困惑、疑惑、当惑
 握りしめた走り書きのメモ用紙と机に広がったパンフレットを何枚も見比べて、昼下がりのカフェで二人してため息を吐いた。
「もう、結婚式しなくていいんじゃないですか?」
「いや、でもね……あれは楽しみにしてるよ、お義父さん」
 両家の顔合わせも終わり、それからの土日はすべて式場探しで潰れていた。会場の広さや料理のクオリティも加味した上でのコスパ、利便性、何より日取り。それらを全て考慮して一番良さ気な会場を探したかったのだが、なかなかに難航している。というのも。
「やっぱ6月の大安は厳しいよね……」
「何でですか。梅雨時なんてジメジメして足場も悪いし結婚式には向かないでしょう」
 そう考える女性たちばかりなら日本でジューンブライドなんて普及しなかっただろう。とはいっても、楓が動くのがきつくならないギリギリのタイムリミットがおそらく6月だ。
 近所の人気な式場は軒並み全滅、ホテルは地味に高い、海沿いのゲストハウスなんて1年待ちの状態。辛うじて仮押さえできたのが近所のイタリアンとフレンチ。でもこの2つにはデメリットもあって、まず箱が狭い。つまり呼べる人間が限られてしまう。
「横浜の方ならもうちょっとありそうだけど、楓の体調もあんま良くないしね……」
「やっぱり止めましょう。今時ジミ婚なんて珍しい話じゃないです」
「そんなこと言って、見せられたドレスのパンフレット食い入るように見てたのはどなた?」
 きみが意外に変身願望が強いことは御見通しなんだぞ、と奥さんを黙らせる。この子は本心で式をしたくないわけじゃなくて、俺がこんなことで困ってるのが嫌なだけだ。楓は黙って俯くと、グレープフルーツジュースを口に含んだ。
 その時、机に置いていた俺のスマホがブルブルと震えた。また会社か、主任か、係長かとうんざりしながら覗き込むと、そこに表示されていた意外な名前に瞬きを数回してしまった。
「丸井?」
 表示されていたのは丸井ブン太の文字。通話ボタンを押してもしもしと出ると、軽快な妙技師の声が聞こえてきた。
『もしもし幸村くん? 今大丈夫?』
「うん、大丈夫だけど……どうしたの?」
 今日は日曜。余程のことが無い限りパティシエの丸井は仕事だ。
『いやな? 柳から幸村くんが式場選びで悩んでるって話聞いてさ? うちの店長にちょっと話したら一度うちに見学に来ないかって』
「えっ、丸井の職場って……確かカフェじゃなかったっけ?」
 何度か立海メンバーと行ったことがある。立海の近所にある古びた洋館を改装した店内で、白い壁とレトロなステンドグラスは確かにどこか教会めいていたような気もする。けど、たしかあそこはケーキや飲み物の取り扱いが主だったはず。食事も確かサンドイッチとかパスタとかその程度だったような。
『うん、だから結構カジュアルな披露宴にはなると思うんだけどさ。最近結構流行りだろぃ? カフェウェディング』
「へぇ? そうなの」
『晴れたら庭で即席ガーデンウェディングもできるぜぃ? 6月なら薔薇が綺麗に咲いてる』
 ちょっと想像してみる。青空の下、薔薇に囲まれて純白のドレスで微笑む楓。いいかもしれない。
『さ・ら・に! うちで挙げたら俺が幸村くんのためにウェディングケーキを作ります』
「マジか」
『マジだぜぃ』
 どう、天才的? と最近言わなくなった彼がそう言っているのを空耳したくなるほど、その提案は俺にとって毒だった。学生時代で俺はすっかり彼に胃袋を掴まれている。
 通話を切って楓にそう提案すると、とりあえずそのカフェと提携を結んでいる会社に連絡してみようということになった。問い合わせると横浜の事務所でプランナーと無料相談ができるとのことで、早速次の日行くことになった。
 とりあえず今日は、メールで送られてきた丸井の勤め先で以前行われた式のプランを眺めながら、招待客の人数シミュレーションをして時間を潰すことにする。アイスコーヒーを手持ち無沙汰に口に含みながら、テーブルに置いたスマホをスクロールした。
「部長と課長と主任は呼ぶとして、後は同じグループの先輩と同期かな。会社関係で10人も呼ぶとなると友人席かなり狭くしなきゃだよね。せめて立海メンバーは呼びたいんだけど……」
「親戚は何人くらいになりそうなんですか?」
