抗えなかった道化について
 初めて見た時、天使みたいな子だと思った。軽やかに踊る良い足と、感情表現の豊かな良い手を持っている。どんな難しい技巧も彼女の前ではその難易度の意味を成さない。バレエを志す者で、彼女に惹かれない、そして妬まない人間がいるはずないだろう。それほどまでの天賦の才を持った、元気で可愛らしい女の子だった。
 僕と千代田渚が出会ったのは、僕が6歳、彼女が4歳の時だ。
『見なさい。彼女があの都築舞の娘、千代田渚よ』
 現役時代の母の宿敵であった都築舞の娘に、彼女はえらくご執心だった。とにかく発表会では僕と渚を組ませ、仲を親密にさせようとする。幼い僕にはそれが何を意味するのか分からなかったが、たぶん。
 母は宿敵であった都築の血と才能を、自分の家に取り込みたかったのだろう。前時代的でナンセンスな理由だ。もちろん金銭的な理由もあっただろうが。

『どうして貴方の足はそんなに愚鈍なの!そんなことでは次期団長なんて務まりませんよ!』
 僕が渚に抱いていた淡い想いは、たぶん初恋だったんだと思う。けれどそれに亀裂が入るのに多くの時間は必要なかった。
『渚さんはもう次のステップに上っているのよ!?貴方がそんなことでどうするの!』
 渚がこの家の子だったら、母さんは満足だったのかな。
 幼い頃はそんなことばかり考えていた。渚はバレエが上手い者にとっては等しく脅威だったのだ。下手な者にはただ『次元が違う』と言われ敬遠されただけだが、普通ならば『天才だ』と褒められるべき存在にとっては邪魔でしかない。アイツさえいなければ。そう思っていた子はうちのバレエ団のジュニアの部だけでも何人もいた。男子だった僕でさえそんな気持ちを抱いていたんだ、女子の間で渦巻いていた感情なんて考えただけでもおぞましい。
 渚だけ気付いていない。いや、気にしていなかった。二番手で甘んじるあの幼馴染の子が隣にいさえすればいいと、相変わらずマイペースに踊り続けていた。

『渚さんが、足を怪我して踊れなくなったそうです』

 だから、僕は渚が踊れなくなったと聞いたとき、これは神様が僕たちの味方をしてくれたんだと思った。
 天才と謳われた少女が突然バレエ界を去った。これで僕たちは正当な評価を受けられる。やっと日の光が当たるんだ。今まで渚が独り占めしていた恩恵を、やっとみんなで分け合える日が来た。
 渚渚と母さんにうるさく言うことはなくなるんだと安堵した。
『今、千代田家との縁を切るわけにはいきません。貴方はモスクワに留学して、何としても渚さんの妹である楓さんに近づきなさい』
 母がこだわっていたのは渚なんかじゃないって気付いたのは、高校3年への進級を控えた春のことだ。あの時の彼女の顔は今でも忘れない。母は千代田舞、いいや、バレリーナ都築舞に捉われていた。結果的に母は有名バレエ団の団長の妻の座を射止め、その旦那が持病で急死してからは自ら団長になった。それに対して都築舞は金銭的な都合で引退を余儀なくされている。母はバレエの世界で言うポジション争いには勝っているハズなのに、いつまでもその亡霊と戦い続けていた。
 コンクールで何度か訪れたことはあったが、やはり海外は落ち着かない。日常会話は必要に迫られればすぐに覚えると聞くが、それでもしばらくは戸惑うことばかりだった。そんな日々で見つけたターゲット。
 千代田楓は、一般的な女性としてはとても魅力的な体型だと思う。日本人女性にしては高い背、適度に長い手足、足は細すぎず柔らかそうな肉が付いていて、胸部や臀部は優しい形に膨らみを持ち、腰は不自然じゃない程度にくびれている。しかしその体型はバレリーナとしてはやや太り気味だった。自分の体重を支えられないのだろう、トゥシューズに動きを奪われている印象を受けた。彼女には確かに表現者としての才能があったが、あんな靴を履いているせいでその魅力が半減しているような気がしたのだ。
 渚に美人な妹がいるとは聞いていたが、練習する場所が違ったのでほとんど視界に入れたことがなかった。彼女は案の定『その程度の実力でなぜここにいる』とばかりにイジメられていて。母の立場からすれば絶好のチャンス。目的を達成するためには僕はすぐにでも近づくべきだったのだが。
 しばらくの間、楓ちゃんを観察する日々が続いた。これで彼女がバレエを辞めるなら、僕もさっさと日本へ帰ろう。いや、帰りたかったから傍観していたんだ。こんな小娘のために異国の地で奮闘する自分がバカバカしかったから。

 でも、彼女は踊り続けた。
 どれだけ周りに馬鹿にされようと、けしてその窮屈なトゥシューズを脱がなかったんだ。

『随分、嫌々踊ってるんだね。楓ちゃん』
 気が付いたら声を掛けていた。彼女と話がしたいと思ったのだ。最初は警戒心を全身に纏わせてぶっきらぼうな返事しか返さなかった彼女だが、過ごした時間に比例して確実に心を開いてくれた。僕自身も、愛想笑いが本当の笑顔になっていくことを感じていた。彼女は聡明で、物知りで、慎み深く、話していてとても気分がよくなる相手だった。
 そして、彼女が踊り続ける理由を聞いたとき。
 この子は僕だと、そう思った。僕によく似てる、僕より弱い女の子。
 愛おしくて、かわいそうで、守ってあげたいと願ったんだ。


「んっ」
 目を覚ますと、まず一番に飛び込んできた白い光がただひたすら眩しかった。視界が段々とはっきりし、そこが部屋であること、天井が白いこと、光は人工的な照明の明かりだったこと、窓が大きいこと、今が夜であること、そしてここが病室だということが分かってきた。
 自分がいる場所の状況把握ができてからしばらくした後のこと。何故自分がこんなところにいるのか、そして下半身の感覚がないのかについて考えていた。その時だ。
「意外だったよ」
 いつも腹が立つほど無邪気で子供っぽい声は、別人かと思うほど無機質で冷たかった。
「自殺なんて、さ」
 少しだけ首を右へ傾けると、渚の姿が確認できた。彼女は何も告げずにじっとこちらの様子を伺っている。
 そうか、僕は、
「死ねなかったのか」
「っ」
 渚が声を詰まらせる。思い出した、そうだ僕は幸村精市の病室から。

「いいや、兄ちゃんは死んだよ」
 死ぬ気だった。楓ちゃんの手で、狂ったすべてを終わらせてほしかったんだ。それが叶わなかったから僕は飛び降りた。死に場所なんてどこでも良かったんだ。ただ、死ぬ前に僕の最愛の女性が魅了された男を見ておきたかった。それだけだ。
「バレエダンサーの兄ちゃんは死んだ」
「っ」
 そんなもの、最初から生きてなんていなかったよ、渚。
「下半身不随だって。団長はショックで寝込んだよ、元々心臓が悪かったんだってね?」
 新宿バレエ・シアターの伝統である世襲制は、たぶんこの代で終わる。
 渚の突き放すような冷静な声がそれを告げる。

 そうか、
 終わるのか、やっと。

「もう、踊らなくていいんだっ」
 右手の甲を目元に押し当てる。この世で一番憧れて憎んだ女に無様な泣き顔を晒したくなかった。渚は俺の涙に臆することなく、相変わらず冷静な空気を醸し出していた。らしくない。
「兄ちゃんがずっとバレエを辞めたがっていたのは、なんとなく気付いてた。バレリーナとしての勘だけど」
 渚の声はいつも何らかの感情を帯びているのに、その時ばかりは彼女が何を考えているのかよく分からなかった。それでも、いつものあの天真爛漫を絵に描いたような態度よりは、ずっと好感が持てた。
「でも理由がいまだに分からない。ただ純粋にバレエをしたくなかったの?母親への反抗?次期団長の重圧に耐えられなくて?それとも、楓のため?」
 いつになく冴えて大人びている渚へのご褒美代わりに、僕は珍しく素直に答えた。
「全部だよ」

 もうずっと、舞台から降りたかった。
 母へ啖呵を切って、地位も名誉も全部捨てて、大好きな女性のために自分のダンサーとしての人生に幕を下ろす。絶対にできないであろう、でもいつかはしてみたい妄想。それを糧に僕はどんな過酷な練習もこなしてきた。いつか解放されるその日を夢見て。
「それをさぁ、キミが全部いとも簡単にやってのけるんだもんな」
「っ」
「しかも僕よりうんと才能があるし、バレエも好きだった。辞める気なんてさらさらなかった子が妹のためにって、かっこよすぎるでしょ。だから無性に腹が立った。キミの汚い姿を見てみたかったんだ」
 渚は何を言うわけでもなく、僕の言葉にただ耳を傾けている。
「みんな、バレエが好きだという気持ちだけじゃ踊れないんだよ。それなのにいつまでたってもキミはジュニア気分で」
 僕はさらに力強く手の甲を目元に押し付けた。
「腹が立つ。鬱陶しい。視界に入るだけで胸やけがした。どうして僕たちだけが苦しい思いをしなきゃいけない!?」
「っ」
「どうしてキミはっ、何の苦労も知らずに踊っていられたんだよっ!!」


「私、千代田家を出るから」
 今まで何の温度も感じなかった渚の声に、少しだけ温もりが混じったような気がした。俺は思わず手を退けて彼女の顔を見てしまう。
 何もかもを諦めたような、それでいて希望に満ちている妙な表情だった。
「妹の幸せは見届けた。後はそれをもう奪ってしまわないように私が消えれば完璧」
「は?」
「兄ちゃんが実現させたかった世界がもうすぐ完成するって言ってんの」
 だけど、その眼はどこか苦しげだ。
「過去に奪ってしまったものはどう足掻いても返せないし、私はバレエを捨てられない。だったら私がもう二度とあの家には近づかない以外に、選択肢はなかった。兄ちゃんすごいね、最初から全部分かってたんだ」
「渚、っ?」
「あの家はもう、千代田渚とバレエには関わらない方がいい」
 兄ちゃんも、そう思うから今回の事件起こしたんでしょ?
 可笑しな気分だった。それは確かに僕自身の望みで、今までそれを宿願として行動してきた。けれどそれが叶おうとしている今、僕の内心はとても穏やかとは言えなかった。
「兄ちゃん。私が兄ちゃんの分まで、ちゃんと踊るからね。どれだけ苦しくても、どれだけ孤独でも、踊り続けるから」
「渚」
「兄ちゃんには謝らないよ。っ、でも、一生私のこと、恨んでくれて構わない、から」
 渚が僕の手を握った。
 一緒に踊った数々のパ・ド・ドゥの記憶が走馬灯のように蘇る。くるみ割り人形、白鳥の湖、ジゼル、眠りの森の美女、コッペリア、椿姫、そしてロミオとジュリエット。まだ、全部踊れる。この体が覚えている。
 このまま渚を行かせてはいけない、このままでは渚がもうあの人々を魅了する踊りをできなくなる。バレエを嫌い続けた僕にも不思議と備わってしまったダンサーとしての勘が、痛いほど警鐘を鳴らしていた。けれど彼女は僕の手を放して病室から去ろうとする。今にも消えてなくなりそうな背中に手を伸ばしても届かない。思わず叫び出しそうになった、
 その時だった。

「被害者意識が強くて悲劇のヒロインぶりたいだけ。自己犠牲でしか自分の価値を見いだせないのはいったい誰なんだろうね、姉さん」

 静かに開かれた扉。仁王立ちして渚を睨みつけていた彼女の双眸に、もう姉への怯えも嫉妬も劣等感も存在などしていなかった。
 かわいそうで悲しい女の子は、もうどこにもいなかった。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -