ガチャ バタン
扉を閉める音を極力小さく響かせて、俺はシズちゃんの家を出た。
九十九屋真一。あいつのことを俺は知らない。どんな顔なのか、本名は、そもそも存在するのか。そんな定かでない奴と今から会う。電話番号など、教えたこともなかったのに掛かってきて、そこで初めて聞いた奴の声は普通すぎる男の声だった。そもそもその声が九十九屋本人の声かなんて分からない。でも初めて、ああこいつは人間だったんだ。と、納得はできた。とりあえず今は指定された場所へ歩く。
池袋東口に、いるから。と言われた。キョロキョロ辺りを見回すが、もちろん誰が九十九屋かなんて分からない。分かるはずもないのに、
「……あれか?」
壁に寄り掛かってる一人の男性。ざっと見て、特になにか特徴があるわけでもない男が何故か目についた。
「九十九屋……?」
男性の目の前まで行って聞いてみた。すると男は遠くを見ていた視線を俺に寄越して、柔らかく微笑んだ。
「待ってたよ。折原」
初めて前にした、九十九屋真一。そいつは、予想通りといえば予想通りの男で、予想外といえば予想外の男。つまり、よく分からなかった。けど顔は整っていて、俺よりも背が高くて世に言うイケメンだった。
「…………」
「こうして会うのは、初めましてだね。感動の抱擁でもするか?」
「ふざけるな。……なんであんなことをした」
伸ばしてきた手をパシンと音を立ててはたく。九十九屋は、自分の叩かれた手を見て、なにがおもしろいのか笑っていた。
「あんなこととは、どんなことかな?」
「しらばっくれるなよ。分かってるんだぞ。電話を掛けるタイミングも良すぎだ。全部お前の計算通りってとこだろ」
「はは、そう吠えるなよ。まあ確かに俺の思惑通りうまく進んでるかな?」
「あんな写真どこで手に入れた。……なんてお前に聞いたところで無意味だな。じゃあ、なにが目的だ」
「目的? うーん、ここは人に話しを聞かれる可能性もあるし、とりあえず俺の家に来ないか?」
「行くわけない。早く話せ」
九十九屋については、知りたいことが多くて、どこに住んでるか、それも一つの気になることだった。でもどうせ奴の家と言われる場所に行っても、そこは適当に借りた一時的な場所でしかないのだろう。今は、そんなことよりも知りたいことがあるんだ。
「話せと言われてそう簡単に俺が話すとでも思ったか? そうだなあ、家に来てくれたら話してやれるんだけどなあ」
「お前と二人きりになるわけないだろ」
「なに、警戒してんの? 大丈夫。殺したりなんてしないから」
「やだ。お前の家に行くなんて、気分が悪くなるね」
「……仕方ないな。強行手段は好きじゃないんだけど、なあ折原」
「なんだよ」
次に、九十九屋の携帯の画面が俺の眼前に突き出されて驚愕した。これは、またまた俺の学生時代の画像で、しかしそれはシズちゃんの家に送られたものとは比にならないほどひどいものだった。
「お前、こんな汚らしい奴にヤられて、こんな顔できるんだな」
「……あ、……」
声がうまく出なかった。そこには汚い肌の色をした、汗ばんだ太った男に挿れられて、俺がヨガってる画像が、絶妙なアングルで撮られていた。
どうして、どうして。どうしてこんなもの持ってんだ。ラブホに入るような写真なら、まだ知り合いや趣味の悪いような誰かに撮られていてもおかしくない。しかしこんなとこまで、まだ学生時代のこんな画像を、こいつはどうして持っている。
「これも、平和島静雄に送っちゃおうかなー」
「やめろっ!」
俺は咄嗟に九十九屋から携帯を奪って真っ二つに折ってやった。こんなの、シズちゃんに送られたりなんかしたら……
「残念。データは家のパソコンに転送してある。送られたくなったら……分かるな? 折原」
「っ………… 家は、どこだ」
「ん?」
「お前の家はどこだって聞いてんだよ九十九屋!」
「はは、さすが、物分かりが良くて助かるよ。これが馬鹿な奴だったら面倒だったな」
「いいから早く連れてけよ」
「そう急かすなって。ほら、おいで」
九十九屋は俺の手を掴んで歩きだした。振りほどいてやろうかと思ったが、ここで変な行動をして奴の気を変わらせるなんて、阿呆なことはしたくない。
雨の中、九十九屋は傘を持っているのにも関わらずささずに歩いた。俺は服も湿っていたし、それならばと元から持たずに来たからすでに濡れていたけど九十九屋も一緒になって濡れた。よく分からない奴だ。本当に。駅から奴の家までの道は見覚えのあるものだった。見覚えがあるというか……これって
