水の牢獄
 唐突だが昔話をさせてほしい。私は5歳の時に一度死にかけたことがある。両親と共に訪れた初めての川遊び、通っていたスイミングスクールのプールとは全く別物の水流に私は驚嘆し、そして心のどこかで恐れた。準備体操もしたし、危ないことも特別してはいない。水面は当時の私の身長で腰あたりまでしかなかった。
 なのに、私はあの時溺れた。
 どうしてなのかは分からない。ただひたすら苦しくて、冷たくて怖くて。気が付いた時にはお父さんが引き上げてくれたのだけど、私は助かった後も体の震えが止まらなかった。あの緩やかな水の流れは私の命を奪おうとしたのだ。息ができないことの恐怖。思い出すだけでも心臓が物凄い音を立てて冷や汗がどっと流れ出す。
 それ以来泳ぐことができなくなった、と私がカナヅチであることの言い訳をしたとしても、一体どれだけの人が私を責められるだろうか?

 水が嫌いで、泳げなくて、それでも懸命に水泳の授業には出席していたのにも関わらず単位はやはり例年通り落第ギリギリアウト。それでも一応努力はしていた私を見かねてか、先生は私にレポートとプールの清掃をすることで単位をあげてもいいと言ってきた。とか言っておきながら補講が面倒くさいだけなんだ。これも例年通り。
 いつもながら体育教師独特のその上から目線が気に入らなかったが、補講が面倒くさいのは私も同じだ。9月になってプールの授業が完全になくなった頃、私は先生にプールサイドへ呼び出された。プール閉じのための最後の掃除をさせられるためだ。
 そこには私の他にもう一人、たしか同じクラスの幸村くんがいた。たしか、という不確定な言葉を使うのは、彼がこの二学期になってやっとクラスに現れたからである。
「幸村くんは、入院してたからなんだよね」
「うん。夏休み中の補講にも部活の試合があったから出られなくてね」
 幸村くんは温厚でとても優しそうな喋り方をする男の子だ。部活をしている姿をそう何度も見たわけではなかったが、確かもう少し凛とした空気を纏っていたと思う。少しだけ怖くて厳格そうなイメージを持っていたテニス部の部長さんは、クラスメイトとしてはとても接しやすい穏やかな少年だった。だから、私はデッキブラシでプールサイドの床を擦りながら彼に話しかけることができた。
「じゃあ、幸村くんもレポートと掃除組かぁ」
「苗字さんは?補講サボったの?」
「ううん。私は授業もちゃんと出たんだけど、さ」
 私がカナヅチであることは3年C組のほとんどの生徒が知っている。それだけ私は人の注目を集めるほど泳げなかった。ビート板を持って泳げる程度なら可愛いものだ。まず息継ぎの仕方がわからない。
 袖触れ合うも多生の縁。これもなにかの巡り合わせだろうと思って私は掃除の手を少し緩めながら、彼に自分がカナヅチたる所以を話した。9月下旬の少しだけ肌寒い夕暮れの風が私たちの間を通り抜けてプールの水面へわずかに波紋を広げる。すっかり日は暮れかけていて、トンボが2、3匹プールサイドへ迷い込んできていた。
 幸村くんも少しだけ掃除の手を緩めながら、私の話を聞いていた。捲りあげられたズボンの裾からスラリとしたふくらはぎがむき出しになっていて、彼の素足は白かった。
「まぁ、そんな感じで私全然泳げなくって」
「そうなんだ。トラウマって、なかなか払拭できないよね」
「うん。だからまぁ、一生泳げなくても別にいいかなって」
 高校からは体育で水泳は選択制になる。小中合わせて9年間続いたこのプール苦からも今年で解放かと思えば、デッキブラシも少しは軽く感じられた。

 毎年この仕事をひとりでやっていたせいか、ふたりで行ったプール掃除はかなり早く終わったように思えた。道具も所定の位置に戻し、さて終了の報告を先生へしに行こうかとしていたその時だった。
「苗字さん」
 最後に全体を軽く流す時に使ったホースを片付けていた幸村くんが、私に背を向けたまま声を掛けてきた。
「なに?」
 クラスの女の子の中でも幸村くんのことが気になると言っている子は何人も知っている。私はあくまで恋愛の域には達しないものだったが、それでもこの短時間で十分幸村くんのことを『憧れの人』と言えるくらいには、彼に魅了されていた。立っているだけ、ホースを持って水を撒いているだけ、デッキブラシを持って掃除している様ですら絵になるのはどうしてだろう。
 形にすらなっていない淡い思いを胸に、少しだけ甘い声で返事をした。その時だった。

 勢いよく振り向いた幸村くんが、どこか怪しげな、それでいてひどく楽しげな笑みを浮かべてホースを構えていたことだけは目視できた。次の瞬間、顔面を襲ったのは凄まじい水圧。懸命に腕で顔を庇おうとするがまるで意味を成さなくて、無意識のうちに後ろへ後退していっていたのが更なる不幸の原因だった。
 プールサイドのコンクリートブロックに躓く。勢いよく後頭部から後ろへ倒れた私を包み込んだのは、私にとって畏怖の対象でしかない液体だった。

「がはっ!ぐっ、あ!!」
 動かした。懸命に手足を動かして水面に顔を浮かせようとした。けれど口と鼻からは水ばかりが入ってきて、衣服が重く体へと張り付いてくる。私を水底へ縫い付けようと負荷を増していく。見開いた目には、自分の髪と思われる黒い物体がふよふよと水中を漂っている様が映った。
 ああ、そうか。ここで死ぬのか。
 人に殺される瞬間って、こんな気持ちなのか。
 体はまだ懸命に生へとしがみ付こうともがいているのに、脳は大量に飲んでしまった塩素でイカれてしまったらしい。伸ばした手は、何も掴めなかっ

「ごめんね苗字さん。ちょっとからかい過ぎちゃったかな」
 た?
「ごほっ、ごほっ!ぜぇ……」
「ああ、水飲んじゃった?ほら、ちゃんと吐き出して」
 背中を等間隔で強く叩かれる。私の口や鼻からはダボダボと唾液とも鼻水ともプールの水とも分からない液体が流れ落ち、きっとその無様な姿は幸村くんに一部始終目撃されていたのだろう。
「なっ、」
「な?」
「なんてことするの!!死ぬところだったんだよ!?」
 呼吸が整うのなんて待てなかった。私を抱きかかえた幸村くんへ半分掴みかかる様な形で問い詰めると、彼は最初一瞬だけ純粋無垢な惚け顔をしたのち、徐々にその美貌を怪しく妖艶な微笑へと染め上げていった。普段はウェーブがかった髪が水にぬれて顔や首筋にペッタリと張り付いていることが、その危うげな色気をさらに助長させている。
 そして彼は。
「人がね、溺れているところを見てみたかったんだ」
「っ!?」
 我が耳を疑う、正気の沙汰とは思えないことを言ってのけた。そして私を抱きかかえたまま、彼は私の首筋にその右手を這わせる。
「でもほら、今時生粋のカナヅチってなかなかいないだろう?みんな大体スイミングスクールとか幼稚園とかで泳ぎ方を覚えてしまっている」
「ゆき、むらくっ」
「感動をありがとう苗字さん。泳げない人間って水中だとあんなに滑稽で可愛らしいんだね」
「!!」
 自分でも頬に赤みがさすのが分かった。明らかに馬鹿にされていると感じたからだ。もう我慢ができなかった。今まで幸村くんに掴みかかっていた右手を放して思いきり彼の頬めがけて振りかざした。
 けれどそれよりも一瞬早く、彼は私を水中で勢いよく突き放す。
「あっ!」

 水の中にひとりで放り出される恐怖に、私はたった一瞬で負けた。
 振りかざした右手で咄嗟に彼の濡れた制服を掴んでしまった時、彼が勝ち誇ったような笑みを浮かべたのが分かった。

「可愛いね、苗字さん。今この場では、キミは俺がいなきゃ何もすることができず死を受け入れるしかないんだよね」
「っ」
「怖い?もっとしがみ付いてきていいよ。……そう、両手で俺に抱き付いて。俺を逃がさないように強く抱きしめなきゃ。ね?」
 全身の震えが止まらなかった。奥歯が噛み合わなくて、不気味で不快なガチガチという音を生み出す。いつこの腕が振り払われるかと考えたら、この憎い男を力いっぱい抱きしめる他に恐怖から逃れる手立てはなかった。男にしては高い声が耳元でふふふっとそよ風のように笑う。
「ねぇ、苗字さん。誰かが俺無しでは生きられなくなったら、少しは今の俺にも価値が生まれるのかな」

 その後、偶然幸村くんを迎えに来た真田くんたちが私と彼を引き上げるまで、私は彼を抱きしめ続けていた。幸村くんは冷たくて、固くて、そして彼の背中には空けたシャツ越しにでも十分見えるくらい、大きな手術痕が残っていた。


(なしろ様へ・十万打記念に献上いたします)


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