彼女は男に会いに行く代償として
 ちょっと強引かなとは思ったけど、ヒマそうだった彼をデートへ引っ張っていった。デートコースは全部ドラマやマンガの受け売り。公園でクレープ食べて音楽聞いて、中古のCDショップでアタシが音楽の話をして、古書店で彼が文学の話をした。その後はカラオケに2時間くらい入って、彼がアタシの歌を聴きたいっていうから最初は連続3曲くらい歌ったんだけど、やっぱりアンタも歌えって言ったら。
「アタシも演歌勉強しようかなぁ? ド迫力ですげぇウケた」
「……お前が歌え歌えとうるさいからだ」
 ああ、思い出しただけで笑いが込み上げる。恥ずかしがってたクセに、イントロ流れ出したら急にコブシきかせてド演歌だもんなぁ。しかもすげぇ上手いのがまた面白かった。よし、次のデートまでには絶対歌えるようにしておこう。俺の日本海。
 少し恥ずかしそうに顔を背ける彼の黒いTシャツのすそを軽く引いた。あたりは日が沈みかけていて、カラオケ店を出てからアタシたちは目的もなく歩いているだけだった。
「あのさ、見せたいものがあるんだけど」
「何だ?」
「店にある。ついてきて」
「……しかし」
「大丈夫。今日定休日だから」
 じゃなきゃこんな時間まで遊んでなんかいられない。
 店が休みである水曜日の昼間に、街中で偶然であった。やっぱり体調悪そうにしているこの男に、運命を感じてしまったのは焦りすぎだろうか。年上だし頭良さそうだし育ちも良さそうで、アタシみたいな田舎の貧乏馬鹿娘とは釣り合わないと思う。でも、やるだけやってみたいじゃん。
 店に着くころには太陽はほとんど沈んでいた。ネオンが眩しくなってきた歓楽街から一本裏通りに入ったところに、アクアリウムバー『Mermaid』はひっそりと存在している。壁に店名が刻まれた銅版が掛かっているだけで、うっとうしい電光板や客引きがいないのがカッコいい。
 正面入り口の横にある裏口から入ると、彼は申し訳なさそうについてきた。使い込まれたシンクやガスコンロ、大きな冷蔵庫を横切ってカウンターの内側へと出る。彼にはそのままホールの方へ進むよう促した。アタシはカウンターの横にある電源の元へと歩み寄る。定休日に水槽の明かりを入れることは禁止されてるけど、気にせず16個並ぶ電源の中からひとつを入れた。
 真っ暗なホールの中で、1つの水槽に光が射しこんで浮かび上がる。カウンターからホールを見て右側の壁の下方ある、縦60cm横3m、奥行き1m強のデカい水槽だ。
 その中で悠々と泳いでいるのは、小型のサメだった。
「……この間までこの水槽には確かクマノミなどがいなかったか?」
「よく覚えてるね。アタシがオーナーに頼んでサメ入れてもらったんだ」
 ツマグロという遊泳性で小型のサメだ。せっかく全長3mもあるデカい水槽があるのに、見栄え重視で熱帯魚ばかりじゃ芸がない。そう丸め込んでコイツを手に入れたのは先週のことだ。サメはまだ稚魚の部類で、体長は30cmほどだった。けどその攻撃的な眼や鋭い体のラインにはすでに貫録がある。
「本当はこっちのメイン水槽に景気よく3匹ぐらい放流したかったんだけどさ? さすがにそれは反対された」
「それはそうだろう。鮫を見ながら食事というのも妙な気分だ」
「それを言うなら、魚見ながら魚介類食べてる時点で悪趣味だとは思うけどな」
 二段積まれた水槽の下段に押し込まれた小さな海の怪物を見るために、アタシはその場にしゃがみ込んだ。彼もアタシの隣にひざを折る。
「ねぇ、レンって呼んでいい?」
 アタシはサメから目を離さなかったけれど、男が隣で少し驚いたのは分かった。
「……それは、この鮫のことか?」
「そのボケつまんねぇよ。ちなみにコイツはアナスタシアだ。メスだしな」
 男のその切り返しに少し落ち込みながらそう吐き捨てると、彼は「鮫のくせに大層な名を貰ったな」と水槽に手でそっと触れた。
「好きなように呼べば良い」
 なんで、そんな残念そうな顔すんだよ。
 確かに、男は『レン』なんてツラじゃなかった。でもしょうがないんだ。せっかくの綺麗な名前なのに、アタシが言うと上手く発音できなくて魅力が半減する。『レン』なら、少なくとも間抜けな感じにはならない。
「……なに、元カノみたいに『ヤナギ』って呼んでもらいたかったの?」
「生憎、貧乏学生は女に人気が無くてな」
 水槽に触れているレンの手のすぐ近くをサメが通過する。ああ、せめてつがいで入れてやりたかった。
「ねぇレン。一目惚れだって言ったらアンタは軽蔑するのか?」
「しないさ。お前くらいの年頃なら誰だって心当たりがある」
「……レンもしたの?」
 レンが無言のまま立ち上がろうとしたから、思わずすがりついたら足がもつれてレンごと倒れ込んだ。水槽の真横に横たわるアタシたち。アナスタシアがゆっくりとアタシの顔の横を通過した。止まったら死んでしまう彼女は、昼夜問わずずっと進み続けている。
 アタシの下で、レンは黙ってアタシを見上げていた。髪と同じ深い黒の眼が、水槽の光を反射している。薄い唇を、食べてみたいと思った。
 盛りのついた猫と思われてもしょうがない。だって自分でもよく分からないんだ。ただ、行き倒れている彼を見つけた時、どうしようもなく欲しいと思ってしまったから。
「……それは一種の熱病だと言っても、火に油を注ぐだけなのだろうな」
「熱病だって分かってる。でも、アタシの視界に入ったアンタが悪いんだ」
 唇が重なるだけだったキスに、足りない知識でアレンジを加えた。両手でレンの頬を挟んでそっと舌を伸ばすと、レンは僅かに口を開いてくれた。そっと触れたレンの舌は温かった。動かない彼の舌へ、馬鹿みたいに無我夢中で自分の舌を絡めた。レンは口を少し開いたきり微動だにしない。抵抗もしなければノッてもこない。先月のアタシ、今こんな恥ずかしいファーストキスをしているだなんて予想もつかないだろうな。
 完全に自己満足。男のマスターベーションを笑えねぇ。
「くっそ……むなしいなぁ」
「そう思わせているからな」
 分かっただろう、とでも言いたげな視線が怖かった。男の欲は確かに感じるのに、それを上回る冷たい空気がそれ以上近づくことをアタシに許してはくれなかった。
「綺麗な女性と一緒に居て不快になることはない。望むなら、学業の妨げにならない程度で相手はしよう。ただ、その気持ちに応えられることはないとはっきり告げておく」
 レンの上から退き、水槽に背中を預けて床に座り込んだ。レンは体を起こしてアタシの頭を軽くなでた。これが俗にいう子ども扱いかと、虫唾が走った。
「誰だよ……」
「……何がだ」
「デートの最中にアタシと重ねてた、アンタの心を縛り付けるヤツは誰だって聞いてんだ!!」
 切れ長の目が見開かれる。気付いてないとでも思ったのか? 人が楽しくて笑う度に、アタシ以外の誰かを思いやがって。一瞬目が遠くなるんだよ。
 耐えられなくなって、せめて泣き顔は見られたくなくて膝を抱えて顔を埋めた。レンがフロアを移動する足音だけ聞こえる。スニーカーのゴム底がフローリングを蹴る音。
「十三年も横恋慕し続ける愚かな男だ。やめておけ」
 扉が閉まる音の前に聞こえたのは、そんな自嘲交じりの呟きだった。


 生まれ変わったらサメになりたい。そう思ったのは父さんが死んだ時だった。生まれ変わって父さんと一緒にサメになって、逃げようとする母さんに食いついて海底に引きずり込んでやるんだ。当時7歳だったアタシは、父親の通夜を横目にそんな薄暗いことを考えるほどには心を病んでいた。
