恋と
 窓から吹き込んだ風に、セミロングの黒髪がさらさらと靡く。シャンプーの僅かな芳香が俺の鼻腔まで届き、その香りが俺の匂いとも母や妹の匂いとも違うことに、甘い胸の高鳴りを覚えた。
 思わず手を伸ばせば、指先に芯のある艶やかな手触りを感じた。彼女は驚いて振り返り、そしてほんの少しだけ口元に弧を描く。力をフッと抜いたような微笑みだ。薄く色づく唇へ、衝動的に吸い付く。舌を伸ばして裂け目に割り込めば、彼女は控えめに口を開けて俺の来訪を歓迎した。
 二人で座っていたベッドへと彼女を押し倒す。小さな顔を挟み込むように両手を付き、どこか甘さを錯覚する温い咥内を蹂躙した。俺の唾液を嚥下してわずかに鼻で息をする彼女。その息苦しさを察して少しだけ離れたら、至近距離で潤み熱を帯びた瞳が俺を見上げていた。額にキスを落しながら胸をまさぐる。俺の掌にちょうど収まる、柔らかく美しいふくらみだった。ああ、本当に。この子をどうしてしまおうか……。

 という夢を見た。診察日の朝のことだ。
「先生。そろそろ激しい運動の許可してくれないと、俺死にそうなんですけれども」
「女みたいな顔してながらキリッとそういうこと言うな青二才。いや、潔さは認めるけれども」
「先生。俺20歳なんですよ。先生は20歳のころって何やってましたか」
「あー、ナニしかしてないわゴメン」
「でしょう?しかも俺3か月前に可愛い彼女ができたばかりなんですよ。……なのにまだチューしかしてないんですよ」
「咥えてもらったり上に乗ってもらえばいいじゃない」
「何もかもすっ飛ばしていきなりそんなこと頼めるかっ!?」
 アンタは他人事かもしれないけどなぁ、冗談ではなくホントに命を懸けて落した才色兼備を地で行くマジでダイヤモンド級のいい女、略してマダオだぞ!? そりゃあ、ちょっとはあの白い手でーとか考えたけど。しかも俺の可愛い彼女は信じられないくらい俺にマジ惚れだから、たぶん頼んだらやってくるれると思うけど。そこはほら、年上の余裕ってものを見せなきゃいけないと思ったんだよね。
 とか、そんなことを考えていたら、それが言葉になって漏れていたみたい。ナースさんたちがドン引きしていた。ごめんなさい夢を壊して。でも美青年にも性欲ってあるんだよ。
「まぁ、なんだ。冗談はさておき」
「いや、割と本気で死にそうです先生」
「分かったって。もう動いていいぞー」
 40過ぎの良く言えばダンディー悪く言えば犯罪者顔の主治医が、ボーっとそんなことを告げる。俺が生死の境を彷徨ったのは今からおよそ4カ月前の話だ。
 い、いやいやいや。さすがにそんな早くは回復しないでしょう? だってホントに痛かったし。個人的に刺された瞬間よりも抜糸が地味にきつかった。痛みで寝られない夜は、楓が朝までチャットやメールに付き合ってくれたっけ。
「そんな、いくら俺でもそんな早くは……」
「キミ昔未知の難病からも奇跡の復活遂げたんだってなぁ。全く不思議な体してやがるよ。金に困ったらアメリカの大学病院で実験体になれ? たぶん一生遊んで暮らせるくらいの金額は稼げるぞー」
 えっ、いや、あの。そう言うことではなく。
「だから、もう好きなだけテニスだろうがプロレスごっこだろうが楽しめ青二才。完治だ。でもまぁ、激しい運動した後に腹が痛むようだったらまた来い」

 かくして、俺は4カ月に及ぶ禁欲を終えたわけだが。

「ゆっ、きむら、さん……」
 関東地方は先日梅雨入りした。診察を終え、しとしとと雨が降る中バスを乗り継いで大学に向かうと、教室では愛しい歳下の彼女がわずかに顔を赤らめて待ち構えていた。完治の知らせはすでにメールで知らせている。少し離れたところから、楓のサークルの友達がニヤニヤしながらこちらを見守っていた。
「あの、ですね……」
「ねぇ、楓。俺から言ってもいい?」
 実は俺たち、いまだにデートというものをしたことがない。俺も学生生活とリハビリの両立で忙しかったし、楓は楓でどこか遠慮している雰囲気だった。だからつまり。
「今度の土曜、どこか遊びに行かない?」
 初デート、だっ!
「わ、私っ! 今友達から、アミューズメントパークの割引券を貰って……!!」
 もう楓は顔を真っ赤にしていた。付き合い始めて3か月、だいぶ喜怒哀楽がはっきりとしてきたと思う。
「あみゅーずめんとぱーく?」
「テニスやダーツやバスケットボール、やり放題の。3時間コースが半額になるんです。……幸村さん、体鈍ってるんじゃないかと。もちろん遊びですし、私なんかが相手ですから練習にもならないと思いますが……」
 白くて細い手が握りしめているのは、確かに最近横浜に出来た大型アミューズメントパークの割引券2枚だった。確かに楽しそうだ。元々体を動かすのは好きだし、何より。
 女の子って、軽い疲労感が溜まっている方が感じやすくなるんだってさ。ソースは我らが耳年増参謀殿だ。
「楓がそれでいいなら、俺は構わないよ。……でも意外。楓ってインドア派かと」
 煩悩に支配されて心身ともにサル化してしまう前にと、楓へ話題を振った。白い肌と高貴そうな雰囲気が原因だろうか。どこか深窓の令嬢の様な雰囲気が漂っている彼女。てっきり映画とか言い出すかなぁと思っていたんだけど。
「……映画とかも考えたんですが、初デートで九十分も幸村さんの声が聞けないのは、惜しいなと思いまして」
「っ!」
 幸村精市、20歳。そろそろ限界が近い。