「おい、九十九屋……どこに向かってんだよ」
「え、俺の家だけど?」
「いやでも……」
ここは、シズちゃんの家に行く方向だ。あの写真を送ってるし九十九屋は彼の家を知ってるはずだ。
「おい、なに考えて」
「着いたよ」
はっとなって周りを見る。道の曲がり角、目の前には高層マンションがあって、ここを曲がってしまえばシズちゃんの家だ。
「…………」
「どうした? 早く入るぞ」
こいつ、絶対狙いやがった。忌ま忌ましげに睨みつけるがそんなの気にならないとでも言うように九十九屋の顔には笑みが浮かんでいた。ちくしょう、こいつ、ムカつく。
暗証番号を入力してロビーを抜ける。エレベーターに乗って、九十九屋は28階まであるボタンで、7階を押した。下手に最上階とかにしないところが奴らしい。
「どうぞ」
720号室。一番端の部屋。扉が開かれて先に入るよう足されたが俺は入らなかった。
「お前から先に入れよ」
「まったく……警戒心が強いなあ。いいよ、ほら」
扉を片手で抑えたまま、なんの戸惑いもなしに中へと入って行った。ゆっくりと足を進めて俺も後から入る。自然と、流れに従って扉が閉まるとオートロックで鍵がかかった。そして急に振り向いた九十九屋に腕を引っ張られ、体制を崩した俺は床に倒れた。
「っつ……! なにすんだよ!」
咄嗟に起き上がろうとするが、すでに九十九屋が俺に覆いかぶさるようにしてきて、まるで、押し倒されたような、そんな格好になってしまっていた。
「……どけよ」
「やだね」
ならばと抵抗しようと思ったら、次の瞬間には九十九屋が、俺の唇を塞いでいた。
「――っ……!」
思わず固まってしまって、動けずに間近にある整った顔を見た。なんだこれなんだこれ、気持ち、悪い。
「っ、」
どん、 九十九屋の肩を押し返して上半身を起こした。九十九屋は変わらずイラつく笑顔を浮かべたままだ。
「……キスなんて、今まで好きなようにされてきたんだろ」
「どんな奴らにされてようがお前にだけはされたくない」
「おやおや、折原は、平和島静雄にご執心かな?」
「違う」
「ならいいだろ。俺のことも、その他諸々として見れば」
「無理、お前はその他諸々以下だ」
怯まず抵抗を続けていると、また強い力で地面に張りつけられた。片手で俺の手を一纏めにして、足と足の間に奴に入られてしまいうまく動けない。そして、もう片方の手では、ぐしょぐしょに濡れたインナーをたくし上げてきた。
「ちょ、……やめろ、お前なにするつもりだ」
「経験豊富な折原くんなら分かるだろ」
その言葉に、身体に言いようのない感覚が流れた。
「やめ、やめろ! 九十九屋、お前ふざけすぎだ、俺もそろそろ限界だ!」
「会った時から限界だったくせに。……なんで今頃嫌がるんだ。昔は誰彼構わず抱かれてたくせに。ああそういえばお前、平和島静雄との関係が始まってから援交やめたんだっけ?」
「おい九十九屋……やめろ、」
「写真だって、見られただけで常に冷静なお前が感情だけで動いて、さっきの画像だって見せられたくないためだけにこんなとこまで着いて来て」
「九十九屋……もうやめろ、って、」
「あはは、お前もう分かってんじゃないのか? 平和島静雄のことをどう思ってるのか、もうとっくに気づいてるんじゃないのか?」
「やめろっ!」
「…………」
こんなに怒鳴り上げるような声を出したのは初めてだ。しかしそれには思ったように力が入らなくて、微かに掠れていた。自分でも驚いた。頬が濡れてると思ったら涙を零していた。
「っく……そ、も、う、それ以上言うなっ……」
「……マジ泣きされるとは、さすがに思わなかったな。ああ、なんかやる気失せたよ」
ポン、と俺の頭を叩いてから、九十九屋は立ち上がり一言。
「落ち着いたらリビングに来てね」
それだけ言って歩いて行った。気を遣ってるのか、単に面倒臭いだけなのか、知らないけれどやっぱり九十九屋はよく分からない人間だった。
確かに、奴の言った通り、俺はシズちゃんに対して、どこか特別視しているところがある。でもそれを他人に説かれたくないし自分でも気づきたくなんてなかった。
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