 何の皮肉か今はこのバーで人魚姫として歌っているが、あの童話は幼いころ父に腐るほど読んでもらった物語だ。人魚姫はアタシが一番感心して、一番憎んだ童話のヒロインだった。他のお姫様たちはとるに足らない腰抜けばかり。自分は不幸だって嘆くばかりで他人任せのシンデレラなんかは愚の骨頂だと思った。けど人魚姫はそうじゃない。アイツは自分の意志で惚れた男に会いにいった根性のある女だ。自分の意志で魔法を掛けられに行ったんだ、アイツには自分の運命を自分で決める度胸があった。
 だからこそ、なんで男を刺さなかったのかだけが納得できなかった。
 サメになりたかった。愛した人に忘れ去られるくらいなら、連れ去って、憎まれるほどにめちゃくちゃにしてしまえばいいんだ。
 大人たちは臆病だから、その選択ができない。


 アクアリウムバー『Mermaid』は、カウンターから見て正面の壁に一番大きな水槽が設置されていて、その目の前にグランドピアノが置いてある。右側の壁と左側の壁にはそれぞれ二段になった細長い水槽が設置されていて、先日まではそのどれもに熱帯魚が泳いでいた。今は右側の下の段を1匹のサメが陣取り、左側の下の段には小さなクラゲが漂っている。サメは思いの外客の評判は良く、ネコザメやイヌザメのような動かないサメはよく見るがこういったサメらしいサメとは迫力が違うと言っていた。
 アナスタシアは今日も泳ぎ続けている。アタシは彼女を横目に、3代目人魚姫としておあつらえ向きのドレスを纏い、歯の浮くような褒め言葉を投げかける。この中に、アタシの歌の良さを理解している人が何人いるんだろう。大きく胸元が開いている、際どい所までスリットが入った青いロングドレス。セクシーで可愛いと思うけどこれを着る必要があるのかとは思ってる。化粧も嫌いだった。収まりの悪い髪は、セットするのに小一時間かかる。
 ちゃんとしたバーだから、正装で歌わなきゃいけないのは分かってる。でも、おめかししてお行儀のいい歌を歌うアタシを、少なくともアナスタシアは馬鹿にしているような気がした。
「相変わらずすごい声量と音域だね、エマ」
 閉店後、店長に言われたとおり着替えず店の隅で待機していると、オーナーに声をかけられた。オーナーは長身でロマンスグレーの素敵なオジサマで、本業は作曲家だ。観賞魚を育てることが昔からの趣味で、老後の楽しみとして5年前にこの店を開いたらしい。芸能界でも顔が広く、この店にお忍びで歌手やアイドルが来ることも珍しくはなかった。まぁ、アタシの地元はチャンネルが3つしか入らなかったから、あまり流行のスターとかもしらないんだけど。
「ありがとうございます、オーナー」
 アナスタシアを見ていたアタシは、立ち上がって出来るだけ礼儀正しく見えるようそう答えた。オーナーはシワの刻まれたまぶたを細めると、振り返って店長に声を掛けた。店長はもう店の閉め作業を終えたはずなのに、なぜかレジ前に待機している。
「田中くん。私はこの後エマと話がある。きみは先に帰りたまえ」
「……ですがオーナー……」
「田中くん」
 オーナーの顔は見えない。店長は叱られた子供のような顔をすると、一瞬だけアタシの方をちらりと見て従業員用の出口から出ていった。残業を嫌う店長らしくない、ゆっくりとした無駄な動きだった。
 扉が閉まり、カギがかかった音を聞き届けてからオーナーは改めてアタシに向き直った。
「東京での暮らしは慣れたかな?」
「はい、おかげさまで。ここでのお仕事もとても楽しくて、アタシずっとここで生きていきたいです!」
「気に入ってもらえて何よりだ。けれど、こんなところで燻っていてもらっては困るよ」
「えっ?」
 オーナーは目を細めて、可笑しそうに笑っていた。
「きみが三代目人魚姫だってことは話したね」
「はい」
「では前の二人はどこへ行ったか考えたことはあるかな?」
「……いいえ」
「陸だよ、エマ」
 オーナーはアタシに背を向けて、メイン水槽の方へ歩いていく。まだ水槽の電気は落されていなかった。