 それからの俺は自分で言うのも難だが本当に酷かった。楓の隣にいると否が応でも楓の首筋や胸元、腰のあたりに視線が向かってしまう。しかもヤバいのは、テニサー後輩の日吉に「幸村さん、人前で女を視姦するのはやめてください」と言われるまで、自分がそんないやらしい目線で楓を見ていたことに気付いてなかったってところだ。
 おかしいなぁ。確かにお世辞にも淡泊とは言い難いし、女の子のカラダにもそれなりに興味はあるのだけど。でも公の場で悶々とすることはあまり無かったはず。少なくとも高校を卒業した後は。
「ご、ゴメン! 待った?」
「いえ、今来たところですから」
 そして日曜日。午後2時半に最寄駅で待ち合わせしたはずなのだけれど、なぜか楓は2時15分に改札前でスタンバっていた。この子を待たせまいと早めに来たのだけど、見事裏をかかれてしまったようだ。慌てて駆け寄ると、楓はふわりと優しく微笑んだ。
 彼女は黒いタンクトップの上に襟ぐりが広がっている大きなロゴ入りの白いTシャツを着て、デニムのショートパンツを履いていた。そしてポニーテールというサービス付き。個人的にはもう少し可愛らしい格好の楓が見てみたかったけれど、デートの場所が場所なのでそれは次回のお楽しみに。なにより、むき出しの長い足とうなじが眩しかったのですべてチャラだ。
「えっと。じゃあ、行こっか……」
「はい……」
「……」
 楓の手を引いてホームへと向かう。無意識のうちに彼女の足やうなじへと視線が行ってしまう。その度に自己嫌悪。うああああっ! 俺のバカっ、どんだけヤることしか頭にないんだお前は! 脳を下半身に支配されるなんて、そんな中学生みたいな事態に陥ってるなよ大学生!! と、とうとう内心で絶叫してしまったのは、横浜行きの電車の中でのこと。そこそこ混雑している車内で、楓は頬を赤らめながら俺の腕に縋りついていた。
 何というか。愛おしすぎて、彼女が触れた場所から溶け出してしまいそう。

「楓はテニスの経験ある?」
「中学高校の体育の授業で齧った程度です」
 さっきまで思春期乙メンモード全開でお送りしていた幸村精市ですが、やっぱりラケットを握るとそれなりに気持ちが引き締まるのは職業病なんだろうか。受付を済ませ、室内コートに足を踏み入れると途端に煩悩が半分そぎ落とされた。棚に立てかけられているラケットの中から手頃なものを探し出し、ボールをラケットと地面の間で何度か弾ませてみる。楓はフレームがピンク色のものを選んでいた。そういうチョイスがまたクールな外見とミスマッチで可愛らしい。
「でもルールなどの基本知識は幸村さんのストーカーをしていた時代に必死に覚えましたので大丈夫です。知識量的にはテニス部の新入部員程度だと思っていただければ」
「ストーカーって……」
 俺この子にストーカーされてたのか。ホントなんでこんな素敵な子が俺にここまで入れ込んでくれたのか、いまだによく理解できない。
「じゃあ、慣れるまで適当にラリーしてみようか。楓からサーブでいいよ」
「っ、はい」
 楓がギュッとボールを握りしめる。互いにネット越しに向かい合い、楓はそのまま後ろ向きに下がる。そのままベースライン上まで下がろうとするので、慌てて止めた。
「あ、楓。たぶんいきなりそこからは届かないから、もっと前でいいよ?」
「えっ?」
「無理に力いっぱい打とうとすると肩痛めちゃうし、遊びなんだからアンダーサーブでも……」
「……」
 少し顔を赤らめて、サービスラインくらいまで距離を詰める楓。そのまま弱々しくアンダーサーブで打った球は、ふわりと俺の方へと正確に飛んできた。
「上手い上手い! 楓、テニス上手だよ。テニサー入らない?」
「いえ、そんな……私なんて全然」
 軽く打ち返してやると、なかなか良いフォームでまた俺の方へ正確に打ち返してくる。今度は少し意地悪してバックハンドの方へ返球してやれば、しっかり打点の位置を見極めてそこに追いついている。
「これはどーだっ」
「!」
 我ながら意地が悪い。徐々に前の方へ詰めてきていた楓をからかうように、わざとロブを上げてみる。けれど、
「テニスコートって、けっこう広いですね!」
「っ!?」
 まさかあっちもロブで返してくるとは予測していなくて、慌てて下がって拾う。けれど咄嗟に処理した打球は、絶好のサービスショットとして相手のコートへと上がってしまった。これが公式戦だったなら、とヒヤリとしたものが首筋を伝う。楓は打球が落ちてくる真下で、綺麗なスマッシュのフォームのまま静止していた。
 そして、静止したまま、球を見過ごした。
「楓?」
「……」
 楓は先ほどまでのふわふわキラキラした恋する女の子の表情を一切消し去り、代わりにこれでもかというほど顔を顰めていた。そしてその鬼のような双眸は一点を見据えている。
 心優しいこの子がこれほどまで敵対心を抱く相手を、俺は一人だけ知っている。

「あれ? 幸村と楓ちゃん?」
「えええっ!? 二人とも、なんでここにいるのっ!?」
 なんでここにいるんだよ公害バカップル。


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