

そんな中で、己が教室に戻って来たとき。
真面目な表情で机に向かい、シャープペンシルを動かして日誌を書いている彼女を見つけた。
ペンは白と水色の縦縞の模様だった。鉛筆型のシャープペンだ。
夕陽によって、クラスメイトの一纏めにした長い金色の髪が淡い黄昏に輝いた。
時折吹いてくる風に、その綺麗な金髪がさらさらと揺れる。
胸元の十字架のペンダントも同じように風にさらわれ、日に反射してきらりと光る。
字を書いているため若干伏せられた瞳は、しかし青空のように澄んだ色をしていることを自分は知っていた。
鼻筋もすっとしていて、思わず口付けたくなる桜色の艶のある唇はきゅっと固く結ばれている。肌の色も白いし、どのパーツ一つ取っても、眉目秀麗で可憐だ。


――無意識に判っていない振りをした。

そんな彼女に――波崎杏樹という女に惹かれていたことを。


だからかもしれない。けどそうじゃないのかもしれない。
ずっと後ろの引き戸の入り口に立っているのに、気がつかない杏樹をからかおうと思ったのは。

そっと忍び足で真後ろに来て、耳元で甘く名前を呼んでやると、全くもって可愛げのない声音の悲鳴。まるで幽霊でも見たかのような声だった。

「まっ真広……」

こちらを振り向いてつぶやいた杏樹の顔は赤く。
杏樹の位置から俺を見るにあたって上目遣いになっていたので、それもプラスされて気分がよく、唇は自然と弧を描く。

「な、何笑ってんの……」

戸惑ったように、けれど不満げに、でもやっぱり呆れたようにそう漏らして彼女は日誌を書く作業に戻った。
再び空色のシャープペンシルが動き出す。
杏樹の視線は少しの間俺を捉えただけで、もう独占できない。
腹が立つなあ。なんか。
その澄んだ、何の汚れにも染まっていない瞳を、俺の色に染め上げたかった。

「杏樹、構え」

後ろから腕を伸ばして、彼女の身体を抱きしめた。
顎は肩に落ち着く。

あ。睫毛長ぇ。

頬は恥ずかしさに赤く染まっていると言うのにそれでも強情に唇を真一文字に結んだまま、まだ字を書く手を止めない杏樹に、俺は痺れを切らした。

――ていうか、拒否しないってことは別に脈アリってことで期待していいのか?


「――っちょ?! どこ触ってるんだ、真広!」


制服の中に手を突っ込んで、その魅力的な操をまさぐり始めると杏樹はようやくこっちを向いた(ちゃんと出るトコは出てんだな)。
タイミングを逃さず、すかさず彼女の頬にキスをする。

柔らけえな。

俺はニヤリと笑う。


「杏樹が俺を構わないからだ、ばーか」
「……ッ」

あまりにも一瞬の出来事だったので、自分にされたことが何なのか理解するのに数秒かかった杏樹は、やがてかああと今まで以上に赤面させた。頭から湯気でも出てきそうな感じだった。

「どした? 別に口どうしじゃないんだぜ?」

そこまで顔を真っ赤にするとは予想外だったから、少し拍子抜けして尋ねる。
彼女の制服の中に入れていた手を出して、今度はちゃんと、その手で華奢な胴を抱きしめた。


「だって、真広は……」


そこまで言って、杏樹は俯く。
彼女なりに葛藤があるようだ。
口を開けたり閉めたりして、言葉を探していた。


――気が変わった。

「……?」

俺は腕を放した。
体を解放され、次は頭を撫でる俺にきょとんと首を傾げた。

「今日の真広、何か変だよ」

まっすぐな瞳に見つめられて断定的に言われた俺は、苦笑するしかなかった。
なんでかねえ。
俺だって、なんでこんなことしたのかいまいちわかんねぇよ。

「いつも通りじゃねえか」

自身の曖昧さを隠すように、俺は普段のように口角を上げて笑った。

「そうかな……」

杏樹は怪訝そうにつぶやいたが、俺は気にしなかった。
気にするほどの問題でもないだろ。俺自身がそう言ってんだから。

それを実際に言うと、彼女は整えられた眉を吊り上げて、

「真広は、他人のことを考え過ぎて自分のことあまり考えてないんだから……!」

と怒られた。
おお。怒った杏樹なんか、滅多に見られるもんじゃねえ。
などと上の空でいると、

「聞いてるの?!」

また怒鳴られた。

「聞いてるってちゃんと。……つーかそれよりもさっさと日誌書いて帰ろうぜ」

そう答えると、杏樹はまだ何か言いたそうな表情をしたが渋々日誌の最後の欄に、すらすらと『本日を通しての感想・意見』を書き、

「じゃあ帰ろうか」

日誌を閉じて下敷きを抜き、シャープペンシルと消しゴムを細長い筆箱に入れ、机の脇にかけてあった鞄の中にその二つを放り込む。
俺は杏樹から離れ、窓を閉め始める。

立ち上がって椅子と机を整えると、杏樹は黒板の右に在る蛍光灯のスイッチをぱちんと切った。
そしてすぐ近くの引き戸の上部に取り付けられた鍵掛けから鍵を取り(なぜかキーホルダーはあの千と千○の神○しのカオ○シ。これをつけた奴のセンスを疑う)、扉の鍵を閉める。

その一つ一つの仕草に、俺はいつの間にか見入っていたらしい。
その上自分でも気づかないうちに、ぼーっとしていたようだ。

「真広ー何してるの、早く出てー」

気づくと杏樹は、後ろの引き戸から出て廊下に立ち、左手に鞄・右手に鍵を持って脇には日誌を抱えていた。

「悪い」

疲れてんのか、俺。

うっとおしい前髪を掻き上げて、鞄を握り直し廊下に出る。
扉の鍵を閉めた杏樹が、こちらを向いて言った。青い純粋な目がくすんだ色をした俺の目と合った。

「紅い目も、微妙に脱色した髪も――もちろん真広自身のことも――好きだよ」


――は?


本当に唐突だった。まさにこれは藪から棒。
俺は間抜けにも驚きからぽかんと口を半開きにして、意味深に笑いながら先へと廊下を歩いて行く杏樹の背を、しばらく眺めていた。


このとき。
主語がない言葉で『好きだよ』と彼女が告げたとき。
その言葉とともに浮かべられていた笑顔が、なぜか辛そうに苦しそうに、儚げに見えたのは、彼女を美しく照らす夕陽が反射した逆光の所為だったと……。そう、思う。
多分、気のせいなのだろう。

俺は、その真意も知らぬまま。



( Before The Prologue )



▼ と、いうわけでいつかアップしようと思っていた絶園の真広夢。過去に書いたものなので、ね……。もうツッコミはなしの方向で! 時系列的には原作の数ヶ月前ってとこでしょうか。そして真広はナチュラルにセクハラをしかけてくる人物だと思ってます← 2010/07/23(2012/10/05up,2012/12/27move)
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