「私の店だ。もちろん、私が才能を感じた子にしかここでは歌わせない。そして才能がある子は、いずれ海から上がって陸の太陽の元で歌わなければならないと私は思う」
「……えっと……」
「エマはプロになる気はあるかな?」
 プロ。
 憧れていなかったわけじゃない。けれど、それを目指すにはアタシの歌への愛は屈折しすぎていた。
「アタシは、今みたいに時々歌って生活できていけたらそれで……」
 アタシは視線を下げてアナスタシアの水槽を見た。急に息苦しさを感じた。泳ぎを止めてしまったサメのように。
「やはり性格まで母親似とはいかないか」
 そして、オーナーの言葉に体を固くした。
「えっ?」
「サラ・オルティース。15年前に私の前に姿を現し、たった半年でいなくなったアメリカ人の女性だよ」
 聞いたこともない名前だった。ただ、思い当たる節はあった。
「生き写しのようだよ。東洋の血が半分入っているとは思えないくらい」
 15年前、母は父と赤ん坊のアタシを残して姿を消した。
「……父はアメリカ人と日本人のハーフなので、正確には4分の1です」
「そうだったのか。しかし、父親似でなくて良かった」
 頭が痛い。
 行き場もなく腐っていたアタシを拾い上げてくれたのは、正真正銘この人だった。アタシに歌う場所をくれた。生きる術をくれた。恩義は数えきれないほど感じている、けれど。
 たぶん、この人は最初から。
「私がきみのお母さんと会った時、彼女はまだ二十歳だった。場所はアメリカ西海岸、ロサンゼルス。名前以外を決して明かさない彼女の目は野心に溢れていた。必ず歌で成功するのだと、そのためなら何でも利用してやると」
「……やめて」
「当時向こうの音楽業界とも関わりがあった私は、あらゆるパーティーに彼女を連れて周った。若く美しい彼女は実力も申し分なく、たちまちあらゆる音楽プロダクションが彼女に注目した」
「やめろよっ」
 耳を塞ぐ。
「誰もが彼女を欲した。歌声はもちろん、その魅惑的な体も」
「やめろよぉおおおおお!!」
「あの女を情婦として手元に置くのは実に気分が晴れやかだったよ。歌い終え、青いロングドレスのスリットに手を伸ばす瞬間はまさに至高と言えた」
 初老の男性とは思えない力の強さでその場に押し倒された。何の皮肉か、あの日アタシがレンを押し倒した場所とまったく同じだ。オーナーはアタシの手を片手で拘束するとドレスのスリットから強引に手を中へと侵入させてきた。
「一人前の歌手にしてやろう。だから大人しくしなさい」
「イヤだっ! そんなのいらないっ、放せっ!」
「情婦の子は所詮情婦だ。利用できるものは利用する、きみも母親のように賢く生きなさい」
「っ、アタシは、あんな女の子供じゃない!!」
 スリット部分が破ける。セットした髪はぐちゃぐちゃになってるのが見なくても分かった。アタシは無我夢中で抵抗した。脳裏には人生をめちゃくちゃにされた父さんの笑顔と、育ての親の怒りに満ちたまなざしが過る。
 渾身の力で体をよじってオーナーを押し返すと、彼はよろけて床に尻餅をついた。
「っざけんな! ヤリたいだけなら風俗行けっ、アタシはあんな女とはなんの関わりもない! 一緒にするな!」
 蹴りの一発でも入れてやりたかったが、もう近づきたくもなかった。高いヒールで危なっかしく走って逃げると、もうすぐドアに届くというところで怒鳴り声が聞こえてきた。
「顔も体つきも歌声も音楽センスも、行動パターンまでもお前は母親にそっくりだ! 何故ならきみは今故郷を捨ててここにいる! それが何よりの証拠だ!」

 呪いの言葉だ。その男は、海から出ていく馬鹿な女に呪いをかけたんだ。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -