むかしむかし、ある海の深い所に
 柳蓮二はすこぶる機嫌が悪かった。
 自身が書いた論文が盗作されたことに彼が気付いたのは、一昨日の真夜中だった。
 彼は国内最高峰の偏差値を誇るT大学の大学院にて、博士号を取得するため文学の研究に勤しんでいる。専攻は近代の日本文学。中学高校時代は夏目漱石に傾倒していた彼だったが、最近はもっぱら芥川と谷崎について論じることが多い。彼は先月も師事する教授から提示されたテーマに沿い、谷崎作品のロマンチシズムについて一万字程度の小論文を提出した。
 一昨日発売の文芸誌に、既視感を覚える構成や内容の文学論が載っていた時、柳はすぐさま大学院の学友に連絡を取った。彼の判定は『灰』。確かに論文の大枠は似ている。しかし所々で論題を微妙に差し替えている点が、追及したところで逃げ道になってしまうだろう、と彼は携帯の受話器越しに神妙な声で告げた。
「教授はお前の才能を恐れるのと同時に買ってもいるんだ。院に残るつもりなら、あの老いぼれが引退するまで出来るだけ目立つな。年齢や地位の話じゃない。あの男の方が取り巻きが多いんだ。こういう話は、声の大きい方が勝つに決まってるんだから」
 文芸誌の執筆者欄に載っている己の教授の名を睨みながら、柳は携帯電話を強く握りしめた。

「俺が怒っているのは盗作という行為よりも、俺の着想を盗んだうえにそれを原本より劣化させてその皮の厚い面に満足げな微笑を浮かべて大衆の目に悠然と晒しているという点だ。優れた他人の着眼点を引用して己の執筆に生かすという行為自体は先人たちが何百年も前から行ってきたことだが、それにはある絶対の条件が二つある。一つは自身の独創性を混ぜ込むこと、もう一つはその『優れた着眼点を見出した他人』よりも絶対に優れた物を書かなければならないということだ。この際その着眼点を皮肉ったものでも構わない。創作の分野で言うならばそれがパロディーというものに当たるのだが昨今のパロディーはただ設定を引用しただけで何の風刺要素も独創性もない愚作が多いな。そうつまりは愚作だ、あの教授はあろうことか俺の論文を利用し素人同然の下手なパロディーを書いたのだ!」
 柳は掴んでいたハイボールのグラスを勢いよくテーブルへ叩き付けた。中身はすでに飲み干されていたので周囲に被害は無かったが、四人掛けテーブルに腰掛けている他の三人はギョッとした面持ちで大荒れの参謀を見つめる。週初と言えど夜8時過ぎの麻布十番の居酒屋では、その程度の衝撃音など周りには聞こえていなかった。
 2013年6月3日。高校を卒業して7年が経過した今でも当時の友人との付き合いがあることを、柳は嬉しく誇らしく思っていた。そんな彼らといる安心感からだろうか、普段沈着冷静を絵に描いたような男が珍しく酒でストレスを解消しようとしていた。酒豪であるはずの柳が頬を赤くしている様に、下戸の旧友幸村精市は開いた口が塞がらない。カクテルやサワーが大好きのお子様味覚丸井ブン太もその迫力に気圧され、眠たそうな目でジンライムをちびちびと飲んでいた仁王雅治も固まっている。
「で、でも厄介だよなー文学って……。パティシエの世界ならアイデア盗まれた時点で即訴訟モノだぜ?」
「文章丸写しとかじゃない限り提訴できても勝つのは難しいんだよね。……でも犯罪には変わりないだろうに。相手にプライドやモラルはないのかな」
「大方、学会にも発表されてない非公式な論文だからと軽んぜられたのだろう。もしかしたら相手は盗作したという自覚すらないかもしれないな。……取り乱してすまなかった」
 もう大丈夫だ、と柳は軽く項垂れた。その横では気を取り直した仁王がタッチパネルでメニューを見ている。画面をなぞるその左手の薬指にはシンプルな銀の指輪が光っていた。
「とりあえず大好きな冷酒でも飲んで落ち着きんしゃい。幸村、つまみの追加要るか?」
「あ、刺身食べたい」
「俺つくねのタレな」
「へいへい」
 仁王はタッチパネルで注文を終えると、自然な流れで懐からライターと煙草を出そうとして思い止まった。ちらりと斜め前を見れば、柳の切れ長の目と視線がかち合う。
「居酒屋で煙草を吸うなと言えるほど、俺は野暮ではないつもりだが?」
 柳は少し大げさに肩を竦めてみせた。
「参謀の嫌煙家ぶりは有名じゃからのう」
「仁王、俺も一本」
「お前さんは禁煙中じゃろ」
「外でくらいいーじゃんか。家では良い父親と旦那やってるんだからご褒美ー」
 仁王が白と青のパッケージの中から煙草を取り出し銜えると、正面の席から伸びてくる白シャツを捲り上げた手。渋々仁王が煙草を差し出すと、幸村はそのジャケットを見据えながら一本抜き取った。
「あれ、お前セブンスターじゃなかったっけ?」
「あの甘ったるさが合わなくなってきてのう、ハイライトに鞍替えじゃ」
「うちの親父が吸ってた所為かもしれないけどさ、なんかハイライトっておっさん臭いよね」
「なんじゃお前さん、もしかして俺たちがまだおっさんじゃないとでも思っとんのか?」
 全員今年で26ぜよ。と言いながら仁王は自分の煙草に銀のジッポーで火をつけ、幸村が銜えた煙草にも火をつけてやる。
「そうじゃん。俺らもうアラサーだよ」
「俺は早生まれだから25になったばかりだけどね」
「天才パティシエ様は二十代の内に人生の墓場へ足突っ込めそうかのう?」
「へへっ、勘弁しろぃ? 最近ようやく名前売れてモテてきたのに」
「うわ、悪い顔」
「この前俺のファンだっていう超絶可愛い女子高生とお知り合いになれちゃってさぁ」
「おいおっさん、未成年はヤバいナリ」
「わーってるよ。でもやっぱ女子高生可愛いわ。あーもうちょっと学生時代に女子堪能しときゃ良かったなー」
「そういや俺この前嫁に立海の女子制服着せて遊んだら思いの外滾った」
「お盛んじゃのう……仁王家のオススメはベビードールじゃ」
「はい黙れこの色ボケ嫁馬鹿どもー。誰もダチの夜の夫婦生活なんか聞きたかねーっつーの」
 こればかりは丸井の意見に同意しつつ、柳は年甲斐もなく騒ぐ友人たちを黙って眺めていた。そのうちに届いた冷酒のロックを片手に、男子会特有の猥談で聞き役に徹する。精市は勤めに出るようになってからますますこの手の話題でハッスルするようになった、などと考えながら、彼は喉の奥で引っかかったわだかまりを冷酒で一気に流し込んだ。
 高校を卒業して7年が経過した。卒業後すぐに働き始めた仁王は社会人歴も長く、丸井も専門卒で20歳を過ぎる頃には自分の稼ぎで暮らし始めた。就職氷河期を戦い抜いた幸村も、散々ゆとりと蔑まれながらも今年新人教育の任に就いたらしい。ここにはいない他の旧友たちも、それぞれの分野で活躍し始めていた。
 本当にこの道で良かったのかと、柳は自問自答することが増えた。4年前の秋、就職活動をしていればT大の威を借りそこそこ名の知れた企業へ就職することなど容易かったはずである。それをしなかったのは、いつか幼馴染と語り合った『自分の専門分野を極められるところまで極めたい』という夢を実現させたかったからだ。その幼馴染、乾貞治は良い師に巡り合えたらしく毎日その教授と研究室に籠っては確実に成果を挙げだしていた。
 時給の低い本屋でアルバイトをしているのは、給料の使い道のほとんどが書籍購入だからである。社員割引制度が無ければ時給850円の本屋などとっくの昔に辞めているだろう。もちろん、この歳になっても親から仕送りを貰わなければやっていけない。外見のイメージよりずっとおっとりしている柳は普段そういったことに危機感は覚えていないが、その日だけは違った。
 明日、柳蓮二は26歳になる。
 その前夜である今日。6月3日は幼馴染である乾の誕生日なのだが、彼は今日、来月号の学術雑誌での初論文掲載が決定したらしい。本日の昼間、最高のプレゼントだと浮ついた表情で語りかけてきた幼馴染に、柳はとうとう自分の盗作騒動のことを告げられなかった。
 焦りは、マイペースで他人にあまり興味が無い柳をも確実に飲みこもうとしていた。
「蓮二ぃー、お前顔赤いぞぉ? 送ってってやろうか」
「結構だ。……仁王、精市を頼むぞ」
「ったく困った神の子ぜよ。いつも送らされる俺の身にもなりんしゃい」
「柳、お前ちょっと足元ふらついてっけど大丈夫か?」
 悪酔いして足元がふらついている幸村を仁王が支え、丸井は全員から集めた金で支払いを済ませたあと一番最後に店から出てきた。午後11時過ぎの繁華街はネオンで夜を照らし出し、いかがわしげな店の前でボーイが道行くサラリーマンを呼び止めている。柳は自分の状態を把握し少し思案した後に、丸井へ大丈夫だと告げた。
「おーい幸村ー。お前さん明日仕事じゃろー?」
「いやだ仕事行きたくない、ガチゆとりの面倒なんかみたくないよぉおおお」
「いい歳して泣きなさんなゆとり元年生まれ! ったくめんどくさいのう……」
 サラリーマンになってからますます絡み酒になった……と愚痴をこぼしてから、仁王は自分で立とうとしない幸村の身体を支え直した。
「じゃ、俺たちはこっちやから」
「おう、気を付けてなー」
「夫人によろしく頼む」
「へいへい」
 夫人とは幸村夫人を指す。生後半年の乳児を抱え夫の帰りを待っているであろうあの良妻に、柳は心中で軽く詫びた。すると、背を向けていたはずの仁王がなぜか不意に振り返る。急な方向転換に幸村の首がガクリと揺れた。
「そうじゃ参謀」
「なんだ」
 男の最大の特徴とも言える、生まれつきの銀髪が夜風に靡く。学生時代、詐欺師と言う異名を欲しいがままにしていた男は、相変わらず人を食ったような笑みを浮かべていた。
「誕生日、おめっとさん」
「……覚えていたのか」
「ペテンの基本は、相手のプロフィールの丸暗記からだからのう」
 隣では、柳の誕生日が今日だったことについて丸井が驚いている。柳は仁王とその隣の幸村を見据えながら、誕生日と言うイベントが持つ意味を考えていた。
 女性同士は友人の誕生日をよく祝うと聞く。しかし男性同士が互いの誕生日を祝うというのは大変稀な行為であり、あったとしてもただ飲みたいだけの口実として使われることがほとんどだった。
 ただし、柳は一人だけ例外を知っている。
 今仁王に支えられているみっともない男は、かつて二度も命の危機に直面した。それでもなお懸命に生きながらえようと戦った男に、仲間として叱咤激励し友情を誓った日。幸村精市の誕生日である3月5日はもはや一種の記号と化していた。自分たちにとって、自分の誕生日よりも意味のある『約束の日』。
 この歳になると親くらいしか誕生日を覚えていない。取り立てて特別な日ではないから、焦りを感じる必要もない。そう言い聞かせていたはずの柳の平常心は、仁王の一言によって崩れかけていた。


 仁王たちや丸井と別れ、繁華街を歩く。むかつきを覚える胃を宥めるために静かな場所へ行こうと、喧騒から離れた方向へ向かったのが間違いだった。気が付いた時、柳は自分がどこにいるのか分からなくなっていた。あたりは雑居ビルが立ち並び、所々に人が住んでいるであろうアパートも見られる。数十メートルおきに設置されている街灯と民家から零れる光以外、目立つ光源を発見できなかった。
 動いたことでさらにアルコールが回ったのか、とうとう視界が揺らいでくる。柳は咄嗟にその場へ座り込み、自分の体調が良くなるのをひたすら待った。片膝を付き、頭部の右側面を電柱へ預けて目を閉じる。
『私、柳から本の解説聞くの好きだなぁ。分かりやすくて面白くて、私みたいな馬鹿でもその作品を何倍も楽しめたような気分になれるの』
 記憶の端に引っかかった、幼い声が脳内に木霊した。もう10年も前に封印したはずの恋心を、いまだに持て余している自分を嘲笑う。あれだけ思いを寄せていた女がどんな顔をしていたか、もうおぼろげにしか思い出せない。


 霞んだ視界に、青白く透明感のある光が飛び込んでくる。よく見えないのにもかかわらず、それが幻想的に思えたのはひとえに柳の鼓膜を揺らす音の所為だろう。
 軽やかな英語はピアノの伴奏と寄り添い、高く高く伸びていた。柳は女性独特の甲高い声を苦手としていたが、その歌声の高音にはいつまでも聴いていたい心地よさを抱く。
 体は確実に二日酔いに蝕まれていたが、これ以上なく和やかな心地だった。寝かされている革張りのソファーに身を預けたまま、薄目を開けて音の正体を探る。
 正面には、壁の4分の3ほどを占める大きな水槽があった。その中を泳ぎまわる色とりどりの魚と、極彩色のサンゴ礁。
 そして、それらをバックに音を奏でるグランドピアノ。
 ピアノを弾きながら穏やかな歌う少女は、目を瞑り大きな口を開け、華奢な象牙色の体を左右へゆっくり動かしていた。波打つ豊かな金髪が、その動きに合わせて揺蕩う。


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