「えっと、両親、妹家族、母方の伯母夫婦、父方の叔母夫婦、いとこは……来るかな? 10人から12人くらいを目安にかな。さすがにフランスの大叔父さんは来ないと思うけど」
「定員は50人。少し厳しいかもしれませんね」
「5人テーブルに立海7人座らせるのはさすがに無茶?」
「……無茶ではないと思いますが、それなら私の方を削りましょうか?」
「えっ? 楓の方もそう削れないでしょう?」
「父は一人っ子ですし、母も兄とは絶縁状態です。母は頑張って遠縁の親戚を呼ぼうとしてますけど、会った記憶もおぼろげな人を呼ばれてもって感じですし」
「……そう? でも、親戚の数でそんなに差つけてもいいものなのかな?」
「新郎側が多い分には問題ないらしいですよ。……両親には話通しておきますね」
「……そう。ありがとう。じゃあ、楓は親類4人……4人?」
「4人ですね、個人的には呼びたくないですけど」
「だね。……4人と、会社の人は? 何人呼ぶ?」
「……」
「……楓?」
 今まで流れていることにすら気づいていなかった、店内のボサノバBGMがいやに大きく聞こえた。楓がグレープフルーツジュースを飲み干す。溶けて角が丸くなった氷が僅かに音を立てた。
「会社の人、呼ばないでおこうと思って」
「……なんで?」
「……辞めようと思ってるんです、会社」
 キッチンから聞こえてくる食器を洗う音が、うるさいと思った。
「ど、どうしたの急に」
 上擦ってしまった声でそう聞き返すと、楓は無感情な黒い瞳で俺を上目遣いで一瞬見て、すぐに手元のグラスに視線を戻した。
「元々、妊娠したら辞めなければと思っていたんです」
「なんで? 楓の会社、確か産休育休の制度も結構しっかりしてただろう?」
 新卒の時に説明会だけ行った会社だったから、なんとなくの社風は憶えていた。楓の勤め先はいわゆる洗剤や石鹸などの類を扱うメーカーで、主婦の味方を謳うだけにその辺の企業よりは女性の働きやすい職場だったはずだ。
「去年、うちの部署で育休から戻ってきた人が3人いたんですが、時短勤務の上に子供が体調崩すとすぐに急休みするとかで、他の人間へのしわ寄せも激しいし戻ってきた本人たちも肩身が狭くてとても働き辛そうで」
「それで、自分はそうはなりたくないって?」
「まともに復帰できない人間の籍を置いておくくらいなら、来年の新卒に回してあげたいので」
 楓の言い分は殊勝に正論を塗りたくった至極まともな意見に聞こえた。しかし、どうにも腑に落ちないと騒ぐ自分がいたのも事実だ。
 切実なのは正直、お金の問題だった。この2年は独り暮らししたい欲求を懸命に抑えてコツコツ貯金してきた。元々は今年くらいから一人暮らしをしようと思って貯めていた資金だったが、この前夜中にスマホ片手にこの挙式から出産までの費用をざっと計算したところ、それも一瞬で吹き飛ぶことが分かった。
 住むところも探さなければならない。家電や家具も買い揃えて、子供のためのいろいろな用具もそろえなければ。
「……楓自身の意見は?」
「えっ?」
「職場の人のリアクションとか、来年の新卒とか、そういうのは抜きにして楓自身の気持ちはどうなの? 今の職場には復帰したくないの?」
 慎重に言葉を選んで問いかけてみると、やっと楓が俺を見てくれたような気がした。心細そうな表情だ。妊娠してからやけにそういう顔をすることが多くなった。
「……したくないです」
「そう、分かった。じゃあ俺は反対しないよ」
 自分が情けなくて、無性に惨めな気分になってきた。
 楓が辞めたがっている。彼女を専業主婦にする理由なんてそれだけで十分なはずなのに、俺がまだ未熟なばかりにあれやこれやと邪念が浮かぶ。ふたりの人間の人生を背負うという重圧を今更になって実感してきたのかもしれない。
 思わず漏れそうになるため息を懸命に堪えて最後の一口を飲み終えると、楓がか細い声でこう言った。
「……あの、再就職先は必ず見つけるので」
 俺に気を使っているのか、それとも本心で再就職したいと思っているのか。それすらも見分けられないで惨めさは加速するばかりだった。無理やり笑って「とにかく今は、元気な赤ちゃん産むことだけ考えよう」と言うのがやっとだった。

 週初め、もう全て準備は整っていたとでも言いたげに、楓は職場に辞表を提出したらしい。


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