神への期待は冒涜なのか
「と、いうことなんです」
 四限後、ずっと踏み入れまいと思っていたテニスコートに足を運んだ。もちろん、幸村さんがいないことは入念にチェックした後にである。日吉くんはすぐに見つかった。黒いウェアに着替え、コートの隅で体操をしている。フェンスの外側から近寄り、彼に声をかけた。周りの学生たちは最初怪訝そうに私の様子を伺っていたが、日吉くんの知り合いだと分かった途端に自分たちの練習に戻っていく。
 フェンス越しにあらかたの事情を説明し、私は彼にロミオ役を引き受けてくれないかと申し出た。日吉くん、見たところ身長は175くらいありそうである。体型は鍛えているから筋肉質ではあるが、まあ普通。授業での発言を聞いている限り馬鹿ではない。私の知り合いの中では、この人以上に相応しい人など他に存在しなかった。
 だが。
「断わる」
 やはり、簡単にはいかなかった。
「事情は分かった。同情もする。だか俺はロミオなんて柄じゃない」
「お願いします。お礼なら弾みますので、」
「お前は、俺がそんな金に釣られるような男だと思ってるのか?」
 日吉くんの鋭い視線が私を射抜く。フェンス越しのその冷たい眼光が、今の私には痛かった。
「大体、当てもないのにそんな大見得切って、お前馬鹿じゃないのか?」
「……」
 冷たい正論が、鼓膜を通じて脳を攻撃した。
「やれないことを約束するなんて、その先輩たちを返って傷つけることになるかもしれないと考えなかったのか」
「それは……」
「三年生の引退ってのが引っ掛かる気持ちは分かるが、余程の馬鹿じゃなきゃそんな重たい『代役』なんて引き受けたがらねぇぞ」
 お前のそれは優しさじゃねぇ、ただのエゴだ。

 反論が少しも思い浮かばない、もっともな一言。
 だが日吉くんのその言葉はなぜか、今は考えなくてもいい過去を私の記憶から呼び起こしてしまった。

 降り積もる雪、たくさんの外国人、血まみれの足、泣き叫ぶ声、全身をまさぐる手、冷たい床。

 代用品。


「……ごめんなさい」
「は?」
 そうだ。私は、
「代役にもなれなくて、ごめんなさい」
 誰かの代わりもできない、出来そこないだ。

「おい、大丈夫か?」
 フェンスを両手で掴み、日吉くんが私の顔を覗きこんでくる。私はこんな情けない顔を人に見せる事もできずに、ただその場に立ち尽くして俯いていた。
 動けない、喋れない、踊れない。何もできないし、やらせてもらえない。始まる前から終わっている。目の前に雪景色が広がり、クスクスという他人の嘲笑う声が聞こえてきた。その声は外国人のもののようであって、よく知っているサークルも人たちのものにも聞こえた。母と副部長が泣いている声も聞こえる。私は何もできないで、俯いて、泣くことすらも叶わなかった。また、してしまったのだ。同じ過ちを繰り返した。
 できると思った。得意な演劇でなら、今度こそ代役ができると。求められたとおりのものを返せると思った。そうすれば、あの悪夢も意味を持つかもしれないと期待してしまったのだ。
 あの日、救えなかった。だから今先輩たちを救えれば、少しは許される気がした。

 できもしないことをまた安請け合いして、本当に、私は大馬鹿者だ。
 情けない。消えてしまいたい。


「ちょっと日吉。なに女の子泣かせてるの?」

 本当に、情けない。
 こんな無様な再会を、果たしてしまうなんて。


 声で分かった。それが誰なのか。日吉くんとその人がフェンス越しになにか言い合っているが、とりあえずこれだけは弁明したかった。私は断じて泣いてなどいない。ただ少し昔の記憶がフラッシュバックして気持ち悪くなっていただけだ。正気を徐々に取り戻し、ここが日本で、雪も降っておらず、笑い声も聞こえてこないことを確認した。そしてとにかくその場から逃げようと踏み出す、その時だ。
「はいストップ」
 腕を、その大きな手で掴まれる。
 振り返ったそこには、前に会った時と変わらぬ花のような笑顔があった。
「はなして……」
「俺は日吉みたいに冷たくないから、放してあげない」
 ふふっ、と春のそよ風のように笑う幸村精市さん。お願いだから放してほしかった。でないと何を口走るか分かったものではない。取り戻したはずの正気が段々と失われていく中で私はとにかくもがいたが、彼の右腕はビクともしなかった。
「とりあえず、お兄さんに話すだけ話してごらん?」
 こんな近距離で、そんな優しい声を出さないで。頼ってしまいたくなる。私は貴方と関わるわけにはいかない。そう、分かってはいるのに。この人がロミオを演じてくれたら、どんなに幸せだろう。どれほど、素敵な時間を過ごせるだろうと。期待する自分が醜く、浅ましくて滑稽で。けれど、それが紛れもない本心だったのだ。
「力になるよ、二十二歳の山田花子さん?」


 神様のような人だと思った。
 こんな愚かで能なしの私を、それでも許すと言ってくれたような気がしたのだ。


「助けて……」
「うん、いいよ」

 その時自分の口から漏れた『助けて』は、はたして舞台に関することだけだったのか。それは私にも分からなかった。
 私を強く掴んでいた腕が離れ、そっと頭の上に乗せられる。前に会ったときとは違い敬語ではないその口調が、くすぐったくて嬉しかったのは秘密だ